9年間の歳月をかけ、国際研究チームがマウス脳の微小領域における神経回路の接続地図「コネクトーム」を前例のない詳細さで作成した。5億のシナプス結合と5.4キロメートルの神経配線を詳細に可視化したこの成果は、「不可能」と言われていた挑戦を成し遂げた歴史的な偉業であり、今後、哺乳類の脳構造と機能の理解を飛躍的に進め、脳疾患の解明や次世代AI開発にも貢献することが大いに期待される。
砂粒大に凝縮された複雑ネットワーク:コネクトームの驚異的詳細
今回マップ化されたのは、マウスの視覚野を含むわずか1立方ミリメートル、砂粒ほどの大きさの脳組織である。しかし、この微小な領域には、約20万個以上の細胞(うち機能が計測された神経細胞は約7万5千個)と、それらを繋ぐ5億を超えるシナプス(神経細胞間の接続点)、そして総延長4キロメートル以上にも及ぶ神経線維が複雑に絡み合っている。

この研究成果は、学術誌『Nature』に2025年4月9日に発表された一連の論文で詳述されている。
これまでにも、線虫(C. elegans)やショウジョウバエの完全なコネクトーム、さらにはヒト脳の一部(てんかん患者の脳の一部、約5万7千細胞、1億5千万シナプス)のコネクトームが作成されてきた。しかし、今回のマウス脳コネクトームは、その規模と解像度において、これまでの哺乳類脳のマッピングを遥かに凌駕する。

プリンストン大学の神経科学者であり、プロジェクトを共同で率いたH. Sebastian Seung教授は、「コネクトームは脳科学のデジタル変革の始まりである」と述べ、その重要性を強調している。この詳細なマップは、脳の物理的な構造に関する膨大な情報をデジタル化し、研究者が容易にアクセスし分析することを可能にするものだ。
脳活動の観察から3D再構築まで:コネクトーム作成の舞台裏
この壮大なコネクトーム作成プロジェクトは、プリンストン大学、ベイラー医科大学、アレン脳科学研究所をはじめとする22の研究機関から150人以上の研究者が参加し、9年という長い年月をかけて実現した。資金は主に米国国家情報長官室(IARPA)傘下の研究プログラムMICrONS(Machine Intelligence from Cortical Networks)と米国国立衛生研究所(NIH)から提供された。
そのプロセスは、大きく以下のステップに分けられる。
- 機能データの取得: まず、生きたマウスに映画『マトリックス』や『マッドマックス 怒りのデス・ロード』などの映像を見せながら、特殊な顕微鏡(2光子カルシウムイメージング)を用いて、特定の脳領域における約7万5千個の神経細胞の活動パターンを記録した。これにより、神経細胞が視覚情報にどのように応答するかの機能的データが得られた。マウスは遺伝子改変により、神経細胞が興奮すると蛍光を発するようにされていた。
- 構造データの取得: 次に、同じマウスの脳から対象領域を摘出し、極めて薄い切片(約2万8千枚、1枚の厚さは髪の毛の千分の一以下)を作成した。これらの切片一枚一枚を高解像度の電子顕微鏡(TEM)で撮影し、膨大な量の構造的画像データを取得した。
- データの統合と再構築: 撮影された膨大な電子顕微鏡画像を繋ぎ合わせ、3次元的に再構築する作業には、AI(人工知能)技術が駆使された。AIは、複雑に絡み合った神経線維(軸索や樹状突起)を一本一本識別し(セグメンテーション)、それらの間の接続点(シナプス)を特定し、巨大な神経回路ネットワークの3Dモデルを生成した。
- 人間による検証(プルーフリーディング): AIによる自動再構築は強力だが、完璧ではない。そのため、研究者がAIの生成したマップを詳細にチェックし、誤りを修正する「プルーフリーディング」と呼ばれる作業が不可欠である。この骨の折れる作業は現在も進行中であり、データセットの精度は継続的に向上している。以下では、再構築された神経細胞の複雑な形状が示されている。

