新薬候補化合物10,000件のうち、最終的に市場に出られるのは1件にも満たない。創薬の世界では「1/1000の壁」と呼ばれるこの現実が、製薬業界の研究開発費を毎年数千億ドル規模に押し上げてきた。しかし、ある数字がその現実を揺るがしつつある。抗体設計の成功率が「1/1000から10〜15%へ」上昇したとChai DiscoveryのCEO Josh Meierが公言する。1000分の1だった確率が100分の1に変わるだけでなく、150分の1にまで改善したというこの変化は、AIが創薬の方法論そのものを書き換えていることを示している。2026年6月23日、NVIDIAはサンディエゴで開催されたBIO International Conventionで、こうした変化を製薬業界全体に波及させるためのインフラ「BioNeMo Agent Toolkit」を正式に発表した。
NVIDIAのバイオテックAI戦略の全容
BIO 2026の特別アドレスでNVIDIAヘルスケア・ライフサイエンス部門VP/GM Kimberly Powellは、端的に宣言した。「ライフサイエンス業界が今まで経験した中で最も速いプラットフォームシフトが起きている」
NVIDIAによると、グローバル科学R&D総額は3.8兆ドル、製薬年間予算は約3000億ドルに上る。一方、AI創薬市場は現在29億ドル規模から2030年代には2000億ドルを超えるとする予測まで幅があり、調査機関によって245億ドルとする試算も存在する。この市場をインフラ側から取りに行くのがNVIDIAの狙いだ。
NVIDIAの戦略的立場を理解する上で重要なのは、同社がモデルを作ろうとしているわけではないという点だ。BioNeMo Agent Toolkitは、タンパク質構造予測・分子ドッキング・生成化学・ゲノム解析・医療画像解析といったライフサイエンス固有の科学計算ツールを、AIエージェントから呼び出せる「工具箱」として再統合したものだ。
フロンティアモデルとの関係について、CEO Jensen Huangはこう述べている。「フロンティアモデルは脳だ。BioNeMoは科学的な工具箱だ。組み合わせることで、AIエージェントはPhD研究者のスキルとスーパーコンピューターの速度を手に入れる」
発表時点で50社以上がすでにツールキットを使用中だ。名前が挙がっているのはAnthropicとOpenAIというAI企業のほか、製薬大手のEli Lilly、次世代シーケンシングのNatera、計算化学のSchrödinger、データ基盤のDatabricksとSnowflake、電子ラボノートのBenchling、CADのDassault Systèmes、ワシントン大学タンパク質設計研究所(IPD)などだ。
なぜ創薬にエージェント型AIが必要か
従来の創薬AIに、研究者は毎回「次に何をすべきか」を指示し続けていた。標的タンパク質のスクリーニング結果が出るたびに人間が介在し、次のツールに手作業でデータを入力してから次の工程に進む。このボトルネックが、計算の速度向上を現場の時間短縮に直結させることを妨げていた。
創薬のプロセスそのものも単純ではない。標的タンパク質を特定し、それに結合する分子候補を仮想的にスクリーニングし、最も有望な化合物の構造を最適化する。毒性や代謝の予測を経て、ようやく実験室での合成・検証へと進む。このプロセスは本来、複数の専門家チームが数ヶ月から数年をかけて行うものだ。
エージェント型AIは、これらの工程を逐次的にではなく自律的につなぎ合わせる。AIエージェントが「タンパク質構造予測ツールを呼び出す→結果を分析する→ドッキングシミュレーションを実行する→生成化学で構造を最適化する」という判断を連鎖的に行う。BioNeMo Agent Toolkitはこの「工程をつなぐ能力」をAPIとして提供する。
仮想スクリーニングにかかる時間が「数日から数分」に短縮されるというNVIDIAの主張は、この自律的な工程連鎖によるものだ。研究者が介在して次のツールを起動する待機時間がなくなり、AIが連続実行するからこそ達成できる時間圧縮である。
BioNeMo Agent ToolkitはGitHubでオープンソース提供されており、バックエンドのLLMはOpenAI・AnthropicのモデルからNVIDIA自社のNemotronまで選択可能な「エージェント非依存設計」を採っている。これはデータ主権や規制対応を重視する製薬企業がオンプレミス環境でも同じツールキットを使えることを意味する。
BioNeMo Agent Toolkitの具体的機能と技術スタック
BioNeMo Agent Toolkitを構成するコアコンポーネントを分解すると、NVIDIAが積み上げてきたバイオインフォマティクス資産の統合という性格が見えてくる。
タンパク質構造予測では、ワシントン大学IPDとの連携でRosettaFold3が前世代比2倍高速化を達成した。IPD所長David Bakerはこう述べている。「タンパク質設計のために構築したすべてのツールは、研究者が効率的にアクセスできて初めてその真価を発揮する」
分子生成と最適化の領域では、Blackwellアーキテクチャのブラックボックス最適化エンジン「Cumulus」が機能する。Cumulusは分子構造の空間を探索しながら有望な候補を絞り込む工程を自動化する。
ゲノム解析部分では、ゲノムデータの特徴を圧縮・表現するためのエンコーダーモデルが含まれる。医療画像解析は、病理組織スライドや医療画像から特徴量を抽出するビジョンモデルが担う。
Powellがデモで実演したのはMCL1タンパク質バインダー設計だ。がん細胞がアポトーシス(細胞死)を回避するために用いるタンパク質MCL1への結合分子をエージェントが自律的に設計するプロセスで、仮想スクリーニングが数分で完了するというものだった。これは実際の製品成果ではなく機能デモだが、工程の自律化がどのような形で現れるかを具体的に示している。
