19世紀の物理学者が夢見た「原子は宇宙に浮かぶ結び目である」という壮大な仮説。科学史の片隅に追いやられていたこのアイデアが、150年以上の時を経て、現代物理学の最前線に鮮やかに蘇った。広島大学の研究チームが発表したこの新理論は、我々の宇宙がなぜ存在するのか、その根源的な謎である「物質と反物質の不均衡」「ダークマターの正体」「ニュートリノの質量」という3つの巨大な壁を、たった一つのエレガントな枠組みで説明しうる可能性を秘めているものだ。
忘れ去られた天才の夢:ケルヴィン卿の「渦原子論」再び
話は1867年に遡る。後に絶対温度の単位にその名を残す物理学者、William Thomson(ウィリアム・トムソン)、またの名をケルヴィン卿(Lord Kelvin)は、ある単純かつ深遠な問いに取り憑かれていた。「なぜ、この世界の原子は多種多様でありながら、その種類は限られているのか?」と。 当時、電子の存在すら知られておらず、宇宙は「エーテル」と呼ばれる謎の流体で満たされていると信じられていた。
ケルヴィン卿は、煙の輪が空中で安定した形を保つ様子から着想を得て、原子とはこのエーテルの中に生じた「渦の結び目」なのではないか、という「渦原子論」を提唱した。 結び方の違いが、水素や酸素といった元素の違いを生み出すのだと彼は考えたのだ。この理論は、結び目が切れたり交差したりしない限りその形を保つ「トポロジカル(位相幾何学的)」な安定性を持っており、当時の科学者たちを大いに魅了した。
しかし、この美しい理論は、Albert Michelsonの有名な実験によってエーテルの存在が否定されたことで、その土台を失い、歴史の闇に消えていった。
だが、物語はここで終わらなかった。「結び目」という数学的概念そのものは、物理学の様々な分野で生き続けていた。流体力学の渦、超伝導体内の磁束線、液晶の欠陥など、形を保ち続ける安定な構造として、「トポロジカル・ソリトン」と呼ばれる結び目状の構造が理論的に、そして実験的に確認されてきたのだ。
そして2025年、広島大学、慶應義塾大学、そしてドイツ電子シンクロトロン(DESY)に所属する研究者、新田宗土教授、衛藤稔氏、濱田悠氏らのチームが、この19世紀の夢を現代の素粒子物理学の文脈で再構築することに成功したのである。 彼らは学術誌 『Physical Review Letters』に掲載された論文で、宇宙の最も根本的な謎を解き明かす鍵が、この「宇宙の結び目」にある可能性を初めて理論的に示した。
我々の存在を問う:宇宙に残された3つの巨大な謎
現代物理学の金字塔である「標準模型」は、素粒子の世界を驚くべき精度で記述する。しかし、その輝かしい成功の裏で、広大な宇宙を見渡すと、どうしても説明できない巨大な謎が3つ、まるで暗雲のように横たわっている。今回の新理論が挑むのは、まさにこれらの謎だ。
謎1:消えた反物質 – なぜ宇宙は物質だけでできているのか?
標準模型によれば、138億年前の宇宙の始まりであるビッグバンでは、物質と、その鏡写しの存在である「反物質」が、全く同じ量だけ生まれたはずだった。 もしそうであれば、物質と反物質は出会うと対消滅して光(エネルギー)に変わってしまうため、現在の宇宙には何も残らず、ただエネルギーの光が満ちるだけの空虚な空間になっていたはずだ。
しかし、現実の宇宙は星や銀河、そして私たち自身という「物質」で満ち溢れている。観測によれば、かつて10億個の物質・反物質ペアが対消滅する中で、たった1つだけ物質の粒子が生き残った結果が、今の宇宙の姿なのだという。 この致命的なまでの「物質と反物質の非対称性(バリオン数非対称性)」がなぜ生まれたのか、標準模型では説明がつかない。これは、我々が存在する理由そのものを問う、物理学最大の謎の一つである。
謎2:見えない支配者 – ダークマターの正体とは?
