核戦争やAIの悪用は、人類の存続そのものを脅かす可能性がある。一方、肥満や教育格差といった日常的な問題も、長い時間をかけて膨大な健康被害をもたらす。こうした性質の異なる脅威を、共通の指標で比較することは容易ではなかった。
2026年10月11日、国際医学誌『The Lancet』の専門家委員会は、ドイツ・ベルリンで開催された「ワールド・ヘルス・サミット2026」で、「21世紀の健康に対する地球規模の脅威に関するランセット委員会」の報告書を発表した。ワシントン大学保健指標評価研究所(IHME)の分析をもとに、世界204の国と地域を対象として、2025年から2100年までの75年間に生じ得る健康リスクを評価したものだ。
委員会は、核紛争や悪意あるAIの利用といった人類の存続に関わる危機から、肥満、教育水準の低さ、所得格差などの慢性的な問題まで、17項目を「壊滅的脅威」に分類した。そして、対策によって回避できる可能性のある健康被害を数理モデルで推計している。
ただし、今回の報告書は、将来の死亡者数や疾病の発生数を確定的に予測したものではない。示された数値は、想定し得る最善のシナリオと最悪のシナリオを比較し、適切な対策によってどれだけの健康被害を回避できるかを試算したものだ。
この違いを理解することが、報告書の意味を正しく捉えるうえで重要になる。
データを表で見る
| 回避可能な累積DALY (億DALY) | |
|---|---|
| 肥満対策 | 231 |
| 教育機会の改善 | 161 |
| 所得格差の是正 | 138 |
| 悪意あるAI利用への対策 | 104 |
| 核紛争の防止 | 93.5 |
| 気候変動の抑制 | 18.9 |
推計結果からは、肥満や社会的不平等など、日常生活に深く根ざした問題が、核紛争やAI関連の破滅的事象と同等か、それ以上の健康被害をもたらす可能性が示されている。
17の壊滅的脅威はどのように選ばれたのか
委員会は、何を「壊滅的(catastrophic)」な脅威とみなすかについて、定量的な基準を設けている。
委員会の共同議長を務めたのは、IHME所長のChristopher J. L. Murray教授と、国連人口基金(UNFPA)の前事務局長であるNatalia Kanem博士だ。保健、経済、安全保障、行政、技術などの分野から35人の専門家が参加し、数百に上る潜在的な脅威を検討した。
最終的に17項目を選ぶ際には、3つの条件が用いられた。
第一に、2100年までに少なくとも10億DALY(障害調整生命年)の健康損失をもたらす可能性があること。第二に、数理モデルで評価するための十分なデータが存在すること。第三に、政策変更や国際協調、技術革新などによって被害を軽減できる余地があることだ。
これらの基準は、ワールド・ヘルス・サミットが公開した公式発表でも説明されている。
ここで用いられたDALYとは、病気や障害によって失われた健康な生活期間と、早期死亡によって失われた寿命を合計した、公衆衛生分野の指標だ。
1 DALYは、健康な状態で過ごせたはずの1年が失われたことに相当する。単純な死亡者数だけでは捉えられない、慢性疾患による健康状態の悪化や、若年層の早期死亡がもたらす影響も評価できる。
選定された17の脅威は、大きく2つに分類される。
最も深刻な結果をもたらし得る脅威として挙げられたのが、核紛争と悪意あるAIの利用だ。委員会は、どちらも発生確率は低いものの、最悪の場合には人類の絶滅につながる可能性があると位置づけた。
残る15項目には、大気汚染、抗菌薬耐性(AMR)、小児期の栄養不良、気候変動、通常兵器による武力紛争、保健医療向け開発援助の減少、過度の飲酒、高血圧、所得格差、教育水準の低さ、自然発生的なパンデミック、肥満、メンタルヘルスの問題、喫煙、健康上の問題を抱えながらの高齢化が含まれる。
これらは、互いに無関係な問題ではない。例えば、所得格差や教育機会の不足は健康状態にも影響し、気候変動や紛争は既存の脆弱性をさらに悪化させる。
また、17項目は重要度を固定した順位表でもない。『The Lancet』の関連論説では、新たな研究成果や観測データが蓄積されれば、評価結果も変化することを前提としている。
委員会の目的は、危機の順位を一度決めて終わりにすることではなく、科学的な知見に基づいて対策の優先順位を継続的に見直せる仕組みをつくることにある。
核紛争とAIの悪用は、どれほどの被害をもたらすのか
17の脅威の中でも、核紛争と悪意あるAIの利用は特別な位置を占めている。