パートナー企業・実際の創薬事例
50社超のパートナーエコシステムの中で、最も具体的な成果数値を提示しているのはChai Discoveryだ。同社はNVIDIAのBioNeMoプラットフォームを活用して抗体設計モデルChai-2を開発し、2025年6月に52の標的タンパク質を対象とした完全デノボ(白紙から)の抗体設計で16〜20%のヒット率を達成したと発表した。これは前世代の計算手法比で100倍以上の改善に相当する。BIO 2026でChai DiscoveryのCEO Josh Meierは「抗体設計の成功率が1/1000から10〜15%に上昇した」と述べた。
Eli Lillyとの関係は特に深い。2026年1月のJPMorganヘルスケアカンファレンスでNVIDIAとLillyは5年間で最大10億ドルを投資するAI共同イノベーションラボの設立を発表している。Lilly CEO David A. Ricksは「どちらの企業も単独では達成できないブレークスルーを創出できる」と述べた。なお、Chai DiscoveryもLillyとのアクセス契約を結んでいるとされるが、契約額については第三者調査レポートが「mid-eight figures(数千万ドル規模)」と伝えるのみで、公式発表による一次確認はとれていない。
電子ラボノート企業BenchlingのCEO Sajith Wickramasekara はこうした変化をソフトウェア側から表現した。「電子ラボノートは単なる記録システムから、AIと共著するシステム・オブ・アクションへと進化している」。創薬実験の記録と計画が一体化し、AIが次の実験を提案するまでが一連の流れになるという構想だ。
もう一方の注目企業は、FutureHouseのスピンアウトEdison Scientificだ。BIO 2026に合わせて7000万ドルを調達し、「AIサイエンティスト」プラットフォームKosmosを展示した。Edison ScientificのCTO Andrew Whiteは「人間が問いを立ててエージェントがテストを受ける時代は終わった。実験室そのものがループの中に入らなければならない」と述べた。
Isomorphic Labs・Microsoftとの創薬AI覇権争い
NVIDIAがインフラを押さえようとしている同じ領域に、まったく異なる切り口で入ろうとしている企業が複数存在する。
最大の競合はIsomorphic Labs(DeepMind系)だ。2026年5月に21億ドルのシリーズBを完了し、AlphaFold 3の後継モデルIsoDDEを発表した。IsoDDEはAlphaFold 3比2.3倍の精度改善を達成したとされ、Scientific Americanは「AlphaFold 4」と表現した。Isomorphic LabsはEli LillyおよびNovartisと最大30億ドル規模の提携契約を締結しており、モデル開発から製薬大手との共同研究まで垂直統合したアプローチを取る。
NVIDIAとIsomorphic Labsの本質的な差は、「インフラ提供か、モデル独占か」という戦略の違いにある。Isomorphic Labsは自社のAlphaFold系モデルとデータを囲い込んで製薬企業に独占ライセンスする方向に向かっている。NVIDIAはOpenAIやAnthropicを含む複数のLLMプロバイダーと連携できるエージェント非依存設計を採ることで、製薬企業がモデルを選択できる自由を訴求する。
Microsoftはこの戦いにAzure AI Foundryを通じた統合容易性で参戦している。すでにMicrosoft Azure上でクラウド展開されているインフラとの低コスト統合が武器だが、創薬特化のドメイン知識の深さではNVIDIAに後れを取るという見方が業界にある。
GoogleはCell2Sentence 27Bという生物学特化の大型モデルを展開し、Isomorphic Labsとの連携による独自エコシステムを構築する。
競合各社の差別化軸を整理すると、NVIDIAは「データ主権と設計の開放性」、Isomorphic Labsは「モデル精度と製薬大手との独占契約」、Microsoftは「既存クラウドインフラとの統合容易性」、Googleは「生物学基盤モデルの開発力」という棲み分けになりつつある。
創薬業界の何を変えるのか
Kimberly Powellの発言の中で最も示唆に富むのはこれだ。「エージェントはライフサイエンス業界の現代的なアプリケーション層になりつつある。ライフサイエンス業界の何千という企業すべてが、まもなくエージェント・ビルダーになる」
この発言が正確だとすれば、製薬企業のIT部門は今後、カスタムAIエージェントを開発・運用する組織へと変わっていく。「AIを使う」ではなく「AIを作る」側に回ることが求められる。
現時点で最も重要な未解決の問題は、Andrew Whiteが指摘した「lab-in-the-loop」だ。仮想スクリーニングが数分で完了しても、その結果を実際に合成してウェットラボで検証するスピードは変わらない。AIが候補化合物を1日で10,000件提案しても、実験室の処理能力は週に数十件が限界という非対称性が生まれつつある。次の主戦場は計算と実験の同期、すなわち実験の自動化と計算AIの統合になる可能性が高い。
AlphaFoldがタンパク質構造予測を「解決済みの問題」にしたとすれば、BioNeMo Agent Toolkitはその次のフロンティアへの解の一つだ。「解決済みの問題を組み合わせて創薬全工程を自律化する」という課題に挑むこのアプローチは、AlphaFold開発者チームがノーベル化学賞を受賞した2024年から2年、計算と実験の間の壁が急速に薄くなっている現在に登場した。