私たちが日常的に目にする「色」は、果たして客観的な物理現象なのだろうか。それとも、個人の経験や文化的背景によって形作られる主観的な幻想なのだろうか。青い空や赤いリンゴといった色彩の認識は、人間の網膜に存在する視細胞の物理的な反応から始まる。しかし、その網膜からの電気信号が脳の視覚野でどのように処理され、「色相(hue)」「彩度(saturation)」「明度(lightness)」という複合的な感覚として構成されるのかについては、長年にわたり物理学者や心理学者の間で激しい議論の的となってきた。

米国ロスアラモス国立研究所(LANL)のコンピュータ科学者Roxana Bujack博士が率いる研究チームは、この色彩認識の根源的な謎に対し、高度な非リーマン幾何学を用いた数学的証明を与えた。2025年に開催された学術会議Eurographics Conference on Visualization (EuroVis) で発表され、学術誌『Computer Graphics Forum』に掲載された彼らの論文「The Geometry of Color in the Light of a Non-Riemannian Space」は、量子力学の構築者として知られるエルヴィン・シュレーディンガーが1920年代に提唱した「色覚理論」の未解決部分を、一世紀の時を経て完全に解決したものである。彼らの研究は、私たちが感じる色彩の性質が文化や学習といった外部要因によって生じるのではなく、人間の視覚システムが備える「色の計量(メトリック)」という内在的な数学的構造に由来する事実を厳密に証明したのだ。

AD

ニュートンからシュレーディンガーへ:色彩を幾何学で捉える歴史

色彩を科学的に定量化しようとする試みは、17世紀のアイザック・ニュートンによるプリズム実験と光学の研究にまで遡る。ニュートンは太陽光のスペクトルを発見し、すべての知覚可能な色を平坦な円錐形のユークリッド空間にマッピングした。このニュートンのモデルでは、原点である絶対的な黒から遠ざかるほど彩度が高くなり、黒から白へと続く無彩色の軸(中立軸)から逸れる方向によって色相が決定されると想定された。その後、19世紀にはジェームズ・クラーク・マクスウェルらが色彩の三原色に基づく混色理論を発展させたが、物理的な光の混合を直線として扱うこれらのユークリッド的なアプローチは直感的であった半面、人間の実際の「見え方」や知覚の不均一性を正確に反映しているとは言い難かった。

19世紀半ばに入り、数学者ベルンハルト・リーマンが曲率を持つ空間の概念である「リーマン幾何学」を創始すると、色彩学にも大きな転機が訪れる。物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは、人間の知覚する色空間は平坦なユークリッド空間ではなく、歪みを持ったリーマン空間であると推測した。このヘルムホルツの画期的なアイデアを受け継いだのが、理論物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーである。量子力学における「シュレーディンガーの猫」の思考実験で広く知られる彼は、物理学の基礎を築く傍らで色彩科学の深い謎にも没頭していた。

1920年代、シュレーディンガーは外部の物理的な刺激量に依存せず、「人間が二つの色をどれくらい似ていると感じるか」という純粋な知覚的類似性のみを用いて、色相、彩度、明度の三属性を幾何学的に定義する数学的枠組みを構築した。彼が目指したのは、主観的な人間の感覚を、客観的で厳密な微分幾何学の言葉で翻訳することであった。

シュレーディンガーの理論は極めてエレガントな幾何学構造を備えていた。彼は、色が異なるのは原点である絶対的な黒から伸びる直線の方向が異なるからであり、同じ直線上にある色はすべて同じ色相と彩度を持つと定義した。また、ある特定の色彩から中立軸へと向かうリーマン空間上の最短経路(測地線)をたどる際、明度と色相は常に一定に保たれると考えた。このシュレーディンガーのモデルは、色彩を数学的な計量構造として理解するための強固な基盤を形成し、その後長きにわたって色彩科学における標準的な理論として広く受け入れられることになった。

完璧に見えた理論に潜む3つの致命的欠陥

シュレーディンガーの色彩幾何学は数学的な美しさを誇っていたが、人間の複雑な視覚現象の観察結果と照らし合わせた際、いくつかの矛盾を抱えていた。ロスアラモス国立研究所の研究チームは、スーパーコンピュータを用いた科学的視覚化アルゴリズムの開発過程で、この100年前の理論に潜む3つの致命的な欠陥を特定した。

