Googleが量子コンピューティング分野で再び注目を集める画期的な成果を発表した。同社の研究チームは、67量子ビットのSycamoreチップを用いた実験で、現存する古典的スーパーコンピューターの能力を超える計算を実現したと報告している。この成果は、量子コンピューターが特定のタスクにおいて従来のコンピューターを凌駕する「量子優位性」の新たな証明となる可能性がある。
Googleの新たな量子コンピューティング実験が古典コンピューターの限界を突破
Nature誌に掲載された論文で、GoogleのAlexis Morvanらの研究チームは、ランダム回路サンプリング(RCS)と呼ばれる手法を用いて、量子プロセッサーの性能を評価した。この実験では、67量子ビットのシステムで32サイクルの深さを持つ量子回路を実行し、その結果が現在のスーパーコンピューターの能力を超えていることを示した。
研究チームは論文で次のように述べている。「弱ノイズ相において67量子ビットで32サイクルのRCS実験を提示することで、我々の実験の計算コストが既存の古典的スーパーコンピューターの能力を超えていることを実証した。我々の実験的および理論的な研究は、現在の量子プロセッサーで到達可能な、安定した計算複雑性を持つ相への遷移の存在を確立した」。
この成果は、2019年にGoogleが初めて量子優位性を主張して以来の大きな進展である。今回の実験は、量子コンピューターが実用的な問題解決に向けて着実に進化していることを示している。
量子位相遷移の発見とその意義
今回の研究で特に注目すべき点は、量子システムにおける二つの重要な位相遷移の発見である。研究チームは、クロスエントロピーベンチマーキング(XEB)という手法を用いて、これらの遷移を実験的に観測することに成功した。
一つ目の遷移は、量子回路のサイクル数に依存する動的な遷移である。これは、量子状態の出力分布が集中した状態から、広く分散した状態へと変化する点を示している。この遷移は、量子計算の複雑性が増大する過程を反映している。
二つ目の遷移は、サイクルあたりのエラー率によって制御される量子位相遷移である。研究チームは、ノイズの強さと量子的な相関の成長速度の競合関係を明らかにした。この遷移点を境に、システムは「強ノイズ相」から「弱ノイズ相」へと移行する。
弱ノイズ相では、量子相関が系全体に広がり、計算の複雑性が維持される。一方、強ノイズ相では、システムは複数の非相関な部分系の積で近似できるようになり、古典的なアルゴリズムによる模倣が可能になる。
研究チームは、これらの位相遷移を理論的に説明するための統計モデルも提案している。この発見は、ノイズの影響下にある量子システムの振る舞いを理解する上で重要な進展であり、実用的な量子コンピューターの開発に向けた指針を提供するものである。
67量子ビットSycamoreチップの性能と古典コンピューターとの比較
今回の実験で使用された67量子ビットのSycamoreチップは、Googleの量子コンピューティング技術の最新の成果を体現している。このチップは、超伝導量子ビットを2次元格子状に配置した構造を持ち、高度な制御と読み出し精度を実現している。
研究チームは、このSycamoreチップを用いて32サイクルの深さを持つランダム量子回路を実行した。その結果、システムの忠実度(fidelity)は約0.1%(1.5×10^-3)という値を達成した。これは、2019年の53量子ビットを用いた実験と比較して、回路の複雑さ(量子ゲート数)を2倍以上に増加させながらも、同等の忠実度を維持できたことを意味する。
古典的なスーパーコンピューターとの比較において、研究チームは最新のテンソルネットワーク収縮法を用いた計算コストの見積もりを行った。その結果、現在最高性能のスーパーコンピューターFrontierを使用しても、今回の量子実験と同等の計算を行うには約1万年かかると推定された。さらに、全てのストレージをメモリーとして使用し、帯域幅の制限を無視するという非現実的な仮定の下でも、12年の計算時間が必要とされる。
これらの結果は、Googleの量子プロセッサーが特定のタスクにおいて、現存する最高性能の古典コンピューターを大きく上回る計算能力を持つことを示している。ただし、研究チームは、この優位性がランダム回路サンプリングという特殊なタスクに限定されていることを認識しており、実用的な問題への応用にはさらなる研究が必要であると述べている。
量子ノイズの影響と低ノイズ領域の達成
量子コンピューターの実用化に向けた最大の課題の一つは、量子ノイズの制御である。ノイズは量子状態の脱コヒーレンスを引き起こし、計算精度を低下させる要因となる。今回の研究では、この量子ノイズの影響を詳細に分析し、低ノイズ領域での操作を実現することに成功した。
研究チームは、ノイズの影響を調べるために「弱リンクモデル」と呼ばれる新しい実験手法を開発した。このモデルでは、量子システムを二つの部分系に分割し、それらの間の結合強度を制御することで、ノイズと量子相関の競合関係を詳細に観察することができる。
