米国の厳しい輸出規制の網が絞られる中、中国の半導体自給への渇望が生み出した一つの答えが、静かにそのベールを脱いだ。2025年8月13日、浙江省杭州市余杭区で、中国初となる国産商業電子ビームリソグラフィー装置「羲之(Xizhi)」が正式に発表されたのだ。0.6ナノメートル(nm)という驚異的な精度を誇るこの装置は、量子チップ研究の「中国製彫刻刀」と称賛される。しかし、その革新性の裏には、大量生産という巨大な壁が立ちはだかる。これは中国半導体産業の救世主なのか、それとも研究室に眠る“逸品”で終わるのだろうか。

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浙江から放たれた「ナノの神筆」

この装置の名前は、中国史上最も有名な書家の一人、王羲之に由来する。「我々の『毛筆』は電子ビームであり、チップの上に回路を刻むのだ」と開発チームは語る。開発を主導したのは、杭州の城西科創大走廊に拠点を置く浙江大学余杭量子研究院。国家的な半導体戦略の中核を担う研究機関だ。

羲之が狙うのは、現代の半導体製造の主流であるCMOS(相補性金属酸化膜半導体)の量産ラインではない。その主戦場は、量子コンピュータ用チップや次世代AIアクセラレータといった、まだ黎明期にある最先端半導体の研究開発(R&D)だ。

従来の光リソグラフィーが、回路パターンが描かれた「マスク(原版)」に光を当ててウェハーに転写する「版画」だとすれば、羲之が用いる電子ビームリソグラフィー(EBL: Electron Beam Lithography)は、極細の電子ビームを直接ウェハーに照射して回路を描く「ペン画」に近い。このマスク不要の「直接描画」方式こそが、羲之の最大の特徴である。研究開発段階では、設計の修正や試行錯誤が日常茶飯事だ。マスクを都度作り直す必要がないEBLは、この反復的なデバッグ作業において圧倒的な柔軟性とスピードを発揮する。

0.6nmの衝撃 ― 精度はASMLの牙城に迫るのか

羲之のスペックで最も注目すべきは、その精度だ。公式発表によると、達成した主な性能は以下の通りである。

  • 線幅: 8nm
  • 位置決め精度: 0.6nm

特に「0.6nm」という数字は、業界に衝撃を与えた。これは、半導体リソグラフィー装置市場を独占するオランダASML社が開発した最新鋭機「High-NA EUV」がターゲットとする領域に匹敵するからだ。しかし、この数字を単純に比較することには慎重でなければならない。

羲之の0.6nmは、電子ビームをウェハー上の狙った位置にどれだけ正確に照射できるかを示す「位置決め精度」だ。一方で、リソグラフィー装置の性能を語る上でより重要なのは、どれだけ微細な回路を描けるかを示す「解像度」である。羲之の最小線幅は8nmとされており、これも世界トップレベルの性能ではあるが、High-NA EUVが目指す2nmノード以降の量産で求められる解像度とは、まだ土俵が異なる。

とはいえ、この精度が研究開発用途において極めて強力な武器であることは間違いない。量子ビットの性能が数ナノメートルの構造の違いで大きく変動する量子チップの世界では、このレベルの精度で直接回路を試作・修正できることの価値は計り知れない。

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なぜ「羲之」は”ゲームチェンジャー”ではないのか?― スループットという致命的な壁

驚異的な精度を誇る羲之だが、なぜこれが即座に中国の半導体量産問題を解決する「ゲームチェンジャー」にはなり得ないのか。その答えは、EBL技術が抱える原理的な限界、すなわち「スループット(処理能力)の低さ」にある。

ウェハー1枚に数時間:EBLの原理的限界

羲之は、電子ビームという名の極細のペンで、広大なウェハー上を点から点へと移動しながら、膨大な回路パターンを一つひとつ丹念に描き込んでいく。この「点描(point-by-point writing)」方式は、必然的に膨大な時間を要する。情報筋によれば、1枚のウェハーを処理するのに数時間かかることも珍しくないという。

