ノートパソコンで重いデータ処理を行っていると、底面が火傷しそうなほど熱を帯びてくる。冷却ファンのうなり声を聞きながら、現代のテクノロジーがいかに「熱」と戦っているかを実感したことがある読者も多いだろう。

巨大なデータセンターのサーバー群や、私たちが日常的に使うスマートフォンにおいて、日々生み出されるデジタル情報の多くはハードディスクドライブ(HDD)などの磁気記録媒体に保存されている。これらのデバイスは、ナノメートルサイズの磁石が持つ磁気の向き(スピン)を「0」と「1」のデータに対応させることで情報を記録してきた。しかし、より多くのデータを保存するために磁石を小さくし、高密度に敷き詰めようとすると、情報処理のたびに発生する熱が深刻な問題を引き起こす。

東京大学大学院新領域創成科学研究科の研究グループは、この熱問題を根本から解決しうる全く新しいアプローチを提示した。電流を一切流さず、探針と原子の間に働く量子力学的な「力」だけを用いて、単一原子が持つ磁気情報の読み出しと書き込みに世界で初めて成功したのである。

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ジュール熱の呪縛に阻まれる「究極のメモリ」への道

現在の磁気記録システムにおいて、データの読み書きには電流が不可欠である。長年にわたり、人類は磁気メモリの集積度を上げるために血のにじむような努力を重ねてきた。情報の読み出しには、外部磁場によって物質の電気抵抗が変化する「磁気抵抗効果」が用いられ、書き込みには電流が作る磁場や、電子が持つ自転の力を磁石にぶつけるスピントルク技術が使われている。いずれの手法も、微小な素子に電流を流すプロセスを伴う。

導体に電流が流れると、電気抵抗によって必ずジュール熱が発生する。記憶素子を微細化し、限られた面積により多くの素子を詰め込むほど、単位面積あたりの電流密度は上がり、発熱量は爆発的に増大していく。この熱はエネルギーの多大なロスを生む。さらに深刻なのは、隣り合う微小な磁石に熱エネルギーを与え、記録されたスピンの向きを勝手に反転させてしまう「誤動作」を引き起こす点である。デバイスが微細になればなるほど、周囲の熱変動に対する耐性は弱くなってしまう。

記憶媒体の究極の姿は、原子1個を1つのデータビットとして扱う「単一原子磁石(1原子=1ビット)」の配列である。現在主流のハードディスクでは、1ビットの情報を記録するために数万から数百万個の原子の集団を必要としている。これを単一の原子にまで縮小できれば、記録密度は飛躍的に向上する。しかし、従来の電流駆動の手法をそのまま単一原子レベルまで縮小すると、電子が流れ込む際のエネルギーやジュール熱によって原子の磁気状態はたちまち崩壊してしまう。電子をぶつけて状態を読み書きする従来の方法は、小さな砂の城にホースで水をかけるようなものであった。「発熱を伴わない記録方式」を発明しない限り、究極の高密度メモリは原理的に実現不可能であった。

電流の代わりに「力」を使うという逆転の発想

この物理的限界に対し、研究グループは「電流」や「電磁場」という従来のアプローチを捨て、局所的に作用する「力」そのものを使ってスピンを制御する道を切り拓いた。彼らが開発したのは、磁気交換力顕微鏡(MExFM)を用いた画期的な手法である。

通常の走査型トンネル顕微鏡(STM)がトンネル電流の量で表面の凹凸を測るのに対し、MExFMは探針と試料の間に働く物理的な引力や斥力の微小な変化を検出する。舞台となるのは、極低温(4.5 K、約マイナス269℃)および超高真空の環境下に置かれた、銀の基板上の酸化マグネシウム(MgO)薄膜である。この薄膜の上に、データビットの役割を果たす単一のホルミウム()原子を吸着させた。ホルミウム原子は周囲の酸素原子が作る結晶場(静電場)の影響を受け、マクロな磁石のように固有のスピンを上向き、あるいは下向きの状態で安定して保持することができる。

研究チームは、先端にコバルト()原子を1つだけ付着させた特殊な探針を用意し、これをホルミウム原子に極限まで接近させた。ここで測定の対象となるのはトンネル電流ではなく、探針のコバルト原子と基板側のホルミウム原子の間に働く微弱な「磁気交換力」である。

磁気交換力とは、同じ向きのスピンを持つ電子が同じ量子状態を占めることができないという、パウリの排他原理に起源を持つ量子力学的な力である。通常の磁石同士が引き合う磁気双極子相互作用よりもはるかに強く、かつ極めて近距離でのみ働く性質を持つ。探針の先端にあるコバルトの3d電子と、ホルミウムの深く局在した4f電子が空間的に重なり合う瞬間に生じるこの力を捉えることが、第一の関門であった。

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数ナノニュートンの引力の差が「0」と「1」を識別する

データの「読み出し」は、暗闇の中で指先の触覚だけを頼りに点字をなぞり、そこに書かれた情報を正確に読み取る行為に似ている。

MExFMの探針(指先)をホルミウム原子(点字)に近づけていくと、探針先端のコバルト原子とホルミウム原子の間で引力(触覚)が生じる。このとき、ホルミウム原子のスピンが上向き()か、下向き()かによって、探針が受ける力学的な引力の強さがごくわずかに異なる。

実験データによれば、探針をホルミウム原子に接触する直前の距離()まで近づけた際、スピンが上向きの場合は (ナノニュートン)の引力が、下向きの場合は の引力が測定された。1ナノニュートンは10億分の1ニュートンという極小の単位だが、このわずか $0.05\text{ nN}$ という引力の差を精密に捉えることで、電流を一切流すことなくスピンの向きを識別することに成功した。

