量子コンピューティングは長らく「研究の対象」であり続けた。現行の超伝導方式プロセッサは概ね100量子ビット前後の壁に阻まれ、エラー訂正と配線引き回しの複雑さがスケールアップを困難にしていた。その状況に対して、オランダのQuantWareが正面から解決策を提示している。2026年5月5日、同社はシリーズBラウンドで1億7,800万ドルを調達したと発表した。調達額の規模よりも注目すべきは、その資金が向かう先だ。
「量子ビットが100個の壁」に阻まれた産業の現実
量子コンピュータの処理能力を規定するのは量子ビット数だけではないが、スケーラビリティという観点において、現在の産業が直面する最大の障壁は量子ビット数の絶対的な不足である。Googleの「Willow」チップが105量子ビット、IBMの最新システムが数百量子ビットという水準に留まるなか、理論的に実用問題を解くために必要とされる論理量子ビット数は、エラー訂正のオーバーヘッドを考慮すれば数千から数万に及ぶとされている。
Intel CapitalのKike Mirallesは、この課題の本質を次のように指摘する。「超伝導量子コンピューティングにおいてスケールが制約されているのは、量子ビットの設計の問題ではなく、配線引き回し、パッケージング、そして製造可能性の問題だ」。QuantWareが注目した点も、まさにそこだった。チップ設計の改良ではなく、製造プロセスそのものをゼロから再設計することで、業界全体の制約を打開しようとしている。
同社が開発したVIO(Versatile Integrated Open)アーキテクチャは、量子ビットをチップレット単位でモジュール化し、第三者が設計した量子ビット回路をQuantWareの製造プロセスに乗せられるオープン基盤である。これによりチップ規模の増大に伴う配線複雑度を分散させ、製造歩留まりを保ちながらのスケールアップを可能にしている。同社は「現時点でこのスケーリングのボトルネックを解消できる技術はVIOだけだ」と主張する。
VIO-40K:現行比100倍の規模を目指すアーキテクチャ
今回の資金調達と同時に発表されたVIO-40Kは、1万量子ビットのプロセッサを実装するための量子プロセッサアーキテクチャである。「40K」という命名は単位換算の表記揺れがあるが、公表されている仕様としては「現行の最先端システムの100倍」という数字が示されており、現状の業界標準が概ね100量子ビット程度であることと整合する。
技術的な差異化要因は量子ビット数だけではない。VIO-40Kは電力効率においても業界最高水準のコンピューティング性能対ワット比を実現するとされている。量子プロセッサは超伝導状態を維持するために絶対零度近傍まで冷却する必要があり、その冷却コストは運用上の大きな負担となる。エネルギー効率の向上は、量子コンピュータの経済的実用性を左右する要因のひとつだ。
VIO-40Kが持つもうひとつの特性は、オープンプラットフォームとしての設計思想である。QuantWareは自社QPUの製造販売に留まらず、ファウンドリサービスとチップレットパッケージングも提供する。つまり顧客は量子ビット回路の設計のみを担い、製造の一切をQuantWareに委託できる。この構造は、半導体産業における設計と製造の分業モデルを量子コンピューティングに持ち込む試みである。VIO-40Kの最初のプロセッサは2028年に出荷開始を予定している。
KiloFab:量子専用ファブという選択肢の戦略的意味
VIO-40Kの完成に向けた技術的な問題が解決されても、それを実際に量産する製造能力がなければ産業的な意味は薄い。QuantWareが調達資金の主要な使途に据えているのが「KiloFab」と呼ばれる専用ファブの建設だ。
KiloFabは、現在の生産能力を20倍に引き上げることを目標としている。QuantWareは現時点で20カ国・50社以上の顧客にQPUを出荷しており、商業的な規模では世界最大のQPUサプライヤーであるという。しかしその生産規模は、従来の半導体業界の感覚からすると依然として小規模に留まる。KiloFabの建設は、量子プロセッサを研究者向けの特注品から、産業規模で扱える標準製品へと転換させるための設備投資である。