第一の欠陥は、「ベツォルト=ブリュッケ効果(Bezold-Brücke effect)」と呼ばれる生理学的現象との決定的な矛盾である。この現象は、光の波長が同じであっても、その強度が変化すると人間には色相がずれて見えるという視覚の特性を指している。たとえば、物理的な波長が一定の光であっても、その光が強くなるにつれて、多くの色は知覚的に純粋な黄色や青色に近づいて見える。夕暮れ時と真昼の太陽の下では、同じ物体の色がわずかに異なって感じられるのはこの効果が影響している。シュレーディンガーの理論では、原点から放射状に伸びる「直線」上の色はすべて同じ色相を持つと規定されていた。しかし、光の強度(明度)が変わるにつれて色相がシフトして見えるという実験事実は、この直線の仮定が人間の知覚実態と乖離している事実を示していた。研究チームは、原点からの単純な直線ではなく、曲がった知覚的な色空間における最短経路(測地線)に沿って色相と彩度が一定であると定義を修正し、この長年の矛盾を解消した。

第二の欠陥は、人間の感覚に普遍的に見られる「収穫逓減(Diminishing returns)」の法則をモデル化できていない点にあった。心理物理学におけるウェーバー・フェヒナーの法則やスティーブンスのべき法則が示す通り、人間は刺激が強くなるにつれて、わずかな差異を知覚する能力が非線形に低下する。色彩の認識においても同様であり、マクアダムの楕円(MacAdam ellipses)として知られる歴史的な研究が示したように、明るい場所や彩度の高い領域では、小さな色の違いが見分けにくくなる現象が確認されている。ロスアラモス国立研究所のチームは2022年に学術誌『Proceedings of the National Academy of Sciences (PNAS)』で発表した先行研究において、この収穫逓減の法則が存在する限り、人間の色知覚空間は滑らかなリーマン空間としては記述できず、「非リーマン空間(non-Riemannian space)」であることを数学的に証明していた。シュレーディンガーの理論は全編がリーマン空間を前提として構築されていたため、非リーマン空間の性質を組み込んだ大規模な理論の再構築が不可欠であった。

AD

最大の謎:「中立軸」の欠如と非リーマン空間への跳躍

そして、第三の、かつ理論の根幹を揺るがす最大の構造的欠陥は、「中立軸」に対する厳密な幾何学的定義が存在しなかったことである。中立軸とは、完全な黒からグレーを経て純粋な白に至る無彩色の軌跡を指す。シュレーディンガーは色相や彩度を定義する際、ある色が中立軸からどれだけ離れているかという相対的な位置関係に強く依存していた。それにもかかわらず、彼は中立軸そのものを知覚的な類似性から数学的に定義することを避けていたのだ。

なぜシュレーディンガーは中立軸を定義できなかったのか。それは、彼が採用したリーマン計量の特定の幾何学的性質に起因している。シュレーディンガーの空間では、同じ明るさを持つ色の集合である「等明度面」が、原点から伸びる直線と直交するように設定されていた。リーマン幾何学においてこれらが直交している場合、等明度面上のすべての点は原点から等距離になってしまう。特定の一点だけが黒に近いという状況が数学的に生まれず、幾何学的なアプローチのみでグレーの点を特定することが原理的に不可能だったのである。

Bujack博士の研究チームは、色空間を非リーマン空間へと拡張することで、この極めて難解な数学的壁を突破した。非リーマン空間においては、距離の概念と直交性の概念が切り離される。これにより、各等明度面の中に「絶対的な黒に最も近い色」という特異点を一つだけ見出すことが可能になった。研究チームはこの「最も黒に近い点」の連続を新たな中立軸として定義した。外部の照明条件や主観的な基準に一切頼ることなく、純粋な空間の幾何学のみから中立軸を導き出したこの成果は、ヘルムホルツやシュレーディンガーが思い描いた「完全に閉じた色彩モデル」を完成させる決定的なピースとなった。

人間の知覚を測る:カラーマッチング実験による立証

非リーマン空間の導入は理論的なブレイクスルーをもたらしたが、同時に新たな数学的曖昧さを生み出す危険性も孕んでいた。非リーマン空間においては、ある色から中立軸へ向かう「知覚的な非リーマン距離に基づく最短経路」と、「その経路の長さから誘導されたリーマン距離に基づく最短経路」が必ずしも一致するとは限らない。もし二つの経路が大きく異なる場所に行き着くのであれば、最短経路を基準とする明度や色相の定義自体が破綻してしまう。

