現在研究が進められている「ミラー生命体(Mirror Life)」の開発に対し、ノーベル賞受賞者を含む世界的な科学者グループが深刻な懸念を表明した。自然界に存在する分子の鏡像から作られる人工生命体が、人類や生態系に対して前例のない脅威となる可能性があるとして、研究の即時停止を求める提言を科学誌『Science』に発表した。
ミラー生命体がもたらす未知の脅威
生命の根本的な特徴の一つに、その構成分子の「キラリティ」がある。ユタ大学の生化学教授Michael Kay博士は、これを人間の手に例えて説明する。DNA、タンパク質などの生体分子は、右手と左手のように鏡像関係にある二つの形態を持ち得るが、地球上の生命は数十億年前から、タンパク質では左手型、DNAでは右手型の分子を一貫して使用してきた。
ミラー生命体は、この自然界の約束事を人工的に反転させる試みである。ピッツバーグ大学のVaughn Cooper教授らの研究グループが警告するのは、このような人工的な生命体が既存の生命システムと相互作用する際の予測不可能性である。通常の免疫系は、特定のキラリティーを持つ分子を認識して機能するため、鏡像関係にある分子で構成された病原体を適切に認識できない可能性が高い。実験データによれば、ミラータンパク質は抗原提示のための分解を免れ、抗体産生などの重要な適応免疫応答を確実に引き起こすことができないという。
さらに深刻なのは、こうして作成されたミラーバクテリアが自然界の制御メカニズムから逃れる可能性が指摘されていることだ。通常のバクテリアの増殖を抑制する天敵として、バクテリオファージ(細菌を攻撃するウイルス)や他の捕食者が存在する。しかし、これらの天敵も特定のキラリティーを持つ分子を認識して機能するため、ミラーバクテリアに対しては効果を持たない可能性が高い。既存の抗生物質による制御も期待できず、一度環境中に放出されれば、侵略的外来種のように制御不能な形で拡散する危険性をはらんでいる。
このような特性を持つミラーバクテリアが環境中で生存可能となった場合、人間、動物、植物の体内に侵入し、免疫系による防御を回避しながら増殖を続け、重篤な感染症を引き起こす可能性がある。特に懸念されるのは、多くの生物種に対して病原性を持つ可能性が指摘されていることだ。通常の病原体は特定の宿主に適応して進化するが、ミラーバクテリアの場合、分子のキラリティーという基本的な違いにより、より広範な生物種に感染する可能性が指摘されている。
深刻化する可能性のある地球規模の脅威
ミラー生命体の開発は、現時点では技術的な障壁が大きく、完全なミラーバクテリアの作成には早くても10年から30年程度を要すると見られている。しかし、ブラウン大学のパンデミックセンター上級顧問Wilmot G. James教授らは、この時間的余裕を、予防的な対策を講じる機会として捉えるべきだと指摘する。
特に懸念されているのは、技術の進歩に伴う実現可能性の着実な高まりである。合成生物学の分野では、生細胞の人工的な構築に向けた研究が急速に進展している。また、複雑な鏡像分子の化学合成技術も向上しており、キロベース長の核酸や大型の機能性タンパク質の合成が可能になってきている。これらの要素技術の発展は、将来的にミラーバクテリアの作成を可能にする土台となる可能性がある。
ミラー生命体が環境中に放出された場合の影響については既に述べたが、深刻なのは、一度環境中に定着した場合の進化的な可能性だ。ユタ大学の研究グループは、ミラーバクテリアが自然界の栄養源を利用して増殖する能力を獲得する可能性を指摘している。例えば、通常の糖質であるD-グルコースを利用できるように進化する可能性があり、そうなれば増殖の制約が大きく緩和されることになる。
この脅威は、特に発展途上国に深刻な影響を及ぼす可能性がある。新型コロナウイルスのパンデミックが示したように、新たな生物学的脅威は、医療体制の脆弱な地域により大きな打撃を与える傾向がある。ミラー生命体による感染症が発生した場合、効果的な対策には高度な医療設備や、人々を隔離するための施設が必要となる可能性があるが、そのような資源は先進国に偏在している。
予防的な規制枠組みの必要性
ノーベル賞受賞者のGreg Winter教授を含む38名の科学者グループは、ミラー生命体の開発に関する規制について、極めて異例の予防的アプローチを提唱している。その特徴的な点は、研究開発の初期段階から、包括的な規制の枠組みを構築しようとする点にある。
この提言の背景には、過去の教訓が色濃く反映されている。科学者グループは、薬剤耐性菌や気候変動、大気汚染などの問題を例に挙げ、これらの課題に対して世界が十分な速さで対応できなかったことを指摘する。特に、これらの問題の多くは先進国の活動に起因しながら、その影響は発展途上国により深刻な形で及んでいることを強調している。ミラー生命体の開発においては、このような不均衡な影響の再現を防ぐ必要があるとしている。
具体的な規制の枠組みとして、科学者グループは段階的なアプローチを提案している。まず最初のステップとして、ミラーゲノムやミラータンパク質の全体セットの生産、あるいはミラー細胞の構築を可能にする機能的な代替物の製造を防止する措置を講じることを推奨している。また、ミラーオリゴヌクレオチドや前駆体の購入を監視するシステムの構築や、ミラー生命体の作成を防止するための法規制の整備も検討すべきとしている。
一方で、科学者グループは規制が科学の発展を不当に妨げることがないよう、慎重な線引きも提案している。例えば、科学研究や治療応用のための個別のミラー分子の化学合成については、現行の研究を制限する必要はないとしている。HIVなどの感染症に対する新しい治療薬の開発につながる可能性があるミラータンパク質の研究などは、むしろ発展途上国を含む世界中に普及させるべき技術であると位置づけている。
また、規制の枠組み作りにおいては、先進国と発展途上国の科学者や政策立案者が対等な立場で参画することの重要性も強調されている。これは、ミラー生命体が引き起こす可能性のある問題が、既存の国家間の不平等をさらに悪化させる可能性があるという認識に基づいている。仮にミラー生命体による感染症のパンデミックが発生した場合、人間や生命維持システムを収容する隔離施設の建設など、高額な対策が必要となる可能性があり、そのような資源を持たない国々により深刻な影響が及ぶことが懸念されている。
科学者グループは2025年からこれらの課題について国際的な議論を開始する予定であり、研究コミュニティ、政策立案者、研究資金提供機関、産業界、市民社会、一般市民を含む幅広いステークホルダーの参加を呼びかけている。この取り組みは、前例のないリスクを伴う技術に対して、人類社会が責任ある対応を取るための重要な試金石となることが期待されている。
Sources
- Science: Confronting risks of mirror life
- University of Utah: “Mirror Life” is Still a Hypothetical. Here’s Why it Should Probably Stay That Way.
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