ポンペウ・ファブラ大学(UPF)とオックスフォード大学の研究チームは、量子力学の原理を応用した革新的な脳モデル「CHARM」を開発し、人間の脳が高性能コンピュータよりも素早く危機的状況で意思決定できる仕組みを解明した。『Physical Review E』誌に発表されたこの画期的な研究は、神経疾患の新たな治療法開発や次世代人工知能の設計に重要な洞察をもたらす可能性がある。
脳の不思議な矛盾:遅いのに速い
人間の脳は不思議な矛盾を抱えている。ニューロン間の情報伝達速度は、コンピュータのマイクロチップと比較して著しく遅い(通常10~20ミリ秒が必要)にもかかわらず、危機的状況—例えば自動車運転中に子どもが突然道路に飛び出してきた場合や、複雑な状況下での即時判断が必要な場面—では、世界最高性能のコンピュータよりも迅速かつ適切に意思決定を行うことができる。
一方で、数学計算などの他の多くの場面では、コンピュータや電卓の方が人間よりもはるかに速く処理できる。この選択的な優位性はどこから来るのだろうか?
「ニューロンがマイクロチップよりも情報伝達が遅いにもかかわらず、脳がこのような状況で優れた能力を持つことは、神経科学の分野で長年にわたり謎とされてきました」とUPFの計算論的神経科学グループディレクターGustavo Deco氏は説明する。彼が主著者を務める今回の研究では、この謎に新たな光を当てることに成功した。
研究チームは脳の計算解析の新しいモデル「CHARM」(Complex Harmonics Decomposition)を開発した。これは遠く離れたニューロン間をリンクする「長距離脳接続」の機能を調べる最も精密なモデルであり、脳力学を分析するための道具として量子力学の原理を初めて応用したものだ。
研究では1000人以上の健康な参加者から得られた脳画像データを分析した結果、CHARMが従来の分析方法よりも大幅に優れていることが実証された。特に、脳の異なる領域間の長距離相互作用を検出する能力において際立った性能を示した。
量子力学の方程式が脳研究に革命をもたらす
CHARMモデルの革新性は、シュレーディンガーの波動方程式—量子力学の基本原理の一つ—から着想を得た点にある。この方程式は、20世紀初頭に量子物理学者のエルヴィン・シュレーディンガー(Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger)によって提案されたもので、原子レベルでの粒子の波動的性質を記述する基礎となる数学的枠組みだ。
シュレーディンガーの方程式の特徴の一つは、「非局所的相互作用」—あるシステムのある部分の状態が、物理的に離れた場所にある別の部分の状態と相互に影響し合う現象—を記述できる点にある。量子力学では、この現象は「量子もつれ」として知られている。
研究チームは、脳内のニューロンネットワークにおける遠距離相互作用を模倣するために、この数学的構造を採用した。しかし重要な点は、彼らが「脳は量子コンピュータのように動作しているわけではない」と主張している点だ。
「脳の機能自体は量子的ではありません」とDeco氏は強調する。「しかし、量子物理学の原理に基づく方程式は、脳の力学を分析するための優れたツールになります。それはちょうど、宇宙物理学者が一般相対性理論の方程式を使って宇宙の構造を研究するのと同じです。宇宙そのものは方程式ではありませんが、その挙動は方程式によって正確に記述できるのです」。
従来の脳モデルは主に「熱方程式」に基づいており、これは局所的な相互作用のみを捉えることができた。具体的には、近接するニューロン間の関係は捉えられても、脳の遠く離れた領域間の複雑な相互作用を表現することは困難だった。
一方、CHARMは複素カーネルを生成し、これによって脳内の長距離・非局所的な相互作用を数学的に表現できる。この違いが、CHARMモデルが従来のモデルよりも脳の実際の動作を正確に反映できる理由だ。
従来の分析手法を大幅に上回る性能
この研究は、オックスフォード大学のMorten L. Kringelbach氏(Centre for Eudaimonia and Human FlourishingおよびCenter for Music in the Brain)が主任研究者を務め、Yonatan Sanz氏(UPFおよびブエノスアイレス大学)が共著者として参加した学際的なプロジェクトだ。
研究チームは、Human Connectome Projectから1000人以上の参加者のfMRI(機能的磁気共鳴画像)データを分析した。これは脳の活動を血流の変化から間接的に測定する方法で、実時間での脳の活動パターンを観察できる。
彼らはCHARMを、脳信号の複雑さを低減するための他の計算手法と比較した:
- 主成分分析(PCA):データの変動を直交する方向に最大化する線形手法
- 調和グラフラプラシアン分解(Harmonics):熱方程式から導かれたガウスカーネルを使用し、近傍関係を保存する手法
結果は明確だった。CHARMは臨界的な脳力学を捉える上で、他の手法に比べて明らかな優位性を示した。特に、Edge-centric metastability(ECM)と呼ばれる指標を用いた比較では、CHARMが著しく優れていた。この指標は脳の時空間力学の完全な変動性を測定するものだ。
