量子コンピュータや、絶対に盗聴されない通信を実現する量子ネットワークの実用化に向けて、物理学と材料科学の境界領域で熾烈な研究開発が続いている。そうした中、米国カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UC Santa Barbara)の研究チームが、シリコン内部に形成される極めて安定した新たな量子ビット「CN Center(CNセンター)」を特定した。この発見は、これまで有望視されながらも製造上の致命的な弱点を抱えていた既存の量子ビット「T Center」の課題を根本から克服するものである。
米国エネルギー省の支援のもと、学術誌『Physical Review B』に発表されたこの画期的な研究成果は、現代のコンピュータ社会を根底から支える巨大なシリコン製造インフラを、そのまま量子デバイスの量産に転用できる可能性を秘めている。本稿では、第一原理計算によって解き明かされた「CN Center」の物理的なメカニズムと、それが次世代の量子通信にどのような変革をもたらすのかを徹底的に紐解いていく。
兆ドル規模の産業基盤を活かす「シリコン量子プラットフォーム」の探求
量子技術が実験室の枠を飛び出し、社会のインフラとして機能するための最大の障壁は、「スケーラビリティ(大規模拡張性)」と「製造の容易さ」である。現在、超伝導回路やイオントラップといった方式が量子コンピュータの開発を牽引しているが、それらを数百万量子ビットという実用規模までスケールアップするには、極低温冷却システムや複雑な制御回路の巨大化といった物理的な限界が立ちはだかっている。
そこで世界中の研究機関やテクノロジー企業が熱視線を送っているのが、現在主流のコンピュータチップの基材である「シリコン」を活用した量子ビットプラットフォームである。シリコンをベースにすることができれば、人類が過去半世紀にわたって築き上げ、すでに最適化されている兆ドル規模の巨大な半導体産業の製造プロセスや設備を、量子デバイスの生産に直接流用できるからだ。
このシリコン量子プラットフォームにおいて、量子ビットの物理的な実体として利用されるのが、結晶内の「原子レベルの欠陥(Defect)」である。完全な規則性を持つ結晶格子の中に、意図的に異なる原子を不純物として混入させたり、原子の抜け穴(空孔)を作ったりすることで、そこに電子が局在し、特異なエネルギー状態が生まれる。この局在した電子のスピン状態を利用して量子情報の「0」と「1」の重ね合わせを表現し、さらにそこから放出される光子(単一光子)を介して遠く離れた量子ビット同士を通信させるのである。
代表的な欠陥量子ビットとしては、ダイヤモンド中の窒素-空孔センター(NVセンター)が広く知られており、室温でも長いスピンコヒーレンス時間(量子状態を保持できる時間)を持つことで注目を集めてきた。しかし、ダイヤモンドは極めて硬く加工が困難であり、大規模な集積回路へと発展させるには素材としての限界があった。そのため、加工技術が成熟しているシリコン結晶内で、NVセンターに匹敵する優れた特性を持つ欠陥を発見し、制御することが、量子情報科学における最重要のフロンティアとなっている。
従来の有望株「T Center」が抱えていた「水素」というアキレス腱
シリコンをホスト材料とする欠陥量子ビットの探索において、近年最も有望視され、世界中で集中的に研究されてきたのが「T Center(Tセンター)」と呼ばれる構造である。Tセンターは、シリコンの結晶格子の中で、2つの炭素原子(C)と1つの水素原子(H)がシリコン原子と置き換わる形で結合した複合体(CCH欠陥)である。
Tセンターが科学者たちを熱狂させた理由は、大きく2つある。第一に、ダイヤモンドのNVセンターに匹敵するミリ秒単位の非常に長いスピンコヒーレンス時間を持つこと。第二に、ここから放出される光子が「テレコム波長帯(通信波長帯)」と呼ばれる領域のエネルギーを持っていることである。具体的には、光ファイバー通信において伝送損失が極めて少なく、長距離通信に最適化されたOバンド(波長1300ナノメートル付近)の光を放つ。つまり、Tセンターで処理された量子情報を、既存の光ファイバー網に乗せて遠方へと転送する量子インターネットの構築において、まさに理想的な特性を備えていたのである。
しかし、この画期的なTセンターには、実用化を阻む致命的なアキレス腱が存在した。それは、構成要素である「水素原子」の存在そのものである。水素は宇宙で最も小さく軽い元素であり、固体のシリコン結晶の内部であっても容易に動き回り、拡散してしまう性質を持つ。
