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Microsoft、脳の推論能力をシミュレートするAI開発でスイス企業inaitと提携

Y Kobayashi

2025年3月20日

Microsoftはスイスのスタートアップinaitと提携し、哺乳類の脳の推論能力をシミュレートする革新的な AI モデルの開発を発表した。2025年3月18日に公表されたこの協業は、20年以上の神経科学研究を基盤とし、金融取引からロボティクスまで幅広い分野での応用を目指す。

革新的なデジタル脳テクノロジーの概要

Microsoftとスイス・ローザンヌを拠点とするスタートアップinaitは、哺乳類の脳の推論力をシミュレートするAIモデルの共同開発を加速させる提携を発表した。この協業では、共同製品開発、市場展開戦略、共同販売イニシアチブに注力し、初期段階では金融およびロボティクス分野をターゲットとしている。

inaitのAI技術は、数十年にわたる神経科学研究の成果を活用している点が特徴だ。同社が開発した「脳プログラミング言語(Brain Programming Language)」は、経験から学習し、因果関係を理解する能力を持ち、実世界でのインタラクションに向けた認知能力を提供する。これにより、現在のAIシステムの限界を超える「適応型一般インテリジェンス」の実現を目指している。

MicrosoftのEMEA Cloud & AI 担当ディレクターであるAdir Ron氏は「inaitはAIにおける新しいパラダイムを開拓しています。従来のデータベースモデルを超えて、真の認知能力を持つデジタル脳へと進化させているのです。彼らのAIモデルは生物学的インテリジェンスを非常に効率的な方法で再現し、新たな推論駆動型AI時代における有力な候補となっています」と評価している。

既存のAIシステムが大量のデータから相関関係を見出すことに依存しているのに対し、inaitの技術は実世界の経験から学習できる点が画期的だ。inaitのCEOであるRichard Frey氏は「唯一証明されている知性形態は脳にあり、もし脳の仕組みを解明できれば、全く新しい種類の強力な AI を実現できる」と述べている。

この提携により、inaitの技術はMicrosoftのAIモデル製品に統合され、顧客に提供される AIソリューションの選択肢が拡大する。実装にはMicrosoft Azureクラウドプラットフォームとそのグローバルリーチが活用される予定だ。

20年に及ぶ神経科学研究の歴史

inaitの技術基盤は、共同創設者である神経科学者Henry Markram氏の長年にわたる脳研究に由来している。Markram氏はSwiss Blue Brain Projectの創設者であり、後にHuman Brain Project(HBP)の初代ディレクターも務めた研究者だ。

Markram氏はスイス政府が資金提供した脳研究イニシアチブを主導し、哺乳類の脳の生物学的に正確なデジタルレプリカを作成する取り組みを推進してきた。このプロジェクトでは、脳シミュレーションを生成するための 1800 万行にも及ぶコンピュータコードが開発された。

「このプロジェクトは主にマウスの脳を中心に構築されましたが、それは汎用的なレシピであり、アリから—原理的には—人間に至るまで、他の種の脳を再現または複製するためにも応用可能です」とMarkram氏は説明している。

Human Brain Projectは、2013 年に約10億ユーロの予算で開始された野心的な取り組みだった。Markram 氏は 2009 年のTEDトークで「10年以内にスーパーコンピュータ上に人間の脳の完全なシミュレーションを構築する」という壮大なビジョンを掲げたが、これは科学界で懐疑的に受け止められた。

HBPは後に運営方針をめぐる混乱に直面し、2015年にMarkram氏はディレクターの地位から退き、サブプロジェクト(Brain Simulation Platform)のリーダーに役割が限定された。プロジェクト自体は 2023年9 月に終了し、完全な脳シミュレーションという当初の目標は達成されなかったものの、EBRAINSプラットフォームなどの神経科学研究ツールの開発に貢献した。

inaitは2018年に設立され、Markram氏の研究成果を商業化する新たな試みとなっている。現在、シミュレーション技術はMarkram氏が設立した非営利組織Open Brain Instituteを通じて、無料またはサブスクリプション形式で研究者に提供されている。