これに対し、ASMLのEUV装置は、強力な光を使ってマスクの回路パターンを一度にウェハーに照射する「スタンプ」のような方式だ。1時間あたり200枚以上のウェハーを処理できる最新のEUV装置と比べると、羲之の生産性は文字通り桁違いに低い。月産数万枚のウェハーを処理する必要がある量産工場にとって、EBLは現実的な選択肢とはなり得ないのだ。

このため、羲之の用途はあくまで研究開発や、ごく少量の特殊なカスタムチップの製造に限定される。中国最大のファウンドリであるSMIC(中芯国際集成電路製造)が、米国の制裁下で既存のDUV(深紫外線)装置を駆使して7nmチップを量産しているが、羲之がそのプロセスを直接置き換えることはないのである。

開発の背景にある、米国の「半導体包囲網」

羲之の誕生は、技術的な探求心だけから生まれたものではない。その背景には、米国主導で進められる厳しい地政学的現実、すなわち中国に対する半導体技術の輸出規制がある。

2020年以降、米国はオランダ政府に働きかけ、ASMLによる最先端EUV装置の対中輸出を完全に停止させた。これにより、中国が7nm以下の最先端プロセスノードで世界と競争する道は事実上閉ざされた。さらに規制は段階的に強化され、EUVよりは旧世代だが依然として高性能なDUV装置の一部にも輸出制限がかけられている。

この技術的封鎖は、中国国内のトップ研究機関を直撃した。杭州日報によれば、中国科学技術大学や之江実験室(Zhejiang Lab)といった量子コンピューティングやAI分野の最先端研究機関でさえ、研究に不可欠な高性能EBL装置の調達が長年不可能だった。羲之は、この技術的真空地帯を埋めるために、まさに渇望されていた存在なのだ。

国際市場価格よりも安価に提供されるという羲之は、すでに複数の国内研究機関や、Huawei傘下の半導体設計企業HiSiliconなどとの間で導入に向けた協議が始まっていると報じられている。これは、外部からの供給が断たれた中で、国内の技術エコシステムを内側から強化しようとする中国のしたたかな戦略の現れと言えるだろう。

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中国半導体自給への長い道のり

では、我々はこの「羲之」の登場をどう評価すべきか。筆者は、短期的な量産能力への影響は限定的としつつも、その戦略的価値を過小評価すべきではないと考える。

「羲之」が持つ戦略的価値

羲之がもたらす最大の成果は、製品そのものよりも、「最先端半導体の研究開発能力を国内で確保した」という事実にある。これにより、中国は外部環境に左右されずに次世代技術の基礎研究を継続できる基盤を手に入れた。これは、将来の独自量産技術を開発するための重要な布石となり得る。また、こうした高度な装置を自ら開発・運用する過程で、貴重な技術者や研究者が育つ。人材こそが、長期的な技術競争の源泉だ。

羲之は、中国が目指す完全な技術的自立までの、長く険しい道のりにおける一つの重要な「マイルストーン」であり、研究開発の最前線を支える「生命維持装置」としての役割を担うことになるだろう。

残された巨大な課題 : HuaweiのEUV開発は間に合うか

しかし、研究と量産の壁は厚い。中国が真に半導体大国となるためには、EUVのような量産向けリソグラフィー技術の国産化が不可欠だ。その鍵を握ると噂されているのが、通信機器大手Huaweiである。

複数の報道によれば、Huaweiは東莞の施設で独自開発のEUV装置の試験を進めており、早ければ2025年後半にも試験生産を開始する可能性があるという。注目すべきは、ASMLが採用するレーザー生成プラズマ(LPP)方式とは異なる、レーザー誘起放電プラズマ(LDP)というアプローチを採っているとされる点だ。これは、ASMLの膨大な特許網を回避する狙いがあると考えられるが、技術的な難易度は極めて高い。

この国産EUV開発が成功するかどうかが、中国半導体の未来を左右する。その意味で、羲之は、本格的な国産量産技術が確立されるまでの時間を稼ぎ、研究開発の火を灯し続けるための、極めて戦略的な「つなぎ」の技術と位置づけることもできる。

米国の制裁が、かえって中国の技術開発を加速させたという側面は否定できない。羲之の登場は、その皮肉な現実を象徴する出来事だ。この「ナノの神筆」が描く未来の回路図は、まだ誰にも予測できない。


Sources