マンチェスター大学の研究者らは、メルボルン大学と共同で、スケーラブルな量子コンピューター用の高性能量子ビット・デバイスの製造を可能にする超高純度シリコンの製造に成功した。超高純度なシリコンと言えば、半導体製造で用いられていることが知られているが、これは、半導体製造で求められるような純度とはまた次元の異なる物で、“シリコンの中の更に特定のシリコンを選別する”ようなレベルの話となる。
量子ビットは扱いが難しい
古典的なコンピュータのビットは、データを1か0のどちらかとしてエンコードするが、量子コンピュータの量子ビットは、この2つの状態の重ね合わせになることができる。つまり、「コヒーレンス」として知られる量子状態を実現し、計算処理中に1と0の両方の並行して占有することができるのだ。量子ビット10個で通常のコンピュータの1,024ビットと同じ処理能力を持つ。
この量子ビットの特有の状態を活用した量子コンピュータは、現在世界最速のスーパーコンピューターが何万年もかかるような膨大な計算を瞬時に解いてしまうような革命的な計算能力を持つ物と考えられているが、そのためには約100万量子ビットが必要になると科学者たちは述べている。ちなみに、現在最大の量子コンピュータでも、取り扱う量子ビットは1,000量子ビット程度だ。この量子ビットを増やすのが困難を極める。
量子コンピュータの計算を担う要素である量子ビットは、非常に繊細であり、外部の温度変化などの干渉によって容易に状態が変化してしまい、情報を失ってしまう。そうならないために、量子コンピュータは絶対零度近くまで冷やす必要があるのだ(量子コンピュータとして紹介される画像を見ると巨大なそびえたつ金属の塔のような物が見られるのは、冷却器である)。
つまり、何百万もの量子ビットを持つ量子コンピューターがあったとしても、エラー訂正技術を使っても、その多くは冗長であり、マシンを極めて非効率なものにしてしまうということだ。
シリコン量子コンピューターの新たな道を切り拓く
量子ビットは通常、タンタルやニオブのような超伝導金属から作られる。これらは絶対温度に近い低温にすることで、無限に近い導電性と無限に近い抵抗を持っているからだ。
だが、シリコン、ガリウム、ゲルマニウムなどの、従来型コンピュータに用いられている半導体材料から量子ビットを作る事も研究が行われている。量子コンピュータスタートアップのQuEraによれば、こうした半導体材料を用いることは、コヒーレンス時間を長くすることや、そもそも製造コストが低いこと、比較的高温で動作するなどのメリットがあるからだ。だが、こうした半導体材料には不純物が多く、これが原因でコヒーレンスを破るデコヒーレンスを引き起こしてしまうため、これまで信頼性が低かった。逆に言えば、不純物を取り除くことが出来れば、新たな量子ビットとして遥かに有望な物となる。
今回、マンチェスター大学とメルボルン大学の研究者らが成し遂げたのは、この半導体素材として地球に無尽蔵に埋蔵されているシリコンの純度をかつてないほどに高め、量子ビットとして使う道を切り拓くという意味で、実に画期的な物なのだ。
プロジェクトの実験作業を行ったRavi Acharya氏は、「シリコン量子コンピューティングの大きな利点は、現在の一般的なコンピュータで数十億のトランジスタから成る電子チップを製造するのと同じ技術を使ってシリコンベースの量子デバイス用キュービットを作成できることです。高品質のシリコンキュービットを作る能力は、これまでのシリコン原材料の純度によって一部制限されていましたが、ここで示された突破口の純度がこの問題を解決します」と、この成果の意義を説明している。
この新しい研究では、科学者たちはシリコン28(Si-28)から量子ビットを作ることを提案した。シリコン28は、天然のシリコンに含まれる不純物を取り除いた「世界で最も純粋なシリコン」である。このシリコンを使った量子ビットは故障が少なく、ピンヘッドの大きさまで製造できるという。
天然シリコンは通常、Si-28、Si-29、Si-30という3つの同位体、つまり質量の異なる原子で構成されている。天然シリコンは、そのメタロイド特性により従来のコンピューティングではうまく機能するが、量子コンピューティングで使用する場合には問題が生じる。
特に、天然シリコンの5%を占めるSi-29は、デコヒーレンスと情報の損失につながる「核のフリップフロップ効果」を引き起こす。今回の研究では、科学者たちはSi-29とSi-30原子を含まないシリコンを設計する新しい方法を開発することで、この問題を回避した。
より安価でスケーラブルな量子コンピューティング
マンチェスター大学の先端電子材料の教授であるRichard Curry氏は次のように述べている。「我々が行ったことは、シリコンベースの量子コンピュータを構築するために必要な重要な『ブロック』を効果的に作り出すことでした。これは人類にとって変革的な可能性を持つ技術を実現可能にするための重要なステップです。この技術は、気候変動の影響に対処する解決策や医療課題に取り組むなど、複雑な問題に対する解決策を見つける能力を私たちに与えるかもしれません」。
シリコンベースの量子コンピュータのコンポーネントは、理論的には、現在の半導体製造技術が流用でき、他の種類の量子ビットよりもはるかに簡単に製造することができる。そのため、「シリコンを用いた量子コンピュータは、競合する方法よりもはるかに迅速に100万量子ビットの領域まで拡張することができる」、と研究者らは述べている。
メルボルン大学の物理学教授であるDavid Jamieson共同研究員は、声明の中で次のように述べている。「私たちの技術は、人工知能、安全なデータおよび通信、ワクチンおよび薬剤設計、エネルギー使用、物流および製造を含む社会全体での段階的な変化を約束する信頼性の高い量子コンピュータを実現する道を開きます。今回、極めて純粋なシリコン28を製造できるようになったので、次のステップは、多数の量子ビットの量子コヒーレンスを同時に維持できることを実証することです。わずか30量子ビットの信頼性の高い量子コンピューターは、アプリケーションによっては現在のスーパーコンピューターの能力を凌駕するでしょう」。
論文
- Communications Materials: Highly 28Si enriched silicon by localised focused ion beam implantation
参考文献
- The University of Manchester: Quantum breakthrough: World’s purest silicon brings scientists one step closer to scaling up quantum computers
研究の要旨
mK温度のシリコン結晶内の固体スピン量子ビットは、完全にスケーラブルな量子計算プラットフォームの実現に大きな可能性を示している。天然シリコンでは、核スピンがゼロでない29Si同位体との結合により、量子ビットのコヒーレンス時間が制限されている。本研究では、45keVの28Si集束イオンビームを1×1019ions cm-2以上のフルエンスで照射することにより、天然シリコンウェハーの局所的な体積の29Siを枯渇させる方法を紹介する。照射体積のナノスケール二次イオン質量分析では、残存29Si濃度は2.3±0.7ppmまで低下し、残存CとOの濃度はインプラントされていないウェハのバックグラウンド濃度と同程度であった。アニール後、透過型電子顕微鏡の格子像から、深さ200 nm以上に及ぶインプラントされたままのアモルファス富化体積の固相エピタキシャル再結晶化が確認された。
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