実験結果は、サイクルあたりのエラー率が約0.47を下回る領域で、システムが低ノイズ相に入ることを示した。この領域では、量子相関が系全体に広がり、計算の複雑性が維持される。一方、エラー率がこの閾値を超えると、システムは強ノイズ相に移行し、古典的なアルゴリズムによる模倣が可能になる。
Sycamoreチップの性能改善により、研究チームは67量子ビットシステムを低ノイズ相で操作することに成功した。具体的には、平均して99.72%の忠実度を持つ2量子ビットゲートを実現し、読み出しエラーを1.3%まで低減させた。これらの改善により、32サイクルという深い量子回路の実行が可能となった。
この低ノイズ領域の達成は、量子コンピューターの実用化に向けた重要な一歩である。ノイズの影響を抑えつつ、量子的な振る舞いを維持できる領域を特定したことで、今後の量子デバイスの設計と最適化において基調な指針を提供している。
今回の成果が量子コンピューティング分野に与える影響
Googleの研究チームによる今回の成果は、量子コンピューティング分野に大きな影響を与えると考えられる。特に、量子位相遷移の発見と低ノイズ領域での操作の実現は、今後の研究開発の方向性を示す重要な指標となるだろう。
まず、この研究は量子優位性の概念をより具体化し、その達成条件を明確にした。ランダム回路サンプリング(RCS)が量子優位性のベンチマークとして有効であることが再確認され、さらに複雑な計算タスクへの道筋が示された。
Googleの量子コンピューティング部門の責任者であるSergio Boixo氏は、Nature誌のインタビューで次のように述べている。「RCS、つまり最もシンプルなアプリケーションで優位性を示せないのであれば、他のどのアプリケーションでも優位性を示すことはできないと思います」。
この見解は、RCSが量子コンピューターの能力を評価する上で重要な指標であることを強調している。同時に、より実用的な問題解決に向けた次のステップの必要性も示唆している。
研究チームは、今後の課題として、近未来のノイズのある量子プロセッサーに対する実用的なアプリケーションの開発を挙げている。その候補の一つとして、証明可能なランダム性生成が言及されている。これは、暗号技術や科学シミュレーションなど、高品質な乱数を必要とする分野に貢献する可能性がある。
また、今回の研究で開発された技術や理論的枠組みは、量子エラー訂正や量子アルゴリズムの最適化など、関連分野の発展にも寄与すると期待される。特に、ノイズの影響下での量子システムの振る舞いに関する深い理解は、より堅牢な量子デバイスの設計につながるだろう。
一方で、この成果は量子コンピューターと古典コンピューターの競争をさらに加速させる可能性もある。古典アルゴリズムの改良や新たなシミュレーション技術の開発が促進され、計算科学全体の発展に寄与することが予想される。
論文
参考文献
- HPC Wire: Google Reports Progress on Quantum Devices beyond Supercomputer Capability
- Nature: Google uncovers how quantum computers can beat today’s best supercomputers
研究の要旨
周囲の環境との望ましくない結合は、量子プロセッサーにおける長距離相関を破壊し、公称利用可能な計算空間におけるコヒーレントな発展を妨げる。 このノイズは、近未来の量子プロセッサの計算能力を活用する際の顕著な課題である。 クロスエントロピー・ベンチマークを用いたランダム回路サンプリングのベンチマークにより、コヒーレントに利用可能なヒルベルト空間の有効サイズを推定できることが示されている。 しかしながら、量子アルゴリズムの出力はノイズによって矮小化される可能性があり、古典的な計算の詐称の影響を受けやすい。 ここでは、ランダム回路サンプリングのアルゴリズムを実装することにより、クロスエントロピー・ベンチマークで2つの相転移が観測可能であることを実験的に示し、それを統計モデルで理論的に説明する。 最初の相転移はサイクル数の関数としての動的相転移であり、ノイズのない場合の反集中点の継続である。 2つ目は、サイクルごとの誤差によって制御される量子相転移である。これを解析的、実験的に同定するために、弱いリンクモデルを作成し、ノイズ対コヒーレント進化の強さを変化させることを可能にする。 さらに、弱ノイズ相における67量子ビットの32サイクルでのランダム回路サンプリング実験を示すことにより、我々の実験の計算コストが既存の古典的スーパーコンピュータの能力を超えていることを実証する。 我々の実験的・理論的研究により、現在の量子プロセッサーで到達可能な、安定で計算量の多い複雑な位相への遷移が存在することが立証された。
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