オランダの半導体メーカー、Nexperiaを巡る情勢が緊迫の度を増している。一企業の経営権争いに端を発したかに見えたこの問題は、今やオランダ政府による異例の介入、米国の輸出規制、そして中国の対抗措置という国家間の綱引きへと発展した。これは米中の技術覇権争いの狭間で、欧州がいかに経済安全保障を確保しようと苦闘しているかの縮図であり、グローバルに張り巡らされた半導体サプライチェーンの脆弱性を改めて浮き彫りにする事件である。自動車から産業機器まで、我々の生活に不可欠な「エッセンシャル半導体」を供給するこの企業に、今何が起きているのか。

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発端はCEO解任劇:オランダ当局が下した異例の判断

全ての始まりは2025年10月7日、オランダの企業審判所 (Enterprise Chamber) が下した一つの裁定だった。同審判所は、Nexperiaの当時のCEOであったZhang Xuezheng氏の経営について「健全な経営を疑う正当な理由がある」と結論づけ、同氏をCEO職から即時停職させるという極めて厳しい措置を命じた。

この裁定は、単なる経営方針の対立から生まれたものではない。報道によれば、Zhang氏がNexperiaの資金や発注を利用し、自身が個人的に保有する別の半導体メーカーを救済しようとした疑いが浮上している。事実であれば、これは深刻なガバナンス不全であり、企業審判所が動く十分な理由となる。さらに審判所は、中国の親会社Wingtech Technologyが間接的に保有するNexperia株の議決権のほぼ全てを、裁判所が任命した独立管財人の管理下に置くという、前例の少ない決定を下した。これは事実上、親会社からの経営介入を一時的に無力化する措置に他ならない。

この司法判断に呼応するように、オランダ政府も動いた。経済省は「物品供給確保法 (Goods Availability Act, Wbg)」という、国家の安全保障や経済に不可欠な物資の供給を守るための法律を発動。Nexperiaに対し、会社の資産移転、役員の解雇、その他重要な経営判断を行う際には、政府の明確な許可を得ることを義務付けた。この緊急命令は1年間の時限措置とされるが、一民間企業の経営に政府がここまで直接的に介入するのは極めて異例である。

オランダ政府の報道官はテレビ番組で、「もし行動を起こさなければ、欧州はこの種の半導体に関する知識、専門性、生産能力の面で100%外国に依存することになっていただろう」と述べ、今回の介入が欧州の戦略的自律性を守るための国家的な決断であったことを強く示唆した。

水面下で進んでいた米国の圧力:エンティティリストが連鎖の引き金か

オランダ政府の迅速かつ強硬な対応の裏には、米国の影が見え隠れする。この地政学的なパズルのピースを嵌める上で、いくつかの重要な日付が存在する。

まず、Nexperiaの親会社であるWingtechは、2024年12月の段階で米商務省産業安全保障局(BIS)によって、事実上の禁輸措置リストである「エンティティリスト」に追加されていた。そして決定打となったのが、2025年9月29日に米国が発表した輸出管理規則の強化である。この新ルールは、エンティティリストに掲載された企業が50%以上の株式を保有する子会社や関連会社にも、同様の輸出規制を適用するというものだった。Wingtechの完全子会社であるNexperiaは、この「50%ルール」によって、明確に米国の規制対象となったのである。

この動きは、米国の対中半導体戦略の一環として理解する必要がある。米国は近年、最先端の半導体製造装置の対中輸出を厳しく制限してきた。その象徴が、世界唯一のEUV(極端紫外線)リソグラフィ装置メーカーであるオランダのASMLに対する輸出制限だ。米国は同盟国であるオランダに強く働きかけ、まず最先端のEUV装置、次いで旧世代のDUV(深紫外線)装置についても、中国への輸出を段階的に差し止めさせてきた。

Nexperiaが製造するのは、ASMLの装置で作られるような最先端ロジック半導体ではない。自動車や産業機器向けの、より成熟したプロセスで作られるパワー半導体やアナログ半導体が中心だ。しかし、これらの「エッセンシャル半導体」は、現代社会のインフラを支える上で欠かすことのできない戦略物資である。米国は、Nexperiaが持つ技術や生産能力が親会社のWingtechを通じて中国の軍事・産業基盤強化に繋がることを強く警戒したと考えられる。オランダ政府の介入は、こうした米国の強い意向と、自国の経済安全保障への懸念が交差した結果と分析するのが妥当であろう。

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中国の対抗措置とサプライチェーンへの衝撃

米蘭の連携した動きに対し、中国が沈黙を守るはずはなかった。オランダ企業審判所の決定に先立つ10月4日、中国商務部はNexperiaの中国法人とその下請け業者に対し、特定の完成部品および半組立品の輸出を禁止する通知を出した。これは明らかに、米国とオランダに対する報復措置と見て間違いないだろう。