現代の半導体チップの製造工程では、不純物の活性化や結晶の修復のために、高温での熱処理(アニーリングプロセス)が不可欠である。しかし、Tセンターはこの熱処理などの製造環境の変化に対して極めて脆弱であった。水素原子が容易に結晶内を移動し、炭素原子との結合から離脱(脱水素化)してしまうため、意図した場所に安定してTセンターを形成し、維持し続けることが著しく困難であったのである。この「水素による不安定性」が、量子チップの歩留まりを低下させ、再現性と信頼性の高いデバイスを大規模に製造する上での巨大な障壁として立ちはだかっていた。
救世主となるか。水素を排除し堅牢性を獲得した「CN Center」の発見

「優れた量子特性を持ちながら、製造プロセスの過酷な環境にも耐えうる頑強なシリコン量子ビットは存在しないのか」。この問いに答えるべく、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の材料科学者Chris Van de Walle教授が率いるComputational Materials Group(計算材料科学グループ)は、全く新しい欠陥構造の設計に挑んだ。そして、高度な計算機科学を駆使して特定されたのが、炭素(C)と窒素(N)の原子のみから構成される「CN Center」である。
本研究を主導したKevin Nangoi博士らのアプローチは、非常にエレガントかつ理にかなったものであった。彼らは、問題の元凶である水素原子を取り除き、Tセンターの水素と一方の炭素を、一つの「窒素原子」に置き換えるという着想に至ったのである。
その根底には「等電子的(isoelectronic)」という重要な物理法則がある。窒素原子は、炭素原子と水素原子を合わせたものと全く同じ数の電子と陽子を持っている。そのため、結晶格子内において、Tセンター(炭素+炭素+水素)のペアの一部を窒素(炭素+窒素)に置き換えても、システム全体の電子的なバランスは維持される。研究チームは、等電子的な関係性を保つことで、Tセンターの持つ優れた光学的・スピン特性を損なうことなく、動き回りやすい水素を完全に排除し、構造的な安定性を飛躍的に高められるという仮説を立てた。
この仮説を立証するため、研究チームは最先端のスーパーコンピュータを利用し、「第一原理計算(First-principles calculations)」と呼ばれる量子力学の基本原理のみに基づいた厳密なシミュレーションを実行した。密度汎関数理論(DFT)を用いて、数万通りの原子配置から最もエネルギー状態が低く安定する構造を探索したのである。
結果として導き出されたCNセンターは、シリコン結晶の格子点に位置する炭素原子と窒素原子のペアによって形成されることが判明した。さらに熱力学的な分解エネルギーの計算により、このCNセンターは、単独の炭素欠陥や窒素欠陥へと分離してしまうことなく、極めて強固に結合を維持することが証明された。Kevin Nangoi博士が「Tセンターとは異なり、この欠陥には水素が含まれていないため、実際のデバイスを構築する際にはるかに堅牢で、実現が容易になる」と述べている通り、製造工程における熱的ストレスにも耐えうる、真に量産向きの量子ビットの青写真が描かれたのである。
第一原理計算が解き明かす驚異的な量子特性と光通信への適合性
CNセンターの真の革新性は、単に構造的な堅牢性を手に入れただけにとどまらない。量子ネットワークの構築に不可欠な、通信波長帯での単一光子発光という極めて高度な物理的要件を見事に満たしている点にある。
論文のデータによれば、CNセンターの電子状態はTセンターと驚くほど類似している。基底状態におけるスピンの振る舞いや、光を吸収してエネルギーが高い状態(励起状態)になった際の電子の分布パターンは、量子情報を安定して操作するのに十分な特性を示している。特に興味深いのは、CNセンターが励起された際、欠陥に局在した電子と、その周囲を水素原子のように回る正孔(ホール)が結びついた「束縛励起子(bound exciton)」と呼ばれる状態を形成することだ。研究チームは、この束縛励起子の広がりを正確に捉えるため、最大1000個のシリコン原子を含む巨大なスーパーセル空間でのシミュレーションを実施し、有限サイズ効果を補正する緻密な計算を行っている。