さらに距離を縮めて まで押し込むと、両者の引力は共に となり、さらに まで近づけると、上向きスピンで 、下向きスピンで と逆転の現象が観察された。この距離依存性は、コバルトの3d電子とホルミウムの4f電子の間で働く相互作用が、強磁性的な引力から反強磁性的な結合へと変化していく複雑な量子の振る舞いを如実に示している。

特筆すべきは、この力学的な読み出し方法が対象の原子に余計なエネルギーを与えない「非侵襲的」な手法であることだ。読み出し中もホルミウム原子のスピン状態は218秒以上にわたって極めて安定に維持されることが実証され、データが破壊されないことが確認された。

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MExFMを用いた単一原子磁石の力学的読み出しと書き込みの原理。探針をホルミウム原子(緑色の球)に近づけることで、スピンの向きによって異なる磁気交換力を検出し、さらに接近させて「ひずみ」を生じさせることでスピンを反転させる。(Credit: Yuuki Adachi et al., Nature Communications (2026). DOI: 10.1038/s41467-026-74922-z)

探針が作る「ひずみ」が空間対称性を崩し、スピンを反転させる

情報の読み出しにとどまらず、「書き込み(スピン反転)」までもが力学的な操作のみで達成された。この書き込みのメカニズムは、原子レベルのひずみと結晶の対称性という深い物理現象に根ざしている。

通常、ホルミウム原子は酸化マグネシウム表面の酸素原子の真上()に安定して吸着している。この位置は空間的に美しい4回対称性()を持っており、この高い対称性によって特定の量子状態の混ざり合いが抑制され、スピンは長寿命で安定に保たれている。

しかし、探針を閾値となる距離(例えば )まで極限的に接近させると、探針がホルミウム原子を物理的に押し込む形になる。この力学的な圧力によってホルミウム原子は本来の安定な頂上位置から、隣接する原子間の橋渡し位置()へと横にずらされる。

この橋渡し位置は、元の場所と異なり2回対称性()へと空間的な対称性が低下した環境である。平らな机の上(高い対称性)で安定して回っていたコマが、傾斜や歪みのある場所(低い対称性)に押し出された途端にバランスを崩して倒れ、逆向きに回り始める姿を想像すると構造が分かりやすい。対称性が低下した環境では、上向きスピンと下向きスピンの量子状態が混ざり合う「ひずみ誘起状態混合」という現象が起き、結果としてスピンの反転(書き込み)が誘発される。

探針を元に戻すと、ホルミウム原子は新しいスピンの向きを保持したまま再び元の安定な状態に落ち着く。対象の周辺環境を力学的に変調させるという、電流の注入とは全く異なる新しい書き込み原理が確立されたのである。

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ナノメカノスピントロニクスが描く未来の設計図

本研究の最大のブレイクスルーは、発熱問題というこれまでの枠組みを完全に無効化する新しい動作原理を提示した点にある。電流に依存しないこの仕組みは、次世代の超高密度メモリの実現に向けた根本的なパラダイムシフトとなる。

比較項目 従来の磁気記録デバイス(HDD等) 本研究の手法(力学的スピン制御)
情報の担い手(1ビットのサイズ) ナノメートルサイズの磁性体(数万〜数百万原子) 単一のホルミウム原子(1原子)
読み出し原理 磁気抵抗効果(電流を使用) 磁気交換力の検出(力のみを使用)
書き込み原理 電流駆動の磁場・スピントルク ひずみ誘起状態混合(力学的アプローチ)
ジュール熱の発生 あり(微細化・高集積化の最大の障壁) なし(超低発熱での動作が可能)
基板の制約 導電性が必要 バルク絶縁体基板にも適用可能

既存の電気的なスピントロニクス技術に対し、今回の力学的アプローチは「ナノメカノスピントロニクス」と呼ばれる新たな学術領域を切り拓くものである。電流を流す必要がないため、従来は技術的にアクセスが困難だった絶縁体基板上の単一原子に対しても、スピンの読み書きが可能になるという大きな拡張性を備えている。

今回の技術が社会に実装された際にもたらされるインパクトは計り知れない。現在、生成AIの急速な普及に伴い、世界中のデータセンターでは膨大な電力消費と冷却のためのコストが深刻な社会問題となっている。データストレージが消費する電力を極限まで抑え込み、同時に究極の記録密度を達成できれば、巨大な冷却設備を必要としない超高効率な次世代データセンターが実現する。長期的には、既存の大容量アーカイブ用HDDや、電力消費が課題となるエンタープライズ向けのストレージ市場を根本から塗り替える可能性を秘めている。

実用化に向けては乗り越えるべきハードルも残されている。今回の実証実験は 4.5 K という極低温、かつ外部から 3.0 T(テスラ)の強い磁場をかけた環境下で行われた。読み書きの速度も既存のメモリデバイスと比較すれば発展途上の段階にある。今後は、この革新的な力学的制御手法をより多様な材料系に応用し、より室温に近い環境やゼロ磁場での安定動作に向けた材料探索と機構解明が求められる。

さらなる応用として、量子コンピュータの分野への波及効果も見逃せない。量子ビットの役割を担うスピンの量子状態を、電流による熱や擾乱(デコヒーレンス)を与えずに力学的に非侵襲で読み出す技術は、量子コンピュータの計算精度の向上と長寿命化に直結する基盤技術となり得る。

微小な針先が原子に触れ、力だけで情報を刻み込む。人類が長い間夢見てきた「発熱ゼロの究極のメモリ」は、量子の世界の微かな引力と対称性の操作によって、確かな現実の技術として動き始めている。