銀河の回転速度や銀河団の動きを観測すると、私たちに見える星やガスなどの物質の重力だけでは、到底その形を維持できないことが分かっている。宇宙には、光を出さず、電磁波ともほとんど反応しない、正体不明の「暗黒物質(ダークマター)」が、通常の物質の5倍以上も存在すると考えられている。この見えざる物質が宇宙の構造を支配していることはほぼ確実だが、その正体は誰も知らない。標準模型には、ダークマターに相当する粒子は存在しないのだ。
謎3:すり抜ける幽霊 – ニュートリノはなぜ質量を持つのか?
ニュートリノは、私たちの体を毎秒100兆個も突き抜けていく、極めて反応しにくい「幽霊粒子」だ。標準模型では、ニュートリノの質量はゼロであるとされてきた。しかし、日本のスーパーカミオカンデをはじめとする実験で、ニュートリノが飛行中に別の種類のニュートリノに変化する「ニュートリノ振動」が発見され、ニュートリノに極めて小さいながらも質量があることが証明された。なぜニュートリノだけがこれほどまでに軽い質量を持つのか、その起源もまた、標準模型の枠外にある大きな謎となっている。
理論の核心:2つの対称性が紡ぐ「宇宙の結び目」
広島大学の研究チームは、これら3つの謎を統一的に説明する鍵として、標準模型を拡張する2つの理論的な「対称性」に注目した。そして、これまで誰も試みなかった、この2つの対称性を「同時に」考えるというアプローチが、安定した「宇宙の結び目」を生み出すことを発見したのである。
歯車1:Peccei-Quinn対称性と「アクシオン」
一つ目は「Peccei-Quinn (PQ) 対称性」と呼ばれるものだ。これは、素粒子物理学における別の難問「強いCP問題」を解決するために導入された理論であり、この対称性が破れる際に「アクシオン」という新しい粒子が生まれることを予言する。 このアクシオンは、ダークマターの最有力候補の一つとされている。 PQ対称性は「大域的(グローバル)対称性」であり、その破れは「超流動渦」と呼ばれる、磁場を持たない糸のようなエネルギーの塊(宇宙ひも)を生み出す。
歯車2:B-L対称性と「右巻きニュートリノ」
二つ目は「B-L対称性」である。これは「バリオン数(B)マイナス レプトン数(L)」の保存則に関わる対称性で、ニュートリノに質量を与える有力な理論(シーソー機構)の土台となる。 この理論は、標準模型には存在しない「右巻きニュートリノ」という非常に重い新粒子の存在を必要とする。そして、この重い右巻きニュートリノが崩壊することで、物質と反物質の非対称性が生まれたとするシナリオ(レプトジェネシス)にも繋がる。B-L対称性は「局所的(ゲージ)対称性」であり、その破れは「磁束管」と呼ばれる、磁場を内部に閉じ込めた糸のような宇宙ひもを形成する。
独創的な結合:2種類の「ひも」が絡み合い、安定な結び目へ
研究チームの独創性は、これら性質の異なる2つの対称性を一つの理論的枠組みで扱った点にある。
「これまで誰も、この2つの対称性を同時に研究したことはありませんでした」と、論文の責任著者である新田宗土教授は語る。「それらを組み合わせたことで、安定した結び目が現れたのです。これは幸運でした」。
彼らの計算によると、初期宇宙が冷えていく過程で、PQ対称性の破れから生まれた「磁場のない超流動渦」と、B-L対称性の破れから生まれた「磁場を持つ磁束管」という2種類の宇宙ひもが生成される。そして、これら2種類のひもが互いに絡み合うと、まるでロープを結んだ時のように、簡単にはほどけない安定した「結び目ソリトン」が形成されることが明らかになったのだ。 この結び目はトポロジカルに保護されており、自らの張力で縮んで消えてしまうことなく、宇宙空間で安定して存在し続けることができるのである。
新たな宇宙史:「結び目が支配した時代」の誕生と崩壊
この発見は、私たちの宇宙の歴史に、これまで知られていなかった新たな一章を書き加える可能性を示唆している。
研究チームが提唱するシナリオはこうだ。
- 結び目の誕生: ビッグバン直後の超高温状態の宇宙が冷え、相転移が起こると、2種類の宇宙ひもが網の目のように宇宙の至る所に生成される。そのうちのいくつかが偶然絡み合い、安定した「結び目ソリトン」が大量に生まれる。
