物理学者たちは、ブラックホールの内部を構成するとされる理論上の構造「超迷路」をマッピングする新たな研究を発表した。これはブラックホールの微細構造に対する我々の理解を塗り替える可能性を秘めており、宇宙の最も謎めいた天体の一つであるブラックホールの深淵に、かつてない解像度で迫る試みと言える。
ブラックホールの謎:一般相対性理論の限界
ブラックホールは、その強大な重力によって光さえも脱出できない時空の領域として知られている。Albert Einstein(アルベルト・アインシュタイン)の一般相対性理論は、ブラックホールの存在を予言し、その巨大なスケールでの振る舞いを驚くほど正確に記述してきた。一般相対性理論によれば、ブラックホールは質量、電荷、角運動量というわずかなパラメータで完全に記述され、事象の地平面(event horizon)と呼ばれる境界線の内側は、外側の観測者にとっては「のっぺらぼう」に見える。
しかし、この古典的な描像は、ミクロの世界を支配する量子力学と根本的な矛盾を抱えている。量子力学の原理に基づけば、ブラックホールもまた、その巨大なエントロピー(乱雑さの度合い)に見合った膨大な数の内部状態、すなわち「微視的状態」を持つはずと予想される。つまり、ブラックホールの内部は、一般相対性理論が示唆するような単純な構造ではなく、極めて複雑な微細構造を持っているはずなのだ。
この矛盾は、「ブラックホール情報パラドックス」として知られる長年の難問にも繋がっている。ブラックホールに落ち込んだ物質や情報の行方はどうなるのか? 量子力学は情報が失われることを許さないが、一般相対性理論のブラックホールは情報を飲み込んでしまうように見える。
南カリフォルニア大学(USC)ドーンサイフ文学・芸術・科学部の物理学・天文学・数学教授であり、今回の研究論文の共著者であるNicholas Warner氏は次のように指摘する。「一般相対性理論はブラックホールの巨大スケール構造を記述する強力な理論ですが、ブラックホールの微細構造を記述するには、非常に、非常に鈍い道具なのです」。
新たな鍵「超迷路」とは何か?
この古典理論と量子論のギャップを埋めるため、物理学者たちは弦理論(String Theory)に注目してきた。弦理論は、物質の最小構成要素を点粒子ではなく、振動する「弦」と考える理論であり、重力を含む自然界の基本的な力を統一的に記述する可能性を秘めている。
弦理論の文脈では、「ファズボール(Fuzzball)」仮説が提唱されている。これは、ブラックホールは古典的な事象の地平面を持つのではなく、弦や、弦理論を拡張したM理論における高次元の膜状物体「ブレーン(brane)」が複雑に絡み合った「毛玉」のようなものである、とする考え方だ。
今回のWarner氏らの研究は、このファズボールの概念をさらに推し進め、「超迷路(Supermazes)」という新たな理論的構造を用いて、ブラックホールの微細構造を具体的に構築しようとするものである。超迷路は、M理論の枠組みの中で考えられる。M理論では、宇宙の基本的な構成要素は1次元の弦だけでなく、様々な次元を持つブレーンとしても存在するとされる。
研究チームは、特にM2ブレーン(2次元の面)とM5ブレーン(5次元の面)が互いに交差する複雑なシステムに着目した。これらのブレーンが高次元時空の中で織りなす複雑な構造が「超迷路」であり、ブラックホールの内部状態を符号化するための「基盤」として機能すると考えられる。
Warner氏の説明によれば、「私たちは、迷路を、ブラックホールを作ったものや、そこに落ち込んだものに関するすべての情報が符号化されうる『基盤』だと考えています。」 この超迷路構造を用いることで、外から見るとブラックホールのように振る舞いながらも、内部には量子論が要求する詳細な構造を持つ物体を理論的に作り上げることができるという。
「迷路関数」による微細構造の描写:驚異の解像度へ
研究チームは、この複雑なブレーンの交差構造、すなわち超迷路を数学的に記述するために、「迷路関数(maze function)」という新たな数学的構成要素を導入した。この迷路関数は、超重力(supergravity、M理論の低エネルギー近似理論)の範囲内で、M2ブレーンとM5ブレーンが交差する系の解を特徴づける鍵となる。
