今日のAIは、その巨大なサイズとクラウドへの依存が課題となる場面が増えている。しかし、この常識を打ち破るかのような技術が、ドローンをはじめとするエッジデバイスの未来を大きく変えようとしている。スペインのAIスタートアップ、Multiverse Computingが発表した超小型高性能AIモデル「SuperFly」と「ChickBrain」は、AI業界の大型化トレンドに対する革新的な挑戦であり、オンボードインテリジェンスの新たな扉を開く可能性を秘めていると言えるだろう。
蝿と鶏の名を冠した、規格外のAIたち
AIの世界では、長らく「大きいことは良いことだ」と信じられてきた。パラメータ数、すなわちAIモデルの規模や複雑さを示す指標を増やすことで性能を高める「スケール則」が、巨大テック企業の研究開発を牽引してきたのは紛れもない事実である。しかし、スペインのドノスティアに本拠を置くスタートアップ、Multiverse Computingが2025年8月14日に発表した2つのAIモデルは、その潮流に真っ向から異を唱えるものだ。
同社が「Model Zoo(モデル動物園)」と名付けたファミリーから登場したのは、「SuperFly」と「ChickBrain」。その名は、蝿(fly)と鶏(chicken)の脳のサイズに着想を得ているという。ユーモラスな名前とは裏腹に、その秘められた能力は業界に衝撃を与えている。
SuperFly: 9400万パラメータ、家電に宿るミニマルな知性
SuperFlyは、わずか9400万パラメータという驚異的な小ささを誇る。 これは、Hugging Faceが公開するオープンソースモデル「SmolLM2」をベースに圧縮されたものだ。
このモデルの真価は、その極端なまでの軽量さにある。インターネット接続が不安定、あるいは全くない環境の、ごく限られた処理能力しか持たないデバイスへの組み込みを想定して設計されているのだ。 例えば、洗濯機に搭載すれば「クイック洗浄を開始して」といった音声コマンドをオフラインで認識し、実行できる。 TechCrunchへのライブデモでは、Arduinoのようなごく小さなプロセッサで音声インターフェースを処理できることが示されたという。
これは、これまでクラウド上の巨大AIに音声データを送信し、処理結果を待っていたスマートホームデバイスのあり方を根本から変える可能性を秘めたものだ。
ChickBrain: 元モデルを超える32億パラメータの「賢脳」
一方のChickBrainは、SuperFlyよりは大きいものの、それでも32億パラメータというコンパクトなサイズに収まっている。 ベースとなっているのは、Meta社が開発した高性能モデル「Llama 3.1 8B」(80億パラメータ)だ。
注目すべきは、単に小さくしただけではない点にある。Multiverse Computingの内部テストによれば、ChickBrainは言語スキル(MMLU-Pro)、数学的能力(Math 500, GSM8K)、一般知識(GPQA Diamond)といった複数の標準的なベンチマークにおいて、圧縮元であるLlama 3.1 8Bをわずかに上回る性能を記録した。
パラメータ数を60%以上削減しながら、性能は維持、あるいは向上させる。これは従来の常識では考えにくかったことだ。実際に、このモデルはMacBookのような一般的なノートPC上で、インターネット接続なしにローカルで動作させることが可能だという。
魔法の鍵「CompactifAI」- 量子物理学が生んだ圧縮技術
なぜ、このような芸当が可能になるのか。その秘密は、Multiverse Computingが独自に開発した圧縮技術「CompactifAI」にある。
共同創業者であり、量子物理学の第一人者でもあるRomán Orús氏は、この技術について次のように語っている。
「我々の圧縮技術は、コンピュータ科学や機械学習の人々が行う典型的な圧縮技術とは異なります。我々は量子力学から来ているからです。それは、より巧妙で、より洗練された圧縮アルゴリズムなのです」
従来のAIモデル圧縮は、枝刈り(プルーニング)や量子化といった手法が主流だった。しかしCompactifAIは、量子力学の原理から着想を得ており、モデルのサイズを最大95%削減し、コンピューティングコストを80%も削減できると主張している。 重要なのは、このプロセスでモデルの持つ「知能」を損なわない、という点だ。性能を犠牲にしない圧縮こそが、彼らの技術の核心なのである。
