ハーバード大学の研究チームが、超伝導マイクロ波量子ビットを光信号で制御する画期的な「光子ルーター(量子トランスデューサー)」を開発した。この技術は、量子コンピューターの大きな課題であるスケーラビリティ問題を克服し、既存の光ファイバー網を利用した分散型量子ネットワーク実現への重要な一歩となる。
光で繋ぐ量子コンピューター:初の光制御を実現
量子コンピューティングの分野で、異なる量子システム間の効率的な通信は長年の課題であった。特に、有望なプラットフォームの一つである超伝導マイクロ波量子ビット(qubit)は、その動作に極低温環境と、それに伴う大型の冷却装置やマイクロ波制御配線を必要とし、大規模化(スケーリング)に大きな障壁があった。
今回、ハーバード大学 ジョン・A・ポールソン工学・応用科学スクール(SEAS)のMarko Lončar教授が率いる研究チームは、この課題に対する画期的な解決策を提示した。「光子ルーター(photon router)」とも呼ばれる新しいマイクロ波-光量子トランスデューサー(microwave-optical quantum transducer)を開発したのだ。
このデバイスは、量子コンピューターの基本単位である超伝導マイクロ波量子ビットと、光ファイバー通信で使われる光子(photon)との間で、エネルギーのやり取りを可能にする。特筆すべきは、このデバイスが史上初めて、光信号のみを用いて超伝導マイクロ波量子ビットのコヒーレント制御に成功した点である。これにより、遠隔地から光ファイバーを通じて送られてきた光信号で、量子ビットを操作できるようになった。

実験では、この光子ルーターを用いて、1.18%の変換効率と低い付加マイクロ波ノイズが記録された。これは、量子情報を高精度に保ちながらマイクロ波と光の間で変換できる可能性を示唆している。
なぜ光制御が重要なのか?:マイクロ波量子ビットの課題と光の利点
超伝導マイクロ波量子ビットは、スケーラビリティ、安定性、既存の製造プロセスとの互換性といった利点から、有力な量子コンピューティングプラットフォームとして注目されている。量子ビットは、情報を重ね合わせ状態で保持できるナノ加工された回路である。
しかし、その最大の課題は、動作に極低温(希釈冷凍機が必要なレベル)を維持しなければならない点にある。将来的に数百万量子ビット規模の量子コンピューターが実現すると、必要な冷却装置やマイクロ波制御ケーブルは膨大かつ管理困難になる。マイクロ波信号のみでシステムをスケールさせることは、大きなボトルネックとなっていた。
一方、光ファイバー通信で用いられる光子は、以下のような利点を持つ。
- 低損失: 長距離伝送でもエネルギー損失が少ない。
- 高帯域幅: 大量の情報を伝送できる。
- 耐ノイズ性: マイクロ波に比べて熱ノイズの影響を受けにくい。
- 既存インフラ: 世界中に張り巡らされた数百万マイルの光ファイバー網を利用できる可能性がある。
研究チームが開発したトランスデューサーは、これらの光の利点を活用し、マイクロ波量子ビットの課題を克服することを目指している。論文の筆頭著者である大学院生のHana Warner氏は、「これらのシステム(量子ネットワーク)の実現はまだ先ですが、そこに到達するためには、さまざまなコンポーネントを拡張し、接続するための実用的な方法を見つけ出す必要があります。光子は情報の優れたキャリアであり、低損失で高帯域幅を持つため、そのための最良の方法の一つです」と述べている。
小型チップ上の革新:デバイスの仕組みと将来性
研究チームが開発したデバイスは非常に小型で、長さ約2cmのチップ上に搭載された、長さわずか2mmの「ペーパークリップ」のような形状をしている。このデバイスの基盤材料にはニオブ酸リチウム(lithium niobate)が用いられており、その特性を利用して、1つのマイクロ波共振器と2つの光共振器を結合させている。この結合により、マイクロ波エネルギーと光エネルギーの間で効率的な変換が可能になる。

この設計により、従来量子ビットの制御に必要だった、かさばり、熱も発生させるマイクロ波ケーブルが不要となり、システムの小型化と低発熱化に貢献する。マイクロ波通信固有の信号損失の大きさやノイズ感受性の高さといった問題も、光ファイバーを用いることで軽減される。
このデバイスは、量子ビットの制御だけでなく、量子ビットの状態を読み出したり、量子コンピューターのノード間で量子情報を安定した光パケットに変換して直接リンクを形成したりするためにも利用できる可能性がある。研究チームはこのブレークスルーにより、「低損失・高出力の光ネットワークで接続された超伝導量子プロセッサーが存在する世界」に近づいたとしている。
Lončar教授は、「我々のトランスデューサーの次のステップは、光を使ってマイクロ波量子ビット間のエンタングルメント(量子もつれ)を確実に生成し、分配することになるでしょう」と今後の展望を語った。
この研究は、Rigetti Computing社が提供した超伝導量子ビットプラットフォーム上で検証された。シカゴ大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者も協力した。デバイスのチップは、ハーバード大学のナノスケールシステムセンター(Center for Nanoscale Systems)で作製された。
論文
- Nature Physics: Coherent control of a superconducting qubit using light
参考文献
- Harvard School of Engineering and Applied Sciences: A router for photons