驚くべきことに、この迷路関数が従う方程式は、微分幾何学や物理学の様々な場面で現れる、非線形で解くのが非常に難しいとされる有名な「モンジュ・アンペール方程式(Monge-Ampère equation)」に類似していることが示された。この方程式の解が、ブレーンがどのように絡み合い、ブラックホールのような性質(特にエントロピー)を再現しつつ、その微視的状態を詳細に記述するかを決定するのである。
Warner教授は、超迷路がもたらす理解の深化を、デジタルカメラの解像度に例えて説明する。
「ミケランジェロの『最後の審判』の写真を撮りたいとしましょう。事象の地平面を持つ(一般相対性理論の)ブラックホールは、たった1ピクセルのカメラを使うようなものです。見えるのは、ただの色のにじみだけです。私たちの以前の研究は、おそらく1,000ピクセル程度の画像を与えてくれました。構造の輪郭や、いくらかの陰影が見える程度です。超迷路は、何十億ものピクセルを持つカメラのようなもので、その傑作を細部まで鑑賞することを可能にするのです。」
つまり、迷路関数は、ブラックホールの微細構造という複雑な「絵画」を、これまでにない高解像度で捉えるための「高性能カメラ」に喩えることができるのである。
浮遊するM2ブレーンとAdS3限界
研究チームは、特定の条件下で「浮遊するM2ブレーン」と呼ばれる構造が現れることも発見した。これらは超迷路理論の中で特別な役割を果たし、ブラックホールの内部構造を探る上で重要な手がかりとなる。
また、特定の「近ブレーン極限」では、この超迷路構造がAnti-de Sitter空間(AdS3)と3次元球面(S³)の積空間としての幾何学的特性を示すことも明らかになった。この発見は、ホログラフィック原理と呼ばれる重要な概念との関連を示唆している。
研究チームは論文の最後の部分で、超迷路に「運動量」を加える方法について考察している。これは「BTZ極限ブラックホール」と呼ばれる特殊な幾何学的構造を生み出し、ブラックホールの一意性を破る無限の解をもたらす可能性がある。
「これは単なる始まりに過ぎません」とWarner教授は述べている。「次の課題は、ブラックホール情報パラドックス、高エネルギー衝突のダイナミクス、重力波生成などの問題に取り組むために、これらの幾何学的枠組みを洗練させることです」
量子重力への道
超迷路理論は、ブラックホール物理学における長年の謎、特に一般相対性理論と量子力学の統合という究極の目標に向けて、新たな道を切り開くものと期待される。
今後の研究課題として、以下のような点が挙げられる。
- 情報パラドックスの解決: 超迷路構造が、ブラックホールに落ち込んだ情報がどのように保存され、回復されるのかを説明できるか。
- ブラックホールのダイナミクス: 高エネルギー粒子衝突や天体合体におけるブラックホールの形成や相互作用を、超迷路モデルで記述できるか。
- 重力波天文学への応用: 超迷路理論が予測するブラックホールの詳細な内部構造は、LIGO、Virgo、KAGRAなどの重力波検出器による観測データと照合できるか。将来的に、重力波を通じてブラックホールの内部構造を探る手がかりを与えるかもしれない。
- 量子重力理論への貢献: 超迷路の研究は、M理論や弦理論を通じて、重力の量子論を構築するための重要な洞察をもたらす可能性がある。
超迷路の研究はまだ始まったばかりであり、その全貌や影響が明らかになるには更なる時間と研究が必要である。しかし、この新しいアプローチは、ブラックホールという宇宙の極限状態の理解を深め、物理学の最も根本的な問題の一つである量子重力理論の解明に向けて、大きな飛躍をもたらす可能性を秘めていると言えるだろう。物理学者たちがこの「迷路」を探求し続けることで、宇宙の最も深い謎が解き明かされる日が来るかもしれない。
論文
- Journal of High Energy Physics: Maze topiary in supergravity
参考文献
- University of Southern California: A new path to understanding black holes