この仮説を検証するため、研究チームは被験者を用いた厳密なカラーマッチング実験を実施した。実験は複数段階のタスクで構成された。まず参加者に特定の基準色を提示し、それに最も近いと感じるグレーを選ばせる。次に、基準色と選ばれたグレーを両端とする最短経路上から、彩度を落とした中間色を選ばせる。さらに、その中間色から最も近いと感じるグレーを再度選ばせるという手順を繰り返した。論理的には、もし空間の計量が一致していれば、最初の中間色から選ばれるグレーは、基準色から選ばれるグレーと同じ場所に行き着くはずである。過去のSandersやWyszeckiによる類似の実験は高度な色彩の専門家のみを対象としていたが、今回の研究では一般の被験者から広くデータを収集し、統計的な優位性を高める工夫がなされた。

研究チームは収集した膨大なデータを統計的に処理し、コーエンのd(Cohen’s d)と呼ばれる効果量を用いて分析を行った。その結果、非常に暗い色や非常に明るい色において、被験者の選択にわずかなバイアスが観察された。被験者は暗い基準色に対しては本来より明るいグレーを選び、明るい基準色に対しては本来より暗いグレーを選ぶ傾向を示したのである。しかし、このバイアスの大きさを考慮に入れても、非リーマン的な最短経路と誘導されたリーマン的な最短経路の終着点の差異を示す効果量は極めて小さく、実質的に一致しているとみなすに足るデータが得られた。この実証実験により、非リーマン空間に基づく新たな幾何学的定義が、人間の実際の知覚と矛盾なく機能することが統計的にも確認されたのである。

AD

視覚化科学と認知心理学にもたらすパラダイムシフト

この一連の研究成果は、一世紀にわたる数学的難問を解決したにとどまらず、情報科学と心理物理学の双方に甚大な影響を及ぼす。

現代社会において、データの正確な視覚化は不可欠の基盤技術となっている。ロスアラモス国立研究所が本来の任務として推進する国家安全保障に関わる高度な物理シミュレーションをはじめ、気象予測モデル、微細な病変を特定する医療用画像処理、航空宇宙工学における流体解析など幅広い産業の根幹において、ディスプレイ上に表示される色彩が人間の目にどのように映るかを正確に予測し制御する技術は、情報の誤認を防ぐ上で極めて重要である。さらに、急速に普及が進む拡張現実(AR)や仮想現実(VR)のヘッドセット、超高輝度を誇る次世代HDRディスプレイの開発においても、人間の知覚に最適化された色空間の制御が不可欠となる。非リーマン空間における厳密な色彩モデルが確立されたことで、ソフトウェア開発者や機器メーカーは、人間の知覚に完全に同期したカラーマッピングアルゴリズムを設計できる。これにより、複雑なデータセットをより直感的かつ高精度に分析する道が開かれる。

さらに、認知心理学の領域においても、本研究は従来のパラダイムに対する根本的な問いを突きつけている。1920年代に心理学者ルイス・サーストンが確立した比較判断の法則は、人間の知覚のばらつきを正規分布としてモデル化し、それらを線形に加算できるという前提に立っていた。しかし、研究チームが色彩知覚において証明した「収穫逓減」と非リーマン空間の存在は、人間の感覚が単純な線形加算では記述できない事実を強く示唆している。この発見は、視覚のみならず、聴覚や触覚など他の感覚モダリティにおける知覚モデルの再構築を促す可能性を秘めている。

人間と色彩の新たな理解へ

ロスアラモス国立研究所のチームによる研究は、私たちが日常的に享受している「色彩」という体験が、極めて精緻で普遍的な幾何学構造によって支えられている事実を数学的に証明した。文化的な背景や個人の言語体系が色の呼び方や認識の枠組みに影響を与えることはあっても、色相、彩度、明度という色彩の三属性を識別する根源的な知覚のメカニズムは、個人の経験を超越した一つのメトリックに帰着する。

エルヴィン・シュレーディンガーが100年前に描いた未完のビジョンは、非リーマン幾何学という現代の数学的知見と精密な実証実験によって、ここに完全な姿を現した。人間の内なる感覚と、空間の歪みを記述する幾何学が深く交差するこの成果は、私たちの認識の在り方そのものに対する新たな探求の扉を開くものである。


論文

参考文献