どちらも発生する可能性は低いと考えられているが、実際に起きた場合の被害が極めて大きいためだ。
委員会の推計によると、核紛争を防止するための対策によって、2100年までに約1億3,300万人の死亡と、93億5,000万DALYの健康損失を回避できる可能性がある。
これは核戦争によって必ず1億3,300万人が死亡するという予測ではない。核紛争が発生する可能性と、その際に想定される被害規模を考慮し、対策によって回避できる健康被害を推計したものだ。
一方、悪意あるAIの利用に対する対策では、104億DALYの健康損失を回避できると試算されている。
AIが人類の健康や安全を脅かす経路としては、複数のシナリオが考えられる。
一つは、AIを利用した生物兵器の設計や、病原体の危険性を高める技術への悪用だ。また、重要なインフラや医療システムへの攻撃にAIが利用されることも懸念される。
さらに、AIシステムの重大な誤作動や、高度化したAIに対する人間の制御喪失といった問題も、広い意味でのAI関連リスクとして検討対象となる。ただし、悪意を持つ人間によるAIの悪用と、AI自体の誤作動や制御不能は、発生原因や必要な対策が異なる。
こうした数値を解釈する際に重要なのが、推計方法の違いだ。
核戦争や高度なAIによる破滅的事象については、将来の発生確率や被害規模を精度よく予測できるだけの過去の観測データが存在しない。
一般的な感染症や大気汚染であれば、過去の疾病統計や環境データを使って将来の傾向を推計できる。しかし、人類の存続を脅かすような事象については、同じ手法をそのまま適用できない。
そこで委員会は、構造化専門家判断(Structured Expert Judgement)や予測専門家による評価など、別の手法を利用している。
これは、専門家が示した発生確率や被害規模の判断を一定の方法で整理し、数理モデルに組み込むものだ。
ただし、その結果は専門家の判断や前提条件に大きく左右される。通常の疫学モデルで得られる推計値と同程度の確かさがあるわけではない。
委員会も公式発表の方法論に関する説明で、核紛争、将来のパンデミック、AIの悪用など、過去のデータが乏しい脅威については不確実性が大きく、数値を目安として解釈すべきだと明記している。
したがって、核紛争の93億5,000万DALYや、AIの悪用による104億DALYという数字は、それぞれの危機が確実に発生することを示すものではない。想定される被害の大きさと、予防策を講じる意義を考えるための推計値だ。
最大の健康損失は肥満、教育格差や所得格差も深刻
核紛争やAIによる破滅的事象に注目が集まる一方、回避可能な健康損失の推計値で上位を占めたのは、肥満や社会的不平等といった慢性的な問題だった。
最も大きかったのは肥満で、2100年までに231億DALYの健康損失を回避できる可能性があるとされた。
肥満は心血管疾患や糖尿病など、さまざまな疾病のリスクを高める。食生活の変化や身体活動の不足などが世界規模で進むなか、予防策や治療の普及状況によって、長期的な健康被害には大きな差が生じ得る。
この231億DALYという数字は、委員会が評価した17の脅威の中でも最大規模となっている。
教育機会の改善によって回避できる健康損失も大きく、161億DALYと推計された。
特に影響が大きいとされたのは、サハラ以南アフリカの女性と子どもだ。
教育水準が向上すると、健康や衛生に関する知識を得る機会が増え、栄養状態や医療へのアクセスも改善しやすくなる。母親の教育水準の向上は、子どもの死亡率の低下とも関係している。
委員会は、教育の普及が直接的な健康改善だけでなく、長期的には人口増加率の低下にもつながり得ると指摘している。
所得格差の是正によって回避できる健康損失は、138億DALYと見積もられた。
委員会の公式発表では、この規模を新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミック約25回分に相当すると説明している。
ただし、これは死亡者数が25倍になるという意味ではない。病気や障害、早期死亡によって失われる健康な生活期間をDALYで換算した比較だ。
一方、気候変動については、温室効果ガスの排出削減によって18億9,000万DALYの健康損失を回避できると試算された。
この数値は、世界の平均気温上昇が工業化前と比べて約4.4℃に達するシナリオと、約1.8℃に抑えられるシナリオを比較したものだ。
対象には、極端な暑さによる健康被害や、気温上昇に伴う一部の大気汚染など、現時点で定量化できる直接的な影響が含まれている。
