CERN(欧州原子核研究機構)の科学者チームが、反物質の安全な輸送に向けて大きな一歩を踏み出した。今回、反陽子の代わりに陽子を使用した物ではあるが、反物質を運搬できるシステムを構築し、CERNの敷地内で運搬させることを成功させたのだ。この技術により、反物質をCERN外の研究施設に届け、高精度の研究が可能になる道が開かれると期待されている。
実現に近づく反物質輸送 ― 「BASE-STEP」装置がカギ
反物質は、通常の物質と接触すると対消滅によりエネルギーと化してしまうため、物理的な容器での保存や輸送が極めて困難である。この課題を解決するため、CERNの「BASE(Baryon Antibaryon Symmetry Experiment)」プロジェクトチームは、反物質を浮遊させて安全に輸送できる特別な装置「BASE-STEP」を開発した。この装置は、超伝導磁石と電磁場を利用して反物質を真空内で浮遊させ、振動に耐えられるように設計されている。
2024年10月、研究チームはこのBASE-STEPに70個の陽子を収容し、CERNのメインサイトを約4キロメートルにわたって輸送する実験を実施し、成功を収めた。陽子は、反陽子の「陽電荷版」として代用され、今回の実験により、将来的には同様の方法で反陽子を輸送する見通しが立った。実験の責任者であるCERNのChristian Smorra氏は「陽子でできるなら反陽子でも可能です」と述べ、必要なのはより優れた真空チャンバーだけだと強調した。
反物質の「遠隔」研究がもたらす科学的意義
反物質は通常の物質と電荷が逆である点以外は、基本的に鏡像のような関係にある。例えば、反陽子は陽子と質量は同じだが電荷が逆である。この特性により、物質と反物質が接触すると双方が対消滅してしまい、大量のエネルギーを放出して完全に消えてしまう。このため、反物質は短命であり、安定的に生成し、長期間保存する技術が欠かせない。
現在、反陽子を安定的に生成し保存できる唯一の施設がCERNの「反陽子減速器(AD)」である。このAD施設で生成された反物質は周辺の実験施設に供給され、特性が研究されている。しかし、AD施設内の加速器は磁場の変動を生じさせ、これが精密測定に悪影響を及ぼす。例えば、反陽子の磁気モーメント(粒子が持つ磁気特性の一つ)の詳細な測定においては、わずかな磁場の変動でも誤差が生じるため、さらなる精度を追求するにはAD施設外での研究が望まれていた。
未来の反物質輸送に向けた技術開発とその課題
今回の実験成功を受け、BASE-STEPプロジェクトは反物質輸送技術のさらなる改良に取り組んでいる。現在のBASE-STEP装置は約1000キログラムの重量があり、冷却には液体ヘリウムを使用している。輸送中の振動や加速、減速などの衝撃に対応するため、トラック輸送でも安定を保つよう設計されているが、輸送が長時間に及ぶと液体ヘリウムの供給が尽きるという問題も浮上している。この冷却が不足すると、超伝導磁石の温度が上昇し、反物質の浮遊状態が維持できなくなるため、輸送中にヘリウムが切れるリスクは大きな課題である。
今後の長距離輸送に備え、BASE-STEPチームはトラックに搭載する電源供給システムの開発も検討している。Smora氏は、最終的にドイツ・デュッセルドルフのハインリッヒ・ハイネ大学の精密実験施設に反物質を届け、従来の100倍の精度で研究を行う計画を述べている。また、長期的にはヨーロッパ中の実験施設への反物質輸送を目指し、このために必要な電源供給技術についても現在研究が進められている。
反物質輸送の未来とその可能性
反物質の輸送は、従来の科学技術ではほぼ不可能とされていたが、CERNの今回の成功によってその可能性が現実味を帯びてきた。これにより、物質と反物質の対称性に関する謎や宇宙の起源に関する理解が一層深まることが期待される。また、同様の技術は他の特殊な粒子の輸送にも応用可能であり、今後は様々な物理学実験において新たな発見の扉が開かれるかもしれない。
次のステップは、より精密な装置と長時間の輸送に耐えうる冷却システムの開発である。CERNが計画する次の輸送実験では、実際に反陽子を用いた長距離輸送が試みられ、成功すれば反物質研究の新たな時代が幕を開けるだろう。
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