量子コンピュータの実用化に向けた重要な進展があった。マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームは、超伝導量子ビットを使用して99.998%という史上最高の単一量子ビット忠実度を達成したと発表した。この成果は、量子誤り訂正の実現に必要とされる高精度な量子操作の実現に向けた重要なマイルストーンとなる。
革新的な2つの制御技術が鍵に
研究チームは、フラクソニウム(fluxonium)と呼ばれる超伝導量子ビットを使用し、量子ビットの制御精度を飛躍的に向上させる2つの画期的な技術を開発した。
1つ目の技術である「円偏光マイクロ波駆動」は、電荷と磁束という2つの独立した制御信号を巧みに組み合わせることで実現された。通常の量子ビット制御では、単一の制御信号を使用するため、量子ビットの自然な振動とは逆向きの「反回転効果」が不可避的に発生し、これが制御精度を低下させる要因となっていた。研究チームは、電荷と磁束の制御信号の位相差を精密に調整することで、光の円偏光に類似した制御場を生成。これにより、反回転効果を本質的に抑制することに成功した。
2つ目の技術である「コメンシュレートパルス」は、量子ビットの制御タイミングを最適化する革新的なアプローチだ。量子ビットには「ラーモア周期」と呼ばれる自然な振動の周期が存在する。研究チームは、制御パルスの照射タイミングをこのラーモア周期に正確に同期させることで、反回転効果による誤差を系統的に補正できることを発見した。この技術の特筆すべき点は、追加の較正作業を必要とせず、様々な量子システムに応用可能な汎用性の高さにある。
研究チームのリーダーであり、MIT Engineering Quantum Systems(EQuS)グループのWilliam D. Oliver教授は、「これらの技術は、物理学と電気工学の基本概念を融合させることで生まれました。特に円偏光マイクロ波駆動は、2023年のノーベル物理学賞で注目された超高速アト秒パルス光に関する考え方を応用しています」と説明する。
研究チームは、これら2つの技術を組み合わせることで、単一量子ビットゲートにおいて99.998%という極めて高い忠実度を達成。この値は、将来の大規模量子コンピュータの実現に不可欠な量子誤り訂正を効率的に実装するための重要な指標の一つとされている99.9%を大きく上回るものだ。
ちなみに、今回の成果は、2023年9月にMITが同様に実証した99.92パーセントの2量子ビットゲート忠実度を補完するものである。
量子誤り訂正への道を開く
量子コンピュータの実現に向けた最大の課題の一つが、量子ビットの脆弱性だ。量子ビットは外部からのノイズや制御の不完全性の影響を受けやすく、これが量子演算の精度を低下させる原因となっている。この問題を解決するために不可欠とされているのが「量子誤り訂正」という技術だ。
この研究を主導したDavid Rower博士(現Google Quantum AI研究所)は、「フラクソニウム量子ビットの特徴的な低周波数動作は、これまで課題とされてきました。しかし、私たちの実験は、この特性を逆に活かせることを示しています」と説明する。実際、開発された制御技術により、量子ビットの低周波数動作にもかかわらず、極めて高速かつ高精度な量子ゲート操作が可能となった。
研究チームのLeon Ding博士(現Atlantic Quantum社)は、「私たちが実現したゲートは、全ての超伝導量子ビットの中で最も高速で高忠実度なものの一つです。この実験結果は、フラクソニウムが基礎物理学の探求だけでなく、工学的な性能の面でも優れた特性を持っていることを明確に示しています」と強調する。
特に注目すべきは、この成果がGoogleの最新の研究成果と相補的な関係にあることだ。Googleは最近、量子誤り訂正の閾値を初めて超えたWillowチップを発表した。Oliver教授は、「Googleの成果に続く今回の結果は、より高性能な量子ビットが量子エラー訂正の実装に必要なオーバーヘッドを大幅に削減できることを示唆しています」と説明する。