ただし、委員会は、この18億9,000万DALYという推計が気候変動の被害全体を表すものではないと注意を促している。
干ばつによる食料不足、海面上昇や災害に伴う移住、生活基盤の喪失によるメンタルヘルスへの影響など、定量化が難しい間接的な被害は含まれていない。
そのため、気候変動による実際の健康被害は、今回の推計を上回る可能性がある。温室効果ガスの排出削減が進まなければ、影響は2100年以降も続き、ほかの健康リスクをさらに悪化させる恐れがある。
もう一つ、深刻な問題として挙げられたのが、富裕国から低・中所得国への保健医療向け開発援助(DAH)の減少だ。
援助が急減、あるいは停止した場合、2100年までに最大15億DALYの追加的な健康損失が生じる可能性があると推計された。その約70%はサハラ以南アフリカに集中すると見込まれている。
医療体制や社会保障が十分に整っていない地域ほど、援助の減少が健康に及ぼす影響は大きい。また、人口増加や経済発展の状況によっても、将来の疾病負荷は変わってくる。
教育不足や貧困、所得格差といった問題は、単独で健康に影響するだけではない。感染症や気候変動による被害を拡大させる要因にもなる。
| 脅威 | 2100年までに回避可能な健康損失 | 主な推計方法 | 解釈上の注意点 |
|---|---|---|---|
| 肥満 | 231億DALY | 疫学データと介入シナリオの比較 | 予防策や治療の普及状況などに依存 |
| 教育水準の低さ | 161億DALY | 人口動態モデルと健康状態の関連分析 | 教育機会の改善が進む地域や速度に左右される |
| 所得格差 | 138億DALY | 所得格差と疾病負荷の関連分析 | 因果関係や政策介入の効果に不確実性がある |
| 悪意あるAIの利用 | 104億DALY | 構造化専門家判断など | 過去の観測データが乏しく、不確実性が極めて大きい |
| 核紛争 | 93.5億DALY、約1億3,300万人の死亡 | 専門家判断と被害モデルなど | 発生確率や被害規模の想定に大きく依存 |
| 気候変動 | 18.9億DALY | 気温上昇シナリオの比較 | 移住や食料不足など、多くの間接的被害は含まれない |
| 保健医療向け開発援助の急減・停止 | 最大15億DALY | 援助の変化と健康への影響を組み合わせたモデル | 被害の約70%がサハラ以南アフリカに集中する見込み |
数値はランセット委員会の報告書と公式発表に基づく。いずれも2025〜2100年のシナリオ分析による推計値であり、将来の被害が確定しているわけではない。各項目の健康被害には重複があり得るため、単純に合算することもできない。
推計値は未来の予言ではなく、政策によって変えられる被害の大きさ
今回の報告書を読むうえで、最も重要なのは、示された数字を確定的な未来予測と混同しないことだ。
委員会が推計したのは、最善と最悪のシナリオの間に生じる健康損失の差である。この指標は「Amenable DALYs」と呼ばれ、政策介入などによって回避できる可能性のある健康被害を表す。
IHMEの分析には、現在の傾向が続いた場合の参照シナリオも含まれている。
最悪のシナリオは、必ずしも政策当局が一切の対策を取らない場合だけを意味するものではない。将来の社会状況や技術、政策の違いによって、健康被害がどれほど変化するかを検討するために設定されている。
そのため、推計された損失のすべてが実際に発生するとは限らず、最善のシナリオを必ず実現できるという保証もない。
また、17の脅威は互いに関係している。
例えば、気候変動による農地の減少や水不足は、地域紛争のリスクを高める可能性がある。紛争によって医療機関や衛生設備が破壊されれば、感染症の流行を抑えることも難しくなる。
一つの危機が別の危機を悪化させることで、被害が連鎖的に拡大する恐れがある。
委員会のMurray教授も、17の脅威は相互に結びついており、それぞれを切り離して対処することはできないと強調している。
ただし、今回示された個別の推計値が、こうした複雑な連鎖をすべて数理モデルに組み込んでいるわけではない。
分析上は脅威ごとに健康被害を推計している部分もあり、複数の脅威が重なった場合の影響を完全に表現できているとは限らない。また、健康被害が重複する可能性もあるため、17項目のDALYを単純に足し合わせて世界全体の損失とみなすことはできない。
被害が発生する地域や、影響を受ける人々の違いにも注意が必要だ。
世界全体の集計値は、日本を含む各国の住民に均等に当てはまるものではない。
