スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETH Zurich)の研究チームが、振動を利用して量子情報を保持する機械式量子ビット(キュービット)の開発に世界で初めて成功した。従来の電気的・光学的手法とは異なり、物理的な振動を量子情報の担体とする新しいアプローチであり、量子コンピューティングの安定性向上や超高感度な重力センサーへの応用が期待される。
革新的な機械式量子ビットの仕組み
研究チームが開発した機械式量子ビットの最大の技術的革新は、量子力学的な振動状態の制御を可能にした二層構造のハイブリッドシステムにある。システムの土台となるのは400マイクロメートルの厚さのサファイア結晶で、その表面に窒化アルミニウムの微細なドーム状構造を形成している。このドーム状構造は、ギターの弦のように特定の周波数で振動する機械的共振器として機能する。
従来、このような機械的振動系を量子ビットとして利用することが困難だった主な理由は、振動のエネルギー準位が等間隔になってしまうという物理的な制約があったためである。量子ビットとして機能させるためには、「0」と「1」の状態を明確に区別できる不均等なエネルギー準位が必要不可欠だった。研究チームはこの課題を解決するため、第二のサファイア結晶上に超伝導量子ビットを配置し、二つの結晶を積層する革新的な方法を考案した。
この二層構造において、超伝導量子ビットの振動電流が機械的共振器に振動を誘起する際、両者の周波数を意図的にわずかにずらして相互作用させることで、ハイブリッドな量子状態を生成することに成功した。この相互作用により、本来等間隔だった機械的振動のエネルギー準位に非調和性が導入され、特定の二つのエネルギー準位を量子ビットの「0」と「1」の状態として利用することが可能になった。
さらに、この機械式量子ビットの特筆すべき点は、フォノンと呼ばれる準粒子を量子情報の担体として利用している点である。フォノンは物質中の振動エネルギーの量子化された単位であり、これを制御することで量子情報を保持・操作することが可能となった。この方式は、従来の電荷や光を用いる方式と比較して、より安定した量子状態の維持が期待できる新しいアプローチとなっている。実験結果は理論的なシミュレーションとも良く一致しており、システムが量子ビットとして制御可能であることが実証されている。
将来性と課題
今回開発された機械式量子ビットは、その開発の初期段階にもかかわらず、量子技術の未来に大きな可能性を示している。現時点での量子演算の精度(フィデリティ)は60%程度であり、99%以上を達成している最先端の超伝導量子ビットと比較すると改善の余地が大きい。しかし研究チームは、設計の最適化や新材料の導入によって、この性能を大幅に向上できる可能性を指摘している。
特筆すべき点として、この機械式量子ビットは約200マイクロ秒という比較的長い量子状態の保持時間(コヒーレンス時間)を実現している事が挙げられる。これは一般的な超伝導量子ビットの保持時間である100マイクロ秒を上回る成果である。現在の記録である1ミリ秒には及ばないものの、機械式という新しいアプローチでこの水準に達したことは、将来の発展可能性を強く示唆している。
さらに、この技術の最も革新的な応用可能性は、重力波などの微細な力の検出能力にある。従来の量子センサーは主に電磁力や定常的な重力場の検出に限られていたが、機械式量子ビットはギガヘルツ帯域の機械的な力を直接検出できる。この特性は、重力波検出器など、これまでにない精密な計測機器の開発につながる可能性を秘めている。
研究チームは現在、複数の機械式量子ビットを連携させ、基本的な計算処理を実現することを目指している。この取り組みは、実用的な量子コンピューティングへの重要なステップとなる。しかし、研究リーダーのヤン・ユー氏が指摘するように、この技術はまだ「子供のような」発展段階にある。約30年の研究の歴史を持つ超伝導量子システムと比較すると、機械式量子ビットの実用化にはさらなる技術的革新と継続的な研究開発が必要とされる。
また、この革新的な研究成果は、ETHチューリッヒ大学が中国を含む特定の国からの学生受け入れに新たな制限を設けるという、微妙な政治的な文脈の中で達成された。このことは、国際的な科学協力と安全保障上の懸念のバランスをとる必要性という、現代の科学研究が直面する課題も浮き彫りにしている。
論文
- Science: A mechanical qubit
参考文献
- IEEE Spectrum: Scientists Make First Mechanical Qubit
研究の要旨
量子化された励起子間の強い非線形相互作用は、ボソニック振動子モードに基づく量子技術にとって重要な資源であるが、ほとんどの電磁的・機械的非線形性は、非線形効果を単一量子レベルで観測するには弱すぎる。 この制限は、電磁共振器を原子や超伝導量子ビットのような他の強い非線形量子系に結合させることによって克服されてきた。 我々は、固体機械系における単一フォノン非線形領域の実現を実証する。 我々のシステムにおける単一フォノンの非調和性は、デコヒーレンス率を6.8倍も上回り、このシステムを機械的量子ビットとして使用し、初期化、読み出し、単一量子ビットゲートを実証することを可能にした。 われわれのアプローチは、量子シミュレーション、センシング、情報処理のための強力な量子音響プラットフォームを提供する。
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