テクノロジーと科学の最新の話題を毎日配信中!!

赤外線で暗闇を見る「超視覚」を実現する人工網膜の開発に成功。失明治療に新たな光

Y Kobayashi

2025年6月16日

中国・上海の復旦大学を中心とする共同研究チームが、科学界に衝撃を与える研究成果を発表した。テルルナノワイヤという新素材を用いた革新的な網膜プロテーゼ(人工網膜)は、失明した動物の視力を回復させただけでなく、人間には本来見ることのできない「赤外線」を知覚させることにも成功したという。この成果は、人間の知覚能力そのものを拡張する「超視覚」への扉を開くものとして、世界中から熱い視線が注がれている。

スポンサーリンク

科学界を揺るがす「自己発電型」人工網膜の誕生

失われた視力を取り戻すという人類長年の夢。その実現に向けた研究は数多く存在するが、従来の人工網膜技術は、外部からの電力供給を必要とする有線ケーブルや、かさばる補助装置が不可欠であった。これが手術の複雑化や患者への身体的負担となり、実用化への大きな壁となっていたのは否めない。

しかし、科学誌『Science』に掲載された今回の研究は、その常識を根底から覆すものだ。復旦大学、中国科学院上海技術物理研究所らの研究チームが世に送り出したナノプロテーゼは、外部電源を一切必要としない「自己発電型」なのである。

光そのものをエネルギー源として電気信号を生成し、網膜の神経細胞を直接刺激する。この画期的なアプローチにより、手術は低侵襲化され、患者の体には小型のプロテーゼ本体を埋め込むだけで済む。このシンプルさこそ、長年停滞気味だったこの分野における、真のブレークスルーと言えるのではないだろうか。

提供された画像は、この技術のコンセプトを見事に描き出している。視力検査表から放たれた光のスペクトルが眼球に入り、網膜に埋め込まれたプロテーゼがそれを捉える。そして、その信号は視神経を駆け巡り、脳の後頭葉にある視覚野へと届けられる。この一連の流れが、外部からのエネルギー供給なしに完結するのである。

鍵を握る「テルルナノワイヤ」とは何か?

この革新的な人工網膜の心臓部を成すのが、「テルルナノワイヤネットワーク(TeNWNs)」と呼ばれる新素材だ。では、この聞き慣れない物質は、一体どのような特性を持つのだろうか。

光を電気に変える魔法の素材

テルル(Tellurium)は、半導体の性質を持つ元素の一つである。この物質が持つ最大の特徴は、光を浴びると電気を生み出す「光起電力効果」が非常に高いことだ。研究チームは、このテルルを極めて細い繊維状の「ナノワイヤ」にし、それを複雑に織り交ぜて柔軟なメッシュ状のシートを作成した。

このシートを、機能しなくなった網膜の視細胞(光を感知する細胞)の代わりに埋め込むことで、プロテーゼはまるで本物の視細胞のように、入ってきた光を電気信号へと変換する。まさに、テクノロジーによって生み出された「人工の視細胞」だ。

外部電源を不要にする「ゼロバイアス光電流」の秘密

しかし、なぜ外部電源なしで、神経を刺激するほど強力な電気信号を生み出せるのか。その秘密は、ナノワイヤネットワークの「設計された非対称性(engineered asymmetries)」にある。

論文によれば、研究チームはナノワイヤの結晶構造における微細な欠陥や、ワイヤ同士が接触する界面の効果を巧みに制御した。この意図的に作られた「非対称性」により、光が当たると自然に一方向への強い電流(光電流)が発生する。専門的には「巨大なゼロバイアス光電流」と呼ばれるこの現象こそが、外部からの電圧供給(バイアス)を不要にする技術の核心だ。これは、単に素材の特性に頼るのではなく、ナノレベルでの精密な設計思想が生んだ、まさにテクノロジーの勝利と言えるだろう。