これらの厳密なモデリングによって導き出されたのが、CNセンターから放出される光子のエネルギーを示す「ゼロフォノン線(ZPL:Zero-Phonon Line)」の値である。ゼロフォノン線とは、結晶格子の熱振動(フォノン)によるエネルギーのロスを伴わずに、純粋な電子遷移のみによって放出される光子のエネルギーを指す。量子ネットワークにおいて情報をやり取りするためには、このゼロフォノン線に乗った純度の高い光子が多く放出されることが極めて重要となる。
シミュレーションの結果、CNセンターのZPLは828 meV(電子ボルト)であると予測された。このエネルギー値は、現在の長距離光ファイバー通信で広く利用されている「テレコム波長帯」のうち、Sバンド(波長1460~1530ナノメートル付近)の領域に見事に合致する。これは、CNセンターから放出された量子情報(光子)を、既存の光通信インフラに直接入力し、地球規模のネットワークへと伝送できることを意味している。
さらに、量子状態から光子を放出するまでの時間を示す「放射寿命(radiative lifetime)」の計算値は4.2マイクロ秒であった。これはTセンターと同等の数値であり、高速な量子情報の読み出しと書き込みを行う単一光子源として、十分な性能を発揮することが理論的に裏付けられた。また、発光成分のうちどれだけの割合が純粋なゼロフォノン線に集中するかを示す「デバイ・ワラー因子(Debye-Waller factor)」についても、通信プロトコルを機能させる上で有用な数値が保たれていることが確認されている。
スケーラブルな量子通信・量子ネットワーク構築への道
今回のカリフォルニア大学サンタバーバラ校とブルックヘブン国立研究所による研究成果は、シリコンベースの量子コンピューティングおよび量子通信のハードウェア開発における、極めて重要なマイルストーンとなる。
これまで量子科学の基礎研究と、スケーラブルな産業技術の量産ラインとの間には、材料の不安定性という大きな溝が横たわっていた。しかし、水素フリーで製造プロセスのストレスに耐えうる通信波長帯の量子発光体が特定されたことで、その溝は大きく埋まることとなる。CNセンターの最大の強みは、既存のシリコンフォトニクス(光集積回路)技術とシームレスに統合できる可能性が高い点である。特殊な材料を扱うための製造ラインを新設する必要がなく、現在の半導体工場のプロセスフローの延長線上で、量子プロセッサや量子ルーターを製造できる未来が現実味を帯びてきた。
同グループの出身で、現在は米国海軍研究所(U.S. Naval Research Laboratory)に所属するMark Turiansky博士は、「我々の結果は、CNセンターがTセンターを量子アプリケーションにとって魅力的なものにしている主要な電子的・光学的特性を再現していることを示している。特に、構造的に安定しており、テレコム帯域の光を生成するという点は重要だ」と強調している。
また、研究を統括したVan de Walle教授は、「もし実験的に確認されれば、CNセンターは量子デバイスの実用的な新たなビルディングブロックとして機能し、今日の電子機器を駆動しているのと同じシリコン素材を用いて、高度な量子技術の開発を加速させる可能性がある」と、その社会的インパクトの大きさを展望している。
量子コンピュータ同士を光ファイバーで繋ぎ、計算能力を飛躍的に高める「分散型量子コンピューティング」や、物理法則に裏付けられた究極のセキュリティを誇る「量子インターネット」の構築において、安定して量産可能なシリコン量子ビットは欠かすことのできないマスターピースである。コンピュータシミュレーションの世界でその圧倒的なポテンシャルが示された今、次なるステップは実際のシリコンウェハー上でのCNセンターの物理的実証と、デバイスへの実装である。材料科学の最前線から生まれたこの小さな「水素を持たない欠陥」に、世界中の研究機関や半導体メーカーから熱い視線が注がれている。
論文
- Physical Review B: Carbon-nitrogen complex as an alternative to the T center in Si
参考文献
- Brookhaven National Laboratory: A Robust New Telecom Qubit in Silicon
- UC Santa Barbara: A robust new telecom qubit in silicon