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世界初、高温でも存在する「シュレーディンガーの猫」の創出に成功

Y Kobayashi

2025年4月12日

インスブルック大学の研究チームが、極低温が必要とされてきた「量子重ね合わせ状態」状態を、従来より大幅に高い温度で生成することに世界で初めて成功した。この成果は量子技術の発展に新たな可能性を開くものとして注目され、科学誌『Science Advances』に発表された。

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シュレーディンガーの猫とは?:量子の奇妙な世界への誘い

シュレーディンガーの猫」とは、量子物理学の奇妙な性質を説明するために、物理学者Erwin Schrödinger(エルヴィン・シュレーディンガー)が提唱した有名な思考実験である。箱の中に猫と、原子核崩壊という量子の確率現象に連動して作動する毒ガス装置を入れる。箱を開けて観測するまで、原子核は崩壊した状態と崩壊していない状態が重なり合っており、それに連動して猫も生きている状態と死んでいる状態が同時に存在する「重ね合わせ」状態にある、と考える。

もちろん、これは思考実験であり、実際に猫が危険にさらされるわけではない。しかし、この「重ね合わせ」は量子の世界では現実に起こる現象であり、原子や光の粒子などで実験的に確認されている。量子コンピュータが従来のコンピュータを凌駕する計算能力を持つ可能性を秘めているのも、この重ね合わせ状態を利用するからである。

これまで、このような繊細な量子の重ね合わせ状態を作り出し、維持するためには、原子の振動などが極限まで抑えられた絶対零度(約-273.15℃)に近い極低温環境が必須とされてきた。なぜなら、温度(熱エネルギー)は量子の重ね合わせ状態を非常に壊しやすく(この現象を「デコヒーレンス」と呼ぶ)、情報が失われる原因となるからである。

量子の世界に新たな扉:高温でも存在する量子の不思議

今回、オーストリア・インスブルック大学のGerhard Kirchmair教授らの研究チームは、この「極低温必須」という常識に挑戦した。彼らは、量子コンピュータの構成要素としても使われる「超伝導マイクロ波共振器」と「トランスモン量子ビット」という装置を用い、量子猫状態の生成を試みた。

特筆すべきは、実験を開始する際の温度である。通常、この種の実験ではシステムを可能な限りエネルギーの低い「基底状態」まで冷却する。しかし研究チームは、あえてエネルギーを持った「熱的に励起された状態」から実験を開始したのである。

実験が行われた温度は1.8ケルビン(約-271.35℃)。絶対零度よりわずか1.8度高いだけであり、依然として極低温であることに変わりはない。しかし、重要なのはこれが「基底状態」ではない、明確な熱エネルギーを持った状態であるという点だ。例えるならば、完全に静止した振り子ではなく、熱によってわずかに揺らいでいる振り子から、量子の繊細な重ね合わせ状態を引き出すような試みと言える。さらに、この1.8ケルビンという温度は、実験装置であるマイクロ波共振器が置かれている物理的な環境温度(30ミリケルビン、つまり0.03ケルビン)と比較すると、実に60倍も「熱い」状態であった。

研究チームは、この「熱い」初期状態に対して、基底状態から量子猫を生成するために使われていた既存のプロトコル(ECD法およびqcMAP法と呼ばれる手法)を適用した。その結果、驚くべきことに、熱エネルギーが存在するにもかかわらず、明確な量子重ね合わせ状態(ホット・シュレーディンガー・キャット状態)を生成し、観測することに成功したのである。

実験結果を詳細に分析すると、系の初期状態の純度(量子的な純粋さの度合い)が0.062まで低下(これは平均熱励起数 nth = 7.6に相当)した、非常に「混ざった」状態から出発しても、量子状態の特異性を示す「ウィグナー関数」に負の領域が現れるなど、量子干渉の明確な証拠が観測された。これは、量子効果が従来考えられていたよりも熱に対して頑健である可能性を示す画期的な結果である。

研究に参加したThomas Agrenius氏は、「最初に結果を伝えたとき、多くの同僚は驚いていました。なぜなら、私たちは普通、温度は量子効果を破壊するものだと考えるからです。私たちの測定結果は、高温でも量子干渉が持続可能であることを確認しました」と語っている。

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なぜ”高温”での実現が重要なのか?:量子技術へのインパクト

今回の発見は、量子技術の分野に大きな影響を与える可能性がある。

  1. 量子技術の実用化への道: 現在の量子コンピュータなどは、巨大で高価な希釈冷凍機を用いて極低温環境を維持する必要があり、これが実用化に向けた大きな障壁の一つとなっている。もし、より高い温度でも量子効果を利用できるようになれば、冷却システムの簡素化や低コスト化につながり、量子技術の普及を加速させる可能性がある。今回の1.8ケルビンは室温には程遠いものの、「小さいが重要な一歩」と言えるだろう。
  2. 新たな応用分野の開拓: 特に、ナノメートルサイズの機械的な振動子(ナノメカニカル振動子)など、原理的に基底状態まで冷却することが技術的に非常に困難なシステムにおいて、今回の成果は新たな道を開く可能性がある。共同研究者のOriol Romero-Isart氏(現バルセロナ・フォトニック科学研究所所長)は、「基底状態への到達が技術的に困難なシステムにおいて、量子重ね合わせの生成と利用に新たな機会が開かれる」と期待を寄せる。
  3. 基礎物理学への貢献: 「温度は量子の敵」という従来の描像を覆す可能性を示した本研究は、量子デコヒーレンスのメカニズムや、量子と古典の境界についての理解を深める上でも重要な知見を提供する。

今後の展望と課題:温度は究極的には問題ではない?

今回の成果は非常に画期的であるが、実用化に向けてはまだ課題も残る。研究論文では、実験における誤差要因として、量子ビット操作の不完全さ、マイクロ波パルスの精密な制御の難しさ、システム内のわずかな非線形性、そして避けられないデコヒーレンスの影響などが挙げられている。より高温での量子状態生成や、より長時間の状態保持を実現するためには、これらの課題を克服していく必要がある。

しかし、今回の研究は、量子現象の観測と利用が、必ずしも理想的な極低温環境に限定されない可能性を力強く示した。研究を主導したGerhard Kirchmair教授は、「我々の研究は、より理想的でない、より暖かい環境でも量子現象を観測し利用できることを明らかにした。もしシステムに必要な相互作用を作り出すことができるならば、温度は最終的には問題ではないのかもしれない」と、今後の研究への期待を語っている。

シュレーディンガーの猫が、極低温の静寂の中から、少しだけ「暖かい」世界へと足を踏み出した今回の発見。それは、量子の奇妙な世界が、我々の日常世界へより近づく未来を示唆しているのかもしれない。


論文

参考文献

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