宇宙論における最大の未解決問題「ハッブル定数の緊張(Hubble Tension)」。この数十年、我々の宇宙理解を根底から揺るがしてきたこの「不一致」に対し、東京大学や欧州の研究機関を含む国際研究チーム「TDCOSMO」が、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)などの最新データを駆使した「時間遅延コスモグラフィ」という手法で新たな判決を下した。

その結論は、非常に刺激的であり、かつ深刻だ。従来の「距離の梯子(distance ladder)」に依存しない独立した手法を用いてもなお、宇宙は「標準モデルの予測よりも速く膨張している」という結果が支持されたのである。これは、観測誤差の可能性を狭め、現在の標準宇宙論モデル(\(\Lambda\)CDMモデル)が不完全であり、我々がまだ知らない「新しい物理学」が存在する可能性が極めて高いことを示唆している。


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宇宙論の危機:ハッブル定数の緊張とは何か

二つの「真実」の衝突

宇宙は膨張している。その膨張速度を表す数値を「ハッブル定数(\(H_0\))」と呼ぶ。問題は、この数値を測定する方法によって、統計的に無視できないほどの食い違い(テンション)が生じていることだ。

  1. 初期宇宙からのアプローチ(予測値):
    宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の観測(主にプランク衛星)に基づき、初期宇宙の物理状態と標準的な宇宙モデル(\(\Lambda\)CDM)を用いて、現在の膨張速度を予測する方法。
    • 導き出される値:約 \(67.4\) km/s/Mpc
  2. 後期宇宙からのアプローチ(実測値):
    近傍の宇宙にある天体までの距離と後退速度を直接測定する方法。セファイド変光星やIa型超新星を「標準光源」として距離を測る「距離の梯子」が主流である(SH0ESチームなど)。
    • 導き出される値:約 \(73.0\) km/s/Mpc

この「67」と「73」の乖離は、約8%9%に及び、統計的な誤差(シグマ)で換算すると\(5\sigma\)を超える。これは「偶然」で片付けられるレベルを遥かに超えており、「誰かが測定を間違えている」か、あるいは「宇宙の仕組みに関する我々の理論(モデル)が間違っている」かのどちらかであることを意味している。

従来の測定への疑念

これまで、後期宇宙の測定(高い値)に対しては、「距離の梯子」に含まれる未知の系統誤差が原因ではないかという疑念が常に存在した。セファイド変光星の較正に問題があるのではないか、超新星の明るさに未知のばらつきがあるのではないか、といった指摘である。

この論争に終止符を打つためには、セファイドや超新星に依存しない、全く異なる物理原理に基づいた「第3の方法」による高精度な測定が必要不可欠であった。それこそが、今回TDCOSMOチームが精度を飛躍的に向上させた「時間遅延コスモグラフィ」である。

宇宙のスピード違反監視カメラ:時間遅延コスモグラフィ

原理:クエーサーと重力レンズ

「時間遅延コスモグラフィ(Time-delay cosmography)」は、宇宙規模の幾何学を利用して距離を直接測定する強力な手法である。この手法の主役は、遠方のクエーサー(活動銀河核)手前の巨大銀河(レンズ銀河)、そして一般相対性理論である。

  1. 重力レンズ効果:
    地球から見て、遠くのクエーサーの手前に巨大な楕円銀河などが存在すると、その重力がレンズの役割を果たし、クエーサーからの光を曲げる。その結果、地球の観測者には、同じクエーサーが複数の像(通常は2個または4個)に分裂して見える。
  2. 経路差と時間の遅れ: ここが重要である。分裂した各像の光は、それぞれ異なる経路を通って地球に届く。ある光はレンズ銀河の強い重力場の深いところを通るかもしれないし、別の光は遠回りをするかもしれない。
    • 幾何学的遅延: 経路の長さそのものの違いによる時間のずれ。
    • 重力時間遅延(シャピロ遅延): 一般相対性理論により、重力が強い場所では時間の進みが遅くなる効果。
  3. ストップウォッチとしてのクエーサー:
    クエーサーは明るさが不規則に変動(フリッカー)している。ある像で明るさの変動(例:急激な増光)が観測されたとき、別の経路を通った像では、その変動が数日〜数ヶ月遅れて観測される。

この「時間の遅れ(タイムラグ)」を正確に測定し、レンズ銀河の質量分布(重力ポテンシャル)をモデル化できれば、幾何学的な計算のみで、地球からレンズ銀河、およびクエーサーまでの絶対距離(時間遅延距離 \(D_{\Delta t}\))を一意に決定できる。距離と赤方偏移(後退速度)が分かれば、ハッブル定数 \(H_0\) は直ちに導き出される。

この手法の最大の利点は、「近傍の星の明るさ」を基準にする必要が一切ない(距離の梯子を使わない)点にある。

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TDCOSMO 2025:精度の壁を破ったブレイクスルー

これまでも時間遅延コスモグラフィによる測定は行われてきたが、ある技術的な壁が精度の向上を阻んでいた。それは「質量シートの縮退(Mass-Sheet Degeneracy: MSD)」と呼ばれる問題だ。

質量シートの縮退(MSD)の壁

レンズ銀河の質量分布モデルには、ある種の曖昧さが残る。レンズ銀河の質量密度プロファイルを数学的に変換しても、観測される「像の位置」や「相対的な倍率」が変わらない場合があるのだ。これを許容してしまうと、ハッブル定数の推定値に大きな不確定性が生じてしまう。
TDCOSMOの以前の分析(TDCOSMO-4)では、この縮退を解くために保守的な仮定を置いた結果、誤差が大きくなり(約9%)、ハッブル定数の緊張を確定させるには至っていなかった。

JWSTとVLTによる解決策

今回の研究(TDCOSMO 2025)における最大の革新は、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)、ケック望遠鏡、VLT(超大型望遠鏡)を用いて、レンズ銀河内の星の動き(恒星運動学)をかつてない精度で測定したことにある。

  • JWST/NIRSpecとVLT/MUSEの活用:
    研究チームは、7つのレンズ銀河について、新たに高精度の速度分散(velocity dispersion)データを取得した。特にレンズ系「RX J1131−1231」については、JWSTとケック望遠鏡を用いて空間的に分解された詳細な運動学データを取得した。
  • 縮退の打破:
    銀河内部の星がどれくらいの速度で動いているか(速度分散)は、その銀河の重力ポテンシャル(質量分布)に直接依存する。このデータをレンズモデルに組み込むことで、「質量シートの縮退」を物理的に断ち切り、質量分布を厳密に決定することに成功した。

さらに、レンズ銀河と同じような特性を持つが、背景にクエーサーを持たない近傍の銀河サンプル(SLACSおよびSL2S)のデータも統合し、レンズ銀河の構造に関する統計的な補正を行った。

判決:宇宙はやはり「速く」膨張している

研究チームが8つの重力レンズシステム(TDCOSMO-2025サンプル)と外部データを統合して導き出したハッブル定数の値は以下の通りである。

  • TDCOSMO単独(8レンズ): \(71.6^{+3.9}_{-3.3}\) km/s/Mpc
  • TDCOSMO + 外部レンズ(SLACS/SL2S) + 超新星(Pantheon+): \(74.3^{+3.1}_{-3.7}\) km/s/Mpc

結果の科学的含意

  1. 高い値(Late Universe)の支持:
    この結果は、SH0ESチームなどが距離の梯子を用いて出した値(\(\sim73\) km/s/Mpc)と極めて良く一致している。
  2. プランク値との不一致:
    初期宇宙のデータ(\(\sim67\) km/s/Mpc)とは明確に異なっている。
  3. 「観測ミス」説の排除:
    距離の梯子の手法とは全く異なる物理原理(重力レンズと時間遅延)を用いてもなお、高いハッブル定数が導かれた。これは、ハッブル定数の緊張の原因が「距離の梯子の測定誤差」にある可能性をほぼ完全に排除するものである。

TDCOSMOの主要メンバーであるKenneth C. Wong特任助教(東京大学)は次のように述べている。

「私たちの測定値は、現在の他の観測結果(SH0ESなど)と一致しており、初期宇宙の測定値とは一致しません。これは、ハッブル定数の緊張が未知の誤差によるものではなく、『現実の物理』に起因している可能性が高いことを示す証拠です」

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「新しい物理学」への扉:標準モデルの何が間違っているのか?

もし観測が正しいとすれば、間違っているのは理論(モデル)の方だ。現在の標準的な宇宙論モデルである「平坦な\(\Lambda\)CDMモデル」は、宇宙の組成を以下のように仮定している。

  • 通常の物質(バリオン):約5%
  • ダークマター(冷たい暗黒物質):約27%
  • ダークエネルギー(宇宙定数 \(\Lambda\)):約68%

ハッブル定数の緊張が「現実」であるならば、このモデルのどこかを修正しなければならない。今回の論文や関連する議論では、以下のような可能性が示唆されている。

1. 初期ダークエネルギー(Early Dark Energy)

宇宙誕生から約38万年後(晴れ上がり)よりも前の時期に、一時的に存在して消滅した未知のダークエネルギーがあったとする説。これが初期の宇宙膨張を加速させ、CMBに残された「音の大きさ(音響地平)」の定規を縮小させた可能性がある。これにより、CMBから導かれる現在のハッブル定数の予測値が上方修正され、不一致が解消するかもしれない。

2. 進化するダークエネルギー(Dynamical Dark Energy)

ダークエネルギーがアインシュタインの宇宙定数(一定の値)ではなく、時間とともにその性質(状態方程式パラメータ \(w\))を変化させている可能性。

3. 未知の相対論的粒子

ニュートリノの種族数の修正や、標準模型に含まれない質量ゼロに近い粒子の存在。

4. 修正重力理論

一般相対性理論そのものが、宇宙論的なスケールでは修正を必要としている可能性。

TDCOSMOの成果は、これらの「エキゾチックな」理論のどれが正しいかをまだ特定はしていないが、「\(\Lambda\)CDMモデルのままでは説明がつかない」という事実を強力に突きつけている。

今後の展望:1%の精度を目指して

Eric Paic博士研究員(東京大学)によれば、現在の測定精度は約4.5%である。ハッブル定数の緊張を「決定的に」確定し、新しい物理学の性質を絞り込むためには、精度を1%〜2%まで高める必要があると言う。

今後のロードマップ

  • サンプル数の拡大: 現在は8つのレンズ系を使用しているが、これを数十個に増やす必要がある。
  • さらなる高解像度データ: JWSTによるさらなる観測に加え、次世代の地上大型望遠鏡(ELTやTMT)による補償光学を用いた観測が期待される。
  • より洗練されたモデル: レンズ銀河の質量分布の不確実性をさらに減らすための解析手法の改良。

宇宙は我々が考えていたよりも「速く」動いている。その加速の正体が何であれ、私たちは今、アインシュタイン以来の物理学のパラダイムシフトの入り口に立っているのかもしれない。TDCOSMOチームの「スピードカメラ」は、その変革の決定的な証拠を捉えつつある。


論文

参考文献