2.5億ドルが動く、Multiverseという異端児
Multiverse Computingは、2019年にオラス氏をはじめ、量子コンピューティング専門家のSamuel Mugel氏、そして銀行の元副CEOという異色の経歴を持つEnrique Lizaso Olmos氏によって設立された。 まさに、物理学とビジネスの知見が交差する場所から生まれた企業だ。
そのポテンシャルは、投資家たちを強く惹きつけている。2025年6月には、欧州の著名VCであるBullhound Capitalが主導し、HP Tech Venturesや東芝なども参加するシリーズBラウンドで1億8900万ユーロ(約2億1500万ドル)という巨額の資金調達を完了。 これにより、創業以来の累計調達額は約2億5000万ドルに達した。
この資金は、CompactifAI技術のさらなる発展と、グローバル市場への展開を加速させるためのものだ。同社はすでにBASF、ボッシュ、ムーディーズといった大手企業を顧客に抱えており、AIモデル圧縮だけでなく、画像認識など他の機械学習分野でも実績を積み上げている。
クラウドからエッジへ、AIが塗り替える未来図
SuperFlyとChickBrainの登場は、「エッジAI」時代の本格的な到来を告げる号砲となるかもしれない。エッジAIとは、データをクラウドに送らず、デバイスそのもの(エッジ)でAI処理を行う技術のことだ。
市場調査によれば、エッジAI市場は年平均21.7%で成長し、2030年までには665億ドル規模に達すると予測されている。Multiverseの技術は、この巨大市場の起爆剤となりうる。
ドローンから軍事まで広がる応用シナリオ
オフラインで高度な判断が可能になることの価値は計り知れない。例えば、ドローンにChickBrainを搭載すれば、通信の届かない山間部での自律的な山火事監視が可能になる。 画像認識で煙や熱源を検知し、即座に通報することで被害を最小限に食い止められるかもしれない。
災害救助の現場では、小型ドローンがSuperFlyを用いて生存者を捜索したり、音声コマンドで医薬品を届けたりすることも考えられる。 さらに、軍事分野では、敵の電子妨害(ジャミング)の影響を受けずにターゲットを自律的に識別・攻撃するドローンが現実味を帯びてくる。 これは戦争のあり方を一変させる可能性を秘めていると同時に、AI兵器に関する倫理的な議論を加速させることにもなるだろう。
プライバシーとサステナビリティという時代の要請
エッジAIの利点は、機能面だけではない。ユーザーの音声データや個人情報をデバイス内で完結させることは、プライバシー保護の観点から極めて重要だ。また、巨大なデータセンターでAIを動かす際に消費される莫大な電力は、環境負荷の面で大きな課題となっている。計算コストを劇的に削減するCompactifAIは、よりサステナブルなAIの実現に向けた有力な回答の一つとなりうる。
Orús氏は、Apple、Samsung、Sony、そして投資家でもあるHPといった大手デバイスメーカーと既に交渉を進めていることを明かしている。 近い将来、私たちが手にするスマートフォンやウェアラブルデバイスに、Multiverseの技術が標準搭載される日が来るかもしれない。
AI業界の「潮目」は変わるか
今回の発表は、単なる一企業の技術的成果に留まらない、より大きな意味合いを持つと筆者は考える。
これまでAI開発の最前線は、無限とも思える計算資源を持つ巨大テック企業の独壇場だった。しかし、Multiverse Computingの挑戦は、パラメータ競争という一本道ではない、別の進化の可能性を示している。「大きさ」ではなく「効率」を極めるというアプローチは、リソースの限られたスタートアップや研究機関にも、再びイノベーションの扉を開くものだ。
もちろん、課題も残されている。彼らの技術がどれほど汎用性を持つのか、開発者たちが容易に利用できるエコシステムを構築できるのかは、まだ未知数だ。また、軍事利用のように、技術がもたらす負の側面にも目を向け続ける必要がある。
それでも、SuperFlyとChickBrainが放つ輝きは、AI業界が新たな章に突入したことを予感させるに十分だ。クラウドの頂から、私たちの手元にある無数のデバイスへ。知能が遍在する時代の到来は、我々の想像をはるかに超えるスピードで近づいているのかもしれない。
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