例えば、保健医療向け開発援助の減少による健康被害は、サハラ以南アフリカに集中すると見込まれている。
同じ国の中でも、医療や教育を十分に受けられない人々や、経済的に困難な状況にある人々ほど、危機の影響を強く受ける可能性がある。
今回の報告書は、特定の医薬品や技術の効果を臨床試験で証明したものでもない。
むしろ、限られた公的資金や研究開発投資をどのような課題に振り向ければ、将来の健康被害をより多く防げるかを考えるための枠組みを示したものだ。
委員会が提案する3つの行動計画
ランセット委員会は、17の脅威に対応するため、今世紀中に取り組むべき3つの行動方針を示している。
1. 危機への備えを強化する(Build Readiness)
第一の柱は、危機が発生してから対応するのではなく、平時から予測・予防・準備を進める体制を整えることだ。
委員会は、さまざまな健康上の脅威を継続的に監視し、予防策や緊急時の対応を担う専門チームを、各国の保健医療制度に組み込むよう求めている。
資金面でも、災害や感染症が発生するたびに臨時の予算を確保する方式から、長期的かつ安定した財源を用意する方式への転換を提案している。
特に重要なのは、資源が不足している地域や、社会的に取り残されやすい人々にも対策が届くようにすることだ。
危機への備えが富裕国や豊かな地域に偏れば、世界全体の健康被害を十分に減らすことはできない。
2. 科学技術の革新に投資する(Back Breakthroughs)
第二の柱は、既存の対策では十分に対応できない脅威に対し、研究開発投資を拡充することだ。
具体的には、新興感染症への迅速な対応を可能にするワクチン開発、薬剤耐性菌に有効な新しい抗菌薬、より安全で利用しやすい肥満治療薬、温室効果ガスの排出削減につながる気候関連技術などが挙げられている。
ただし、新しい技術を開発するだけでは十分ではない。
医薬品や予防技術が一部の富裕国にしか普及しなければ、世界全体の健康損失を減らす効果は限られる。
委員会は、技術革新への投資とともに、低・中所得国にも成果が公平に行き渡るよう、国際的な制度や協力体制を整える必要があるとしている。
3. 脅威を継続的に監視する(Track Threats)
第三の柱は、将来の健康リスクを定期的に再評価し、政策判断に活用できる仕組みを構築することだ。
新たな感染症や技術の登場、社会情勢の変化によって、脅威の大きさや発生確率は変わっていく。
そのため、今回の17項目を固定的なものとして扱うのではなく、最新のデータや研究成果を反映し、継続的に評価を更新する必要がある。
委員会は、その役割を担う独立した監視組織として「21世紀の健康に対する地球規模の脅威に関するランセット・モニター」の創設を提唱している。
保健当局だけでなく、財政、安全保障、気候政策などを担当する政策決定者にも、最新の科学的知見を届けることが狙いだ。
健康への脅威は医療分野だけで解決できるものではなく、経済政策や安全保障、環境政策と一体で取り組む必要があるという考え方が、これら3つの提案に共通している。
人類の未来は、今後の政策によって変えられる
『The Lancet』の編集長であるRichard Horton博士は、今回の報告書について、人類が直面する危機を個別の問題として捉える従来の考え方を改め、より複雑で幅広い脅威に対応するための枠組みを示したものだと評価している。
共同議長のKanem博士も、近年の世界的な出来事は社会の安定がいかに脆く、危機が発生してから対応することがどれほど大きな負担を伴うかを示したと指摘している。
一方で、将来はあらかじめ決まっているわけではなく、現在の政策判断によって変えることができるとも強調した。
今回の報告書が明らかにしたのは、核戦争やAIの悪用といった破滅的な危機だけが、人類の将来を左右するわけではないということだ。
肥満や教育格差、所得格差のように、すでに社会の中に存在する問題も、長期的には極めて大きな健康被害につながり得る。
もちろん、すべての脅威を同じ精度で予測できるわけではない。特に、発生経験の乏しい壊滅的事象については、推計結果に大きな不確実性が残る。
それでも、異なる分野の危機を共通の指標で比較し、どこに対策の余地があるかを示したことには意義がある。
今回の報告書は、人類が2100年までにどれほどの健康を失うかを予言するものではない。今からどのような政策を選び、どこに資源を投じれば、将来の健康被害を減らせるのかを問いかけるものだ。
核紛争の防止から肥満対策、教育機会の拡大まで、異なる課題に共通しているのは、危機が深刻化する前に行動することの重要性である。