スタンフォード大学に移籍した元ベイラー医科大学の神経科学者Andreas Tolias氏は、「このデータのユニークな点は、構造と機能の両方を一つの実験で結びつけたことだ」と語る。
配線図だけではない:神経細胞が「どう働くか」を捉える
従来のコネクトーム研究の多くは、脳の「配線図」、すなわち神経細胞がどのように接続されているかという静的な構造の解明に焦点を当ててきた。しかし、今回の研究の画期的な点は、その配線図(構造)と、神経細胞が実際にどのように活動しているか(機能)を、同じ脳領域で同時に詳細にマッピングしたことにある。
マウスが特定の映像を見たときに、どの神経細胞が、どのようにつながった他の神経細胞と連携して活動するのかを、シナプスレベルの解像度で捉えることができる。これにより、「脳の配線がどのように使われているのか」「特定の脳機能がどのような神経回路の活動パターンによって実現されているのか」といった、より深く本質的な問いに迫ることが可能になる。
以下では、特定の神経細胞とその接続先、そしてそれらの機能的な応答(映像刺激に対する活動)を統合的に可視化する例が示されており、構造と機能の連携を具体的に示している。

脳の謎解明から疾患治療、次世代AIまで:広がる可能性
この詳細なマウス脳コネクトームとその作成技術は、多岐にわたる分野に大きなインパクトを与える可能性を秘めている。
- 脳科学の進歩: 記憶、学習、意思決定といった高次脳機能が、どのような神経回路の構造と活動によって成り立っているのか、その基本原理の解明を加速させる。Seung教授は、このコネクトーム研究を、医学や生物学に革命をもたらしたヒトゲノムプロジェクトになぞらえている。脳科学がデジタルデータに基づいた精密科学へと変貌する転換点となるかもしれない。
- AI開発への応用: 人間の脳は、現在の最先端AIよりも遥かに効率的に情報を処理し、少ないデータから複雑な判断を下すことができる。マウス脳コネクトームの詳細な分析は、脳の情報処理アルゴリズムを解明し、「リバースエンジニアリング」することで、より効率的で強力な次世代AIの開発に繋がる可能性がある(米国国家情報長官室の関心事でもある)。
- 医療への応用: 認知症、アルツハイマー病、統合失調症、自閉症といった多くの神経・精神疾患は、脳内の神経回路の異常に関連していると考えられている。今回の研究で開発された技術は、健常な脳と疾患を持つ脳の接続パターンの違いを詳細に比較することを可能にし、疾患の原因となる「異常な配線」を特定する手がかりを与える。Seung教授は、「このプロジェクトで開発された技術は、疾患を引き起こす異常な接続パターンを特定する最初の機会を与えてくれるだろう」と期待を寄せる。将来的には、特定の神経回路を標的とした新しい治療法の開発に繋がる可能性がある。
- データ公開の意義: 作成されたコネクトームデータセットは全て公開されており、世界中の研究者が自由にアクセスして利用できる。これにより、新たな発見や仮説検証が加速され、脳科学全体の進歩が促進されることが期待される。
ヒト脳コネクトームへの道:今後の挑戦と期待

今回マッピングされたのはマウス脳全体の約1000分の1に過ぎず、脳全体の、そしてヒトの脳の完全なコネクトーム作成への道のりはまだ長い。技術的な課題も山積している。
- スケールの壁: ヒトの脳はマウスの脳よりも遥かに大きく複雑であり、データ量は指数関数的に増大する。
- プルーフリーディングの労力: データ量が膨大になるほど、AIによる自動化が進んでも、人間による検証作業は依然として大きな負担となる。
- 資金の問題: Live Scienceの記事によれば、NIHのBRAIN Initiativeの予算が削減されたという懸念も報じられており、今後の大規模プロジェクトの継続には安定した資金確保が不可欠である。
しかし、かつてDNA二重らせん構造の発見者の一人であるフランシス・クリックが「1立方ミリメートルの脳組織の正確な配線図とその全ニューロンの発火様式を知るなど、不可能事を求めるのは無駄だ」と述べたことが、今や現実のものとなりつつある。数十年前には不可能と思われたことが、技術革新と研究者たちの粘り強い努力によって次々と達成されている。
Seung教授は、将来的にヒト脳の完全なシミュレーションが可能になった場合、「それは意識を持つのか?」という究極的な問いにも言及している。脳の構造と機能の完全な理解は、私たち自身の存在の本質に迫る挑戦でもあるのだ。
この研究は、脳という「内なる宇宙」を探求する旅における、大きなマイルストーンであることは間違いない。公開されたデータと開発された技術は、今後の脳科学研究を力強く牽引していくだろう。
論文
参考文献
- Nature: The MICrONS Project
- Princeton University: Scientists map the half-billion connections that allow mice to see