低侵襲手術を可能にするナノネットワーク構造

さらに、このプロテーゼは指の爪の20分の1ほどのサイズにまでレーザーで精密に切り出すことができ、患者一人ひとりの網膜の状態に合わせてカスタマイズが可能だ。柔軟なメッシュ構造は、眼球内部のデリケートな網膜組織に優しくフィットし、低侵襲での埋め込み手術を実現する。かさばる機器や複雑な配線から解放されたことは、臨床応用への道を大きく拓くものだ。

スポンサーリンク

失明マウスに光が戻り、サルは「赤外線」を見た

この技術の真価は、動物実験において劇的な形で証明された。

マウス実験で証明された劇的な視力回復

研究チームは、遺伝子操作によって失明させたマウスの眼にこのナノプロテーゼを埋め込んだ。その結果は驚くべきものだった。

それまで光に全く反応しなかったマウスの瞳孔が、再び光に反応して収縮するようになったのだ。さらに、行動実験では、光の合図を頼りに、水が置かれた特定の図形(三角形)を円形と区別して見つけ出すことにも成功した。これは、単に光の明暗を感知しただけでなく、「形」を認識できるレベルの視力が回復したことを示唆している。

特筆すべきは、この反応が、臨床で安全とされる光の強度のわずか80分の1という、極めて薄暗い光の下で確認されたことだ。これはプロテーゼが非常に高い感度を持つことの証左に他ならない。

人間に最も近い霊長類での成功、そして「超視覚」の獲得

研究はさらに、ヒトに極めて近い視覚系を持つカニクイザルでも実施された。プロテーゼはサルの網膜にしっかりと結合し、埋め込みから6ヶ月が経過しても有害な反応は見られなかった。生体適合性の高さが示されたのだ。

そして、このサルの実験で、さらに驚異的な事実が明らかになる。このプロテーゼは、人間の視覚が捉える可視光(波長約380〜780nm)だけでなく、それをはるかに超える近赤外線(最大1550nm)にも反応したのだ。つまり、このサルは、本来の視力を損なうことなく、人間には見えない赤外線の世界を見る「超視覚」を手に入れたことになる。

暗闇の中でものを認識したり、熱源を光として捉えたりする。そんなSF映画で描かれてきた世界が、現実のテクノロジーとしてその姿を現した瞬間だった。

この技術が拓く未来と残された課題

これは、「見る」という行為の定義そのものを変え、人間の能力を拡張する未来への序章かもしれない。

「見る」ことの定義を変える可能性

もしこの技術が人間に応用されれば、網膜色素変性症や加齢黄斑変性といった病気で光を失った人々が、再び世界を見ることができるようになるかもしれない。それは計り知れない希望だ。

だが、この技術のポテンシャルはそこだけに留まらない。赤外線を知覚する能力は、夜間や暗所での活動を劇的に改善するだろう。消防士が煙の向こうの熱源を見つけたり、夜間の警備員が侵入者を容易に発見したりと、その応用範囲は無限に広がる。人間の視覚は、自然が与えた限界から解き放たれる可能性があるのだ。

臨床応用への長く、しかし確実な道のり

もちろん、楽観論だけで語ることはできない。動物実験の成功はあくまで第一歩であり、人間への臨床応用までには、まだいくつものハードルが存在する。長期的な安全性と耐久性の検証、そしてプロテーゼが生成する信号を脳がどれだけ自然な「映像」として解釈できるのか、という情報処理の質(解像度や色の再現性、動きへの追従性など)の向上が今後の大きな課題となるだろう。

研究チームの一員であるZhang Jiayi氏も、「今後の研究方向は、生体内での視覚情報処理の速度と精度を高めること」と語っており、チームが次なる課題を既に見据えていることがわかる。

この道は長く険しいかもしれない。しかし、この研究が示した確かな一歩は、失明に苦しむ人々にとって、そして人類の未来にとって、かつてないほど明るい光を投げかけている。


論文

参考文献

Follow Me !

\ この記事が気に入ったら是非フォローを! /

フォローする
スポンサーリンク

コメントする