この中国の輸出規制は、世界のサプライチェーン、特に自動車産業に深刻な影響を及ぼす可能性がある。Nexperiaの生産プロセスはグローバルに分業化されており、多くの場合、半導体の前工程(ウェハー製造)はドイツのハンブルク工場などで行われるが、後工程(パッケージング、テスト)は中国の工場が担っている。つまり、中国からの輸出が止まれば、たとえ欧州でウェハーを製造できたとしても、最終製品として出荷することができなくなる。

この事態に最も敏感に反応したのが、欧州の自動車業界だ。BMW、フォード、ルノーなどを擁する欧州自動車工業会(ACEA)は即座に声明を発表し、Nexperiaを巡る混乱が自動車用半導体の不足を引き起こす可能性があるとして、強い懸念を表明した。コロナ禍で経験した長期にわたる半導体不足が、生産停止や納車遅延という形で自動車メーカーに甚大な被害をもたらした記憶は、今なお生々しい。サプライチェーンの特定の一点が機能不全に陥るだけで、巨大な産業全体が麻痺しかねないという恐怖が、再び業界を覆っている。

泥沼化する情報戦:「中国部門の独立」声明の真相

政府間の対立が深まる中、現場では情報戦ともいえる事態が展開されている。CEOを解任されたZhang Xuezheng氏側、あるいはNexperiaの中国部門からとされる内部メモが流出し、従業員に対してオランダ本社の指示を無視し、今後は独立した中国企業として運営するよう指示したと報じられた。さらに、オランダの新経営陣が従業員の給与を支払っていないといった噂も飛び交った。

これに対し、Nexperia本社はオランダの新経営陣(暫定CEOに就任したCFOのStefan Tilger氏ら)の名で、これらの主張を「虚偽であり、事実と異なり誤解を招くものだ」と真っ向から否定。全ての拠点は通常通り稼働していると強調した。

この一連の動きは、経営権を巡る内部対立が、中国と西側諸国の対立という大きな構図を背景に、プロパガンダ合戦の様相を呈していることを示している。どちらの主張が真実かを外部から判断するのは困難だが、確かなことは、Nexperiaという一つの企業が地政学的な断層線の上で引き裂かれようとしているという事実だ。

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なぜNexperiaはこれほど重要なのか?

最先端半導体のニュースが飛び交う中で、なぜNexperiaのような企業が国家の介入を招くほど重要視されるのだろうか。その理由は、同社が「エッセンシャル半導体」の分野で世界有数のプレイヤーであるからだ。

Nexperiaの製品ポートフォリオには、MOSFET(電力制御用トランジスタ)、ダイオード、ESD保護デバイスなど、電子回路の基本的な機能を担う部品が並ぶ。これらは一つ一つは地味な存在かもしれないが、自動車のECU(電子制御ユニット)、EVのパワートレイン、産業用ロボット、スマートフォンの電源回路など、現代のあらゆる電子機器に不可欠な「縁の下の力持ち」である。

その供給量は年間1100億個以上という驚異的な規模を誇り、特定の分野では極めて高い市場シェアを持つ。これは、同社の製品が効率、サイズ、電力、性能の面で業界のベンチマークとして認識されていることの証左だ。つまり、Nexperiaからの供給が滞れば、代替品をすぐに見つけることは困難であり、その影響は特定の企業や産業に留まらず、世界経済全体に波及しかねない。オランダ政府が「知識、専門性、生産能力」の国外流出を阻止しようとしたのは、まさにこの代替不可能性を根拠としている。

地政学の断層に立つ企業の未来と教訓

Nexperiaの事例は、21世紀のグローバル企業が直面する新たなリスクを象徴している。かつては経済合理性が最優先された企業のグローバル戦略は、今や「経済安全保障」という国家の論理によって根本から揺さぶられている。特に、中国資本が入り、欧米に重要な技術や生産拠点を持つ企業は、米中対立の最前線に立たされることを覚悟しなければならない時代に突入した。

欧州にとっては、これは「戦略的自律」を巡る試金石となるだろう。米国の安全保障上の要請に応えつつ、中国という巨大な市場や生産拠点との関係をどう維持し、同時に自らの産業基盤を守るのか。Nexperiaへの介入は、その困難な舵取りの一端を示している。

今後の焦点は、Nexperiaの新経営陣が、米・中・蘭の政府の狭間でいかに事業の継続性を確保できるか、そしてこの混乱を目の当たりにした世界のメーカー、特に自動車業界が、サプライチェーンの地政学的リスクを再評価し、生産拠点の多元化など、どのような対策を講じていくかに移る。

この事件は、我々が日常的に依存しているテクノロジーのサプライチェーンが、いかに政治的な力学によって脆くも崩れ去る可能性があるかを突きつけている。Nexperiaの運命は、今後のグローバル経済とテクノロジー業界の未来を占う、重要な指標となるに違いない。


Sources