具体的には、CHARMはPCAや調和分解法に比べて、ソース空間とマニフォールド空間間のECM相関が大幅に高かった。このことは、脳力学において非局所効果が主要な役割を果たすことを示唆している。
脳の臨界状態:秩序とカオスの境界線
研究の重要な発見の一つは、長距離接続の効率が脳の「臨界状態」にある時に高まるということだ。この臨界状態とは、秩序とカオスの間の移行状態を指す。
物理学では、臨界状態は相転移が起こる瞬間—例えば水が氷に変わるちょうどその温度—として知られている。この状態では、システムは非常に敏感で、小さな変化が大きな効果をもたらす可能性がある。同様に、脳が臨界状態にある時、長距離にわたる情報処理の効率が劇的に向上する。
「この状態は、水が氷になるプロセスのような移行相に例えることができます。この臨界点で、脳は増幅された特性を持ちます」とDeco氏は説明する。
哺乳類の脳の構造は、この点で特異的だ。一般的には距離が増すにつれて指数関数的に接続強度が低下する「指数距離則」(EDR)に従う配線が主流だが、脳には稀に「例外的な長距離接続」が存在する。これらの接続は遠く離れた脳領域を結び、情報処理能力を大幅に向上させる。
研究者らはこの現象をインターネットに例えている。リスク状況では、近くも遠くも様々な脳領域のニューロンが様々な接続で結ばれ、ネットワーク内のすべてのニューロンの情報処理能力をプールできる。各脳領域のニューロングループは個別には情報伝達能力に限界があるが、ネットワークでリソースをプールすると、はるかに大きな処理能力を達成できる。
具体的な例を挙げると、バルセロナにいる人とシドニーにいる人が情報をやり取りするのと同様に、脳の前頭葉と後頭葉のような離れた領域が効率的に通信できるのだ。
これは「分散パラダイム」と呼ばれ、神経領域が局所的にのみ機能するという従来のアプローチとは対照的だ。ノーベル賞受賞者のRamón y Cajal氏とGolgi氏の間の議論から生じた「単一ニューロン説」とは対照的に、この研究結果は、脳の計算が主に局所的に行われるのではなく、計算は主に長距離ネットワーク効果であることを強く示唆している。
覚醒と睡眠:脳の異なる動作モード
今回、CHARMモデルの応用によって、覚醒状態と深い睡眠状態の脳において、ネットワーク相互作用に顕著な違いがあることも明らかになった。

研究者らはCHARMを用いて、覚醒時と深い睡眠時の脳データを分析し、7つのマニフォールドネットワーク間の「シフト機能的接続性」の違いを示した。結果、二つの状態間には有意な差が見られた。
これらの時間的非対称性は、7つのマニフォールドネットワーク間の矢印(上位20%)として図解されており、灰色の矢印は負の相互作用、茶色の矢印は正の相互作用を表し、その太さはこれらの相互作用の値を表している。相互作用の流れは、覚醒時と深い睡眠時で大きく異なっていた。
特に、覚醒時には高レベルの臨界長距離相互作用が特徴的であるのに対し、深い睡眠時には臨界性が減少していた。この違いは、機械学習を用いたパターン分類でも確認され、84%の精度で覚醒と睡眠を区別することができた。
この発見は、脳が意識と無意識の状態でどのように異なる処理方法を採用するかについての洞察を提供している。覚醒時には、脳の異なる領域間のより活発で効率的な情報交換が可能になり、環境の変化に迅速に対応できるようになる。一方、睡眠時には、この種の高度な情報処理は減少し、脳は記憶の統合や回復プロセスに焦点を当てる。
将来の医療とAIに与える影響
この研究成果は、医学的応用から人工知能の発展まで、様々な分野に影響を与える可能性がある。
まず、統合失調症やうつ病などの様々な神経疾患の診断と治療の改善に応用できる可能性がある。長距離神経接続の機能障害は、これらの疾患の起源を理解する鍵とされている。統合失調症患者の脳では、異なる脳領域間の接続パターンが変化していることが示されており、これが思考の断片化や感覚の混乱につながる可能性がある。うつ病患者では、感情を司る脳領域と認知制御を司る領域間の接続が弱まっていることが示唆されている。
CHARMモデルによって、これらの長距離接続の機能をより正確に理解できれば、より効果的な治療法の開発につながるかもしれない。例えば、経頭蓋磁気刺激(TMS)や経頭蓋直流刺激(tDCS)などの神経調節技術を、特定の長距離接続パターンを正常化するように最適化できる可能性がある。
また、この研究は人工知能(AI)の分野における新しい研究の道も開く。現在の人工ニューラルネットワークは、局所的な非分散モデルに基づいている。つまり、ニューロン間の接続は主に近接するユニット間に限られている。しかし、人間の脳の長距離接続の重要性が明らかになったことで、AIアーキテクチャの新しい設計原理が示唆される。
将来的に、分散パラダイムをAIに応用できれば、その能力を大幅に向上させる可能性がある。例えば、現在のディープラーニングシステムは大量のデータと計算資源を必要とするが、長距離接続を活用した新しいアーキテクチャでは、より効率的な学習と推論が可能になるかもしれない。
ただし、この分散パラダイムをAIに実装するには、まだ多くの技術的困難を克服する必要がある。これには、効率的な長距離接続をどのように設計し実装するか、臨界状態をどのように維持するかといった課題が含まれる。
論文
参考文献