Quantinuumの研究チームが、イオントラップ型量子コンピューター「H2」の量子ビット数をアップグレードした事、そしてこれを用いて、現代のスーパーコンピューターに比肩する計算能力を示すことに成功したことを発表した。この成果は、量子コンピューティング技術の実用化に新たな展望を開くとともに、イオントラップ型の潜在能力を示す画期的な物と言える。
量子回路サンプリングの新たな手法による“量子的飛躍”
QuantinuumのH2は、最先端のイオントラップ型量子コンピューターだ。32個の量子ビットを備え、各ビットはイッテルビウムイオンの超微細構造状態を利用している。H2の特筆すべき特徴は、量子電荷結合デバイス(QCCD)アーキテクチャを採用していることで、これにより、イオンを表面電極トラップ内で自由に移動させ、任意の量子ビット間で直接的な相互作用を可能にしている。
H2は非常に高い忠実度でゲート操作を実行でき、量産デバイスのすべての量子ビット・ペアにおいて2量子ビット・ゲートの忠実度「99.999%」を実現した世界初の事例となった。この高い忠実度と柔軟な接続性により、複雑な量子回路を効率的に実装でき、メモリエラーや状態準備・測定エラーも低く抑えられている。
今回、Quantinuumは、H2を従来の32量子ビットから56量子ビットにアップグレードし、その計算能力を飛躍的に向上させたことを発表している。
Quantinuumの研究チームは、ランダム回路サンプリング(RCS)と呼ばれる手法を用いて、56量子ビットの量子コンピューターH2の性能を検証した。RCSは、ランダムに生成された量子回路の出力を古典コンピューターでシミュレーションすることの困難さを示すことで、量子コンピューターの計算能力を実証する手法である。
さらに、研究チームは実験結果の信頼性を高めるため、複数の検証手法を用いた。線形クロスエントロピーベンチマーキング(XEB)、ミラーベンチマーキング(MB)、ゲートカウンティングモデルなどの手法を組み合わせることで、量子回路の忠実度を高精度に推定することに成功した。XEBは2019年にGoogleが「量子超越性」を実証するために初めて有名にした手法だ。
XEBのスコアが0に近い場合、そのの結果はノイズが多く、量子コンピューティングの可能性をフルに活用できていないと言える。 一方、XEBスコアが1に近ければ近いほど、量子コンピューティングのパワーを実証していることになる。 QuantinuumのH2の結果は今回めざましい物だった。
Googleは当初、53個の超伝導量子ビットで回路を走らせたが、その深さは当時の高忠実度古典シミュレーションをひどく挫折させるほど深く、推定XEBスコアは〜0.002だった。 彼らは、この小さな値が統計的にゼロと矛盾することを示したが、古典的アルゴリズムとハードウェアの改良により、古典的コンピュータで達成可能なXEBスコアは着実に増加し、今では古典的コンピュータがGoogleのオリジナル回路と同様のスコアを達成できるまでになった。
今回の実験で特筆すべきは、H2が非常に高い忠実度でRCSを実行できることが示された点である。具体的には、深さ20の量子回路において約35%の確率で誤りなく計算を完了できることが確認された。これは、これまでの量子超越性実証実験と比較して2桁以上高い精度である。
研究チームは今回、H2の特徴である高い接続性と柔軟性を活かした新しい回路設計手法を導入した。従来の超伝導量子ビット方式と異なり、H2はどの量子ビット同士でも直接的な相互作用が可能である。この特性を利用し、ランダムジオメトリ回路と呼ばれる新しい回路設計を実装した。この手法により、より少ない深さの回路で複雑な量子演算を実行する事に成功している。
論文では、この回路設計の詳細が説明されている。各量子ビットをグラフの頂点とみなし、2量子ビットゲートをエッジとして表現する。そして、d-正則グラフ(各頂点がちょうどd本のエッジを持つグラフ)をランダムに生成し、そのグラフに基づいて量子回路を構築する。この手法により、高度に接続された回路が生成され、古典シミュレーションの困難さが増大する。
研究チームは、この新しい回路設計の効果を理論的にも検証した。「テンソルネットワーク収縮」という手法を用いた解析により、ランダムジオメトリ回路が従来の2次元格子状回路よりも古典シミュレーションに対して優位性を持つことを示した。具体的には、回路の深さが増加するにつれて、古典シミュレーションの計算コストが急速に増大することが明らかになった。
また、消費電力効率という面でも、RCSのための最も効率的な既知の古典的アルゴリズムと主要なスーパーコンピュータの消費電力に基づく分析によると、H2は56量子ビットでRCSを実行でき、消費電力は30,000分の1になると推定される。 これらの初期の結果は、データセンターのオーナーや、ユーザーのために量子コンピューターを「アクセラレーター」として追加しようと考えているスーパーコンピューティング施設にとって、非常に魅力的なものと考えられる。
これらの結果は、H2が量子超越性の実証に十分な性能を持つことを示している。特に、56量子ビットでの高忠実度な操作は、量子コンピューターの実用化に向けた重要なマイルストーンとなるだろう。
研究チームのIlyas Khan氏は次のように述べている:
「私たちは普遍的な誤り耐性を持つ量子コンピューターの実現に向けて全力で取り組んでいます。この目標は変わっていませんが、ここ数カ月で明らかになったのは、長年の研究開発投資によって可能となった進歩の証拠です。これらの結果は、誤り耐性を持つ量子コンピューターの完全な利点は本質的には変わっていないものの、当初予想されていたよりも早く到達できる可能性があることを示しています。そして重要なのは、量子コンピューターが古典的にシミュレートできない方法で動作し始めるにつれて、私たちの顧客の日々の業務にも具体的なメリットがもたらされることです」。
研究チームは、現在のアーキテクチャをさらに拡張することで、近い将来により大規模で高性能な量子コンピューターを実現できると考えている。具体的には、量子ビット数のさらなる増加、メモリエラーの低減、回路時間の短縮などの技術的進歩により、量子コンピューターの性能はさらに向上すると期待される。
量子コンピューティングの研究開発競争は今後さらに加速するだろう。各国の研究機関や企業が、様々な方式の量子コンピューターの開発にしのぎを削っている。Quantinuumの今回の成果は、イオントラップ方式の可能性を示すと同時に、量子超越性の実証に向けた新たな指標を示したと言える。
論文
参考文献
研究の要旨
古典計算機と量子計算機の計算能力のギャップは、2次元量子回路の出力分布をサンプリングする実験によって実証されている。 このギャップを埋めようとする多くの試みは、テンソルネットワーク技術に基づく古典的シミュレーションを利用しており、その限界は、古典的シミュレーション可能性を挫くために必要な量子ハードウェアの改良に光を当てている。 特に、50量子ビットを超える量子コンピュータは、ゲートの忠実度と接続性に制約があるため、古典シミュレーションに対して脆弱である。 ここでは、QuantinuumのH2量子コンピュータの最近のハードウェアアップグレードについて説明します。H2量子コンピュータは、任意の接続性と99.843(5)%の2量子ビットゲートフィデリティで最大56量子ビットで動作することができます。 H2の柔軟な接続性を利用し、高度に接続された形状におけるランダムな回路サンプリングからのデータを提示し、前例のない忠実度と、最先端の古典的アルゴリズムの能力を超えていると思われるスケールでそれを行う。 H2を古典的にシミュレートすることの困難さは、量子ビット数によってのみ制限されると思われ、QCCDアーキテクチャの将来性とスケーラビリティを実証している。
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