金融とロボティクス分野への具体的応用

Microsoftとinaitの提携は、初期段階では金融セクターとロボティクス分野という二つの領域に焦点を当てている。

金融セクターでは、高度な取引アルゴリズムの開発が主要なターゲットだ。脳の推論能力をモデルにした AI は、市場の微妙な変動パターンをより深く理解し、従来のアルゴリズムよりも優れた投資判断を下せる可能性がある。また、リスク管理ツールにおいては、複雑な金融環境でのリスク評価の精度向上が期待される。個人向けには、顧客の行動や選好を学習し続ける能力を活かした、より洗練されたパーソナライズ金融アドバイスの提供を目指している。

ロボティクス分野では、変化する環境に適応できる産業用ロボットの開発に注力する。従来のプログラミングでは対応しきれない予測不可能な状況でも柔軟に対応できる、次世代の産業ロボットの実現を目指している。生産ラインの変更や新しい作業要件に迅速に適応し、人間の作業者との協働をより直感的に行える能力を持つロボットの開発が期待される。

脳シミュレーションに基づくAIモデルの大きな利点は、エネルギー効率の高さと学習速度の速さだ。Markram氏によれば、これらのモデルは「既存の深層強化学習モデルよりもエネルギー消費が少なく、学習も格段に速い」という。さらに、顧客に提供された後も学習を継続する能力を持つ点も革新的だ。

このアプローチには、人間の脳のレプリカを構築することの複雑さやリソースの問題などの課題も存在する。しかし、Markram氏は「多くのビジネスアプリケーションではそこまで高度なシミュレーションは必要ない」と指摘している。

また、この技術は神経科学研究の発展にも寄与する可能性がある。研究者たちは、自閉症などの神経学的疾患の調査と理解を深めるためのカスタムシミュレーションを構築できるようになるかもしれない。米国のAllen Instituteの研究者 Anton Arkhipov氏は、「コネクトーム(神経回路図)は都市の道路地図のようなものであるのに対し、シミュレーションはさまざまな条件下で都市を通過する交通の現実的なシナリオを提供する」という比喩で、動的シミュレーションの重要性を説明している。

AI 業界におけるパラダイムシフトの可能性

Microsoftとinaitの提携は、AI 業界に大きなパラダイムシフトをもたらす可能性を秘めている。従来の AI 開発がデータ駆動型のアプローチを中心に進められてきたのに対し、この新しい脳インスパイアード型AIは、生物学的インテリジェンスのメカニズムを直接模倣することで、より自然で直感的な推論能力の実現を目指している。

Microsoft SwitzerlandのCEOであるCatrin Hinkel氏は「inaitのAIアプローチは業界に大きな価値をもたらす可能性があると確信しています。彼らの神経科学にインスパイアされた技術は真に革新的であり、フィンテックやロボティクスセクターでの即時の変革を皮切りに、これらの進歩を市場に届けるために協力できることを嬉しく思います」と述べている。

神経科学とAIの融合は、近年研究者や企業の間で高い関心を集めている領域だ。この提携は、人間の脳からインスピレーションを得て AI を進化させる可能性を示す重要な一歩といえる。従来のニューラルネットワークも脳の構造から着想を得ているが、inaitのアプローチはより生物学的に正確なレベルでの模倣を追求している点で一線を画している。

エネルギー効率の高さと学習速度の向上という特性は、AIの持続可能性という観点からも注目に値する。現在の大規模言語モデルなど高度な AI システムの運用には膨大なエネルギーが必要とされているが、脳インスパイアード型AIはより効率的なコンピューティングへの道を開く可能性がある。

また、この技術が実用化されれば、AIシステムが実際の経験から学習し、提供後も成長し続けるという特性は、利用者にとって大きなメリットになるだろう。従来のAIモデルが初期トレーニング後に固定されるのに対し、inaitのAIは環境に合わせて継続的に適応し、改善する能力を持つ。

この提携は、科学研究と商業応用の架け橋としても重要な意義を持つ。Markram氏の 20 年以上にわたる学術研究が、Microsoftというグローバル企業の協力を得て実用化されようとしている点は、基礎研究から実用化までの成功例として注目される。


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