- 結び目が支配した時代: これらの結び目は重い粒子のように振る舞う。宇宙が膨張するにつれて、光などの放射エネルギーは薄まっていくが、結び目のエネルギー密度はそれほど速くは薄まらない。やがて、宇宙の全エネルギーを結び目が支配する「Knot-Dominated Era(結び目が支配した時代)」という特殊な期間が短時間存在した、と研究チームは考える。
- 結び目の崩壊と物質の創生: しかし、この結び目は永遠ではない。量子力学的な効果(量子トンネル効果)によって、結び目はやがて「ほどけて」崩壊する。 この崩壊は、まるでシャワーのように大量の粒子を宇宙に放出する。
この時放出される粒子の中に、B-L対称性が予言する「重い右巻きニュートリノ」が含まれている。そして、この重い右巻きニュートリノが、より軽い通常の粒子(電子や光子など)に崩壊する際に、ごくわずかに物質を反物質よりも多く作り出すのだ。
この一連のプロセスが、現在の宇宙に見られる決定的な物質の優位性を生み出した、というのが彼らの理論の核心だ。
論文の共著者である濱田氏は、この壮大なプロセスを詩的に表現する。
「この崩壊は、私たちの体を含む、今日の宇宙のすべての物質の『親』を生み出しました。その意味で、結び目は私たちの『祖父母』と考えることができるのです」。
さらに驚くべきことに、彼らの計算によれば、この結び目の崩壊によって宇宙は再加熱され、その温度は物質が安定して形成されるのに最適な約100 GeV(ギガ電子ボルト)に達するという。 この理論は、3つの大きな謎に答えうるだけでなく、宇宙の温度史とも見事に整合するのだ。
理論から現実へ:重力波で探る「結び目」の痕跡
この壮大な理論は、単なる机上の空論で終わるのだろうか?研究チームの答えは「ノー」だ。彼らの理論の最も強力な点の一つは、将来の観測によって検証可能であると明確に主張していることにある。 その鍵を握るのが「重力波」だ。
宇宙ひもが振動したり、ループを形成して崩壊したりする際には、時空のさざ波である重力波が放出される。もし宇宙の初期に「結び目が支配した時代」が本当に存在したならば、宇宙ひものネットワークが作り出す重力波の背景放射(宇宙重力波背景)のスペクトルに、特有の痕跡が刻まれているはずだという。
具体的には、結び目が宇宙のエネルギーを支配していた期間があることで、重力波スペクトルの形が、標準的なシナリオ(結び目がない場合)から予測される平坦な形とは異なり、特定の周波数帯で歪んだ形になる。
この「宇宙のささやき」とも言える微弱な信号を捉えるため、世界中で次世代の重力波観測計画が進んでいる。宇宙空間に巨大な干渉計を設置する欧州のLISA、米国のCosmic Explorer、そして日本のDECIGOといった将来の観測計画は、まさにこの理論が予測する周波数帯の重力波を検出する感度を持つ。
「これらの実験によって、宇宙が本当に結び目に支配された時代を通過したのかどうかを検証できるでしょう」と新田教授は期待を寄せる。 もし予測通りの重力波信号が観測されれば、それはケルヴィン卿の150年前の夢が、形を変えて宇宙の真理を突いていたことの何よりの証拠となるだろう。
宇宙創生の神話は書き換えられるか
広島大学の研究チームが提示した「宇宙の結び目」理論は、現代物理学が直面する3つの最も根源的な問いに対し、驚くほどシンプルかつ統一的な解答の可能性を示した。それは、忘れ去られた過去のアイデアに新たな光を当てることで、未来の物理学への扉を開くという、科学のダイナミズムそのものを体現している。
もちろん、この理論はまだ始まったばかりだ。 今後は、より具体的なモデルを構築し、シミュレーションを精緻化して、重力波などの観測的証拠と詳細に比較していく必要がある。
しかし、この研究が持つ意義は計り知れない。それは単に3つの謎を解く可能性だけでなく、素粒子物理学と宇宙論という、ミクロとマクロの世界を結びつける新たな架け橋となるかもしれないからだ。ケルヴィン卿がエーテルの渦に見た夢は、時空そのものに織り込まれた壮大なタペストリーの基本構造、「宇宙の結び目」として、今まさに解き明かされようとしているのかもしれない。我々は、宇宙創生の神話が書き換えられる歴史的な瞬間の入り口に立っているのではないだろうか。
論文
- physical Review Letters: Tying Knots in Particle Physics
参考文献