QuantWareの「量子版TSMC」という目標は、言葉の上だけの話ではない——実際の設備投資と製造インフラが伴っている。TSMCが半導体産業にもたらした本質的な変化、すなわち設計と製造の分業化によってファブレス企業が台頭し、業界全体が特定の製造プロセスへと収斂していった過程と同じ構造変化を、QuantWareは量子コンピューティング産業に持ち込もうとしている。量子コンピュータを開発する企業が製造設備を持たずとも量子プロセッサの設計に特化できるエコシステムが形成されれば、産業全体のイノベーションスピードは加速する。
Intel Capitalの参加が意味すること
今回のラウンドにはIntel Capital、IQT(In-Q-Tel)、ETF Partnersが新規投資家として参加し、FORWARD.one、Invest-NL Deep Tech Fund、InnovationQuarter Capital、Ground State Ventures、Graduate Venturesが既存株主として追加出資している。特に注目されるのはIntel Capitalの存在だ。
Intelはかつて「Horse Ridge」と名付けた自社開発の量子制御チップを手掛けていたが、近年は量子コンピューティングへのアプローチを見直し、エコシステムへの投資という形でその関与を再構成しつつある。Intel CapitalがQuantWareに出資するという意思決定は、超伝導方式QPUの製造基盤を自社で持つよりも、専業企業に任せる方が産業全体として合理的だという判断を反映している。
IQT(In-Q-Tel)の参加も見逃せない。IQTは米国政府の諜報・安全保障コミュニティへの技術供給を念頭に置いた投資機関であり、その参加は量子コンピューティングが単なる商業技術にとどまらず、安全保障上の戦略技術として各国政府に認識されていることを示す。欧州委員会とEU加盟国がこの5年間で量子技術に対して計110億ユーロ超の公的資金を投じてきた背景と重ね合わせると、今回の調達は民間と公的資本が量子産業基盤の確立に向けてベクトルを揃えつつある局面を映している。
量子コンピューティング産業の産業構造と今後
McKinseyの試算では、量子コンピューティング市場は次の10年で数兆ドル規模に成長する可能性があるとされている。ただしその市場規模は、現在のQPU性能が実用的な問題解決に届いた場合を前提にしており、その前提を成立させるためには少なくとも数千量子ビット規模での安定した動作が必要だ。
現在の産業は大きく2つの課題を抱えている。ひとつはエラー率——物理量子ビットはノイズに弱く、エラー訂正のために多数の物理量子ビットを消費するため、実効的な論理量子ビット数は物理量子ビットの数よりも大幅に少なくなる。もうひとつがQuantWareの解決を目指す課題、すなわち製造スケーラビリティである。
VIO-40Kの1万量子ビットというターゲットは、エラー訂正を考慮しても一定の論理量子ビットを確保できる閾値に近い水準とされており、実用量子コンピュータへの道筋において技術的に意義のある目標値である。QuantWareのCEO Matt Rijlaarsdamは「QuantWareを加速させることで、量子コンピューティングのエコシステム全体がハイパースケールの量子計算に向けて前進する」と述べており、単一企業の成長を超えた産業構造上の意図を示している。
QuantWareがKiloFabを完成させ、VIO-40Kの量産体制に入れるかどうかは、量子コンピューティング産業の製造基盤がどの地域に根付くかという問いとも連動する。超伝導方式においてGoogleとIBMが主導権を持つ米国、国家主導の研究体制で追いかける中国、そしてデルフトを中心とした欧州の量子クラスターという三極構造の中で、製造インフラを欧州が担うことは、米中主導の量子技術覇権に対する欧州の対抗軸を形成する動きとして読める。QuantWareのKiloFabが稼働を始めるとき、量子コンピューティングのサプライチェーン地図は現在とは別の形を描いているはずだ。