実際、量子誤り訂正の実装には、論理量子ビット1個を構成するために多数の物理量子ビットが必要となる。その数は量子ビットの性能に大きく依存し、忠実度が高ければ高いほど、必要な物理量子ビットの数を削減できる。今回達成された99.998%という忠実度は、より効率的な量子誤り訂正の実現に向けた重要な一歩となる。
次世代の量子デバイスへの応用
今回開発された制御技術の重要性は、その広範な応用可能性にある。研究チームが開発した「コメンシュレートパルス」技術は、プラットフォームに依存しない汎用的な手法であり、様々な種類の量子システムに適用できる可能性を秘めたものだ。
特に注目すべきは、この技術が低周波量子ビットの新たな可能性を切り開いた点だ。従来、フラクソニウムなどの低周波量子ビットは、その低い動作周波数が高速なゲート操作の障害になると考えられてきた。しかし研究チームは、この特性を逆に活かす方法を見出した。「反回転効果の問題が解決されたことは、低周波量子ビットにとって画期的な進展です」とRower博士は説明する。
この技術は、複合量子ビットシステムへの応用も期待される。例えば、クロスレゾナンス方式による量子ビット間の相互作用や、パラメトリック方式による量子ゲートの実装など、低周波の相互作用を利用する様々な量子操作技術への応用が考えられる。「私たちの手法は、回路量子電磁力学における強い駆動効果の制御に対する直接的な戦略を確立しました」とDing博士は強調する。
さらに、この研究成果は半導体スピン量子ビットの分野にも影響を与える可能性がある。研究チームによれば、開発された技術は超高速「アト秒」パルス光に関する最新の物理学的知見を活用しており、この概念は半導体量子ビットの超高速制御にも応用できる可能性があるという。
「この研究成果は、量子コンピューティングの実用化に向けた重要な一歩です」とOliver教授は述べる。「特に、より高性能な量子ビットの実現は、エラー訂正の実装に必要なリソースを大幅に削減できる可能性があります。これは、スケーラブルな量子コンピュータの実現に向けた重要な進展となるでしょう」
今後の課題としては、この技術を複数の量子ビットからなる大規模システムに拡張することが挙げられる。研究チームは、各量子ビットの固有の周期に基づいて制御パルスを最適化する方法をすでに検討しており、より複雑な量子回路への応用を目指している。このアプローチは、将来の大規模量子コンピュータの実現に向けた重要な技術基盤となることが期待される。
論文
参考文献
研究の要旨
量子ビットの非干渉性は、量子論理ゲートの忠実度を不可避的に劣化させる。従って、可能な限り高速なゲートを実現することが量子ビット制御の指針であり、ゲート時間が短くなるにつれて重要になるエラー・チャンネルを緩和するためのプロトコルが必要となる。このようなエラーチャネルの一つは、強い直線偏光ドライブの逆回転成分から生じる。このエラーチャネルは、ゲート時間が量子ビットのラーモア周期に近づいたときに特に重要であり、フラクソニウムのような低周波量子ビットを用いた十分に高速な単一量子ビットゲートでは、不実性の主要な原因となる。本研究では、このエラーチャネルを緩和するための2つの相補的なプロトコルを開発し、実証する。最初のプロトコルは、電荷と磁束を同時に制御することにより、回路QEDにおける円偏光駆動を実現するものである。2つ目のプロトコルである共分散パルスは、コヒーレントで周期的な対回転場の性質を利用してゲートへの寄与を正則化し、99.997%を確実に超える単一量子ビットゲートフィデリティを実現する。このプロトコルはプラットフォームに依存せず、追加の較正オーバーヘッドを必要としない。この研究は、回路QEDや他のプラットフォームにおける強力な駆動による逆回転効果を緩和するための直接的な戦略を確立するものであり、フォールトトレラント量子コンピューティングのための高忠実度制御の実現に役立つと期待される。
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