スイスとフランスの国境地下深く、人類史上最大の科学実験装置が、まもなくその轟音を止める。欧州原子核研究機構(CERN)が誇る「大型ハドロン衝突型加速器(LHC)」だ。

2012年、「神の粒子」とも呼ばれたヒッグス粒子の発見により、物理学の標準模型における最後のピースを埋めたこの巨大な円形加速器は、2026年半ばより約5年間に及ぶ長期シャットダウン(運転停止)期間に突入する。しかし、これは科学の敗北や停滞を意味するものではない。むしろ、宇宙の最も根本的な謎を解き明かすための、更なる進化への助走期間である。

2026年1月1日付けでCERNの新たな事務局長(Director General)に就任したMark Thomson教授の下、LHCは「高輝度LHC(HL-LHC)」へと生まれ変わろうとしている。本稿では、なぜ今LHCを止める必要があるのか、そのアップグレードがもたらす科学的革新、そして新リーダーが見据える「ポストLHC」の巨大プロジェクトについて見てみよう。

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静寂の理由:HL-LHC(高輝度大型ハドロン衝突型加速器)への進化

なぜ「高輝度」が必要なのか

LHCは、周長27kmにも及ぶ地下トンネル内で陽子ビームを光速近くまで加速し、正面衝突させる装置である。この衝突によってビッグバン直後の高エネルギー状態を再現し、そこから飛び出す素粒子を観測することで、物理法則の検証を行ってきた。

2026年6月から7月にかけて開始される長期シャットダウン(Long Shutdown 3: LS3)の主目的は、このLHCを「高輝度化(High-Luminosity)」することにある。ここでいう「輝度(Luminosity)」とは、ビームの明るさではなく、単位時間・単位面積あたりに発生する粒子の衝突頻度を指す専門用語だ。

HL-LHCへのアップグレードにより、衝突数は現在の約10倍に跳ね上がると予測されている。これをカメラの撮影に例えるならば、これまで「暗くて不鮮明だった夜空の写真」が、長時間露光と高感度レンズの組み合わせによって、「微細な星々までくっきりと映し出される高解像度画像」に変わるようなものだ。

データの「洪水」がもたらすもの

衝突数が増えるということは、極めて稀にしか起こらない物理現象を観測できる確率が飛躍的に高まることを意味する。ヒッグス粒子の発見はあくまで「存在の確認」に過ぎなかった。HL-LHCの稼働により、ヒッグス粒子のより詳細な性質(例えば、ヒッグス粒子同士がどのように相互作用するのかという「自己結合」の謎)や、標準模型では説明がつかないダークマター(暗黒物質)の候補となる新粒子の痕跡が見つかる可能性が、劇的に向上するのである。

エンジニアリングの極致:地下トンネルで行われる「心臓移植」

5年という長い期間は、単なるメンテナンスのために費やされるわけではない。LHCの心臓部を作り変える、極めて野心的かつ複雑なエンジニアリング工事が行われる。

超伝導磁石と「カニの爪」

CERNの公式発表や報道によれば、このアップグレードには最先端技術の導入が不可欠である。特に注目すべきは以下の技術だ。

  • 新型超伝導磁石: 陽子ビームを極限まで絞り込み、衝突点での密度を高めるために、ニオブ・スズ(Nb3Sn)を用いたより強力な集束磁石が導入される。
  • クラブ・キャビティ(Crab Cavities): これはビームの制御における革命的な技術である。陽子の束(バンチ)を衝突直前にわずかに傾けることで、正面衝突の効率を最大化する装置だ。カニが横歩きするようにビームを操作することからこの名がついた。

さらに、これらの新装備を収容するために、地下トンネルに接続する新たな技術ギャラリーを建設する土木工事や、ATLASやCMSといった巨大な検出器自体のアップグレードも並行して行われる。これらは、増大する放射線量に耐え、かつ激増するデータをリアルタイムで処理するために不可欠な進化である。

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新所長Mark Thomson氏の哲学:「停止期間こそが黄金期」

2026年元日、この巨大な船の舵取りを任されたのが、ケンブリッジ大学の実験素粒子物理学者であるMark Thomson教授だ。任期の大部分において、主力装置であるLHCが稼働していないという状況は、一見すると不運な巡り合わせのように思える。しかし、Thomson氏はThe Guardian紙のインタビューに対し、この状況を「停滞」とは微塵も捉えていないことを強調している。

データの海と分析の深化

「マシンは素晴らしいパフォーマンスを見せており、我々は膨大な量のデータを記録している」とThomson氏は語る。LHCが停止している間、世界中の物理学者たちは、これまでに蓄積されたペタバイト級のデータの分析に没頭することになる。

物理学における発見は、衝突の瞬間にモニターに「発見!」と表示されるわけではない。数年がかりの複雑な解析を経て、ノイズの中から統計的に有意なシグナルを見つけ出す作業こそが本質だ。つまり、LHCが沈黙している5年間は、物理学者にとっては「宝の山」を掘り返し、新たな物理法則を見つけ出すための最も忙しく、刺激的な期間となる。Thomson氏は、「ただ座って機械が動くのを眺めているよりも、この改造プロジェクト自体が信じられないほどエキサイティングだ」と述べている。

科学的探求の核心:我々は何を知らないのか?

今回のアップグレードと長期的な研究計画が目指すのは、単に既存の理論の再確認ではない。現代物理学が抱える「巨大な穴」を埋めることにある。

ヒッグス粒子の「真の姿」

2012年に発見されたヒッグス粒子は、素粒子に質量を与える起源とされている。しかし、「なぜそれぞれの素粒子があのような質量を持つのか」「ヒッグス場は宇宙の安定性にどう関わっているのか」という根本的な問いには、まだ答えが出ていない。HL-LHCによる精密測定は、これらの問いに初めて実験的なメスを入れることになる。

宇宙の95%の謎

我々が知っている物質(原子で構成された物質)は、宇宙全体のエネルギーのわずか5%に過ぎない。残りの95%は、正体不明の「ダークマター」と「ダークエネルギー」である。
LHCのこれまでの実験では、超対称性粒子(ダークマターの有力候補)の兆候は捉えられていない。HL-LHCによる衝突頻度の増加は、より重く、より相互作用の弱い未知の粒子をあぶり出すラストチャンスとなるかもしれない。トムソン氏が「我々の目標は、宇宙を最も根本的なレベルで理解することだ」と語る背景には、この未解明の領域への強い渇望がある。

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ポストLHCの展望:野心的な「FCC」構想とその壁

Thomson新所長の双肩には、HL-LHCの成功だけでなく、さらにその先にある未来、つまりLHCの後継機に関する重大な決定もかかっている。

未来円形衝突型加速器(FCC)

現在、LHCの後継として最有力視されているのが「未来円形衝突型加速器(Future Circular Collider: FCC)」だ。これはLHCの3倍以上となる全周91kmの巨大なトンネルを地下に建設する計画である。

  1. 第一段階(2040年代後半〜): 電子と陽電子を衝突させ、ヒッグス粒子を大量生産して詳細に研究する「ヒッグス・ファクトリー」。
  2. 第二段階(2070年代〜): LHCの7倍のエネルギーで陽子同士を衝突させるフロンティア・マシン。

巨額のコストと科学的意義の論争

しかし、この計画には大きな壁が立ちはだかる。第一段階だけで約150億スイスフラン(約2兆5000億円超)と見積もられる建設費である。CERN加盟国の予算だけでは到底賄いきれず、欧州外からの巨額の資金援助が不可欠だ。

さらに科学界内部でも、「巨大加速器はコストに見合う成果(すなわち標準模型を超える新発見)を保証できるのか」という議論が続いている。LHCで超対称性粒子が見つかっていない現状において、さらに巨大な加速器を作っても「何も新しいものは見つからないかもしれない(砂漠のような領域が続くだけかもしれない)」という懸念だ。

それでもThomson氏は、「発見が尽き、FCCが不要という段階には至っていない」と断言する。米国や中国も独自の加速器計画を進める中、CERNが世界の素粒子物理学のリーダーであり続けるためには、リスクを恐れずに次の一歩を踏み出す必要があるという姿勢を崩していない。

知の地平線を拡張する挑戦

LHCは2026年半ばに一度眠りにつき、2030年の再稼働(Run 4)に向けて長い変態の時を迎える。この5年間の静寂は、人類が宇宙の深淵を覗き込むための「目の解像度」を上げるための必然のプロセスである。

Mark Thomson新所長率いるCERNは、既存のデータの解析と、前人未踏のエンジニアリングという二つの戦いを同時に進めることになる。HL-LHCが稼働した暁には、我々の宇宙観を根底から覆すような発見が待っているかもしれない。あるいは、何も見つからないこと自体が、新たな理論への道標となるかもしれない。

確かなことは、人類の「知りたい」という根源的な欲求が尽きない限り、この巨大な探求の旅は終わらないということだ。2026年からの5年間は、物理学にとって沈黙の時ではなく、次なる飛躍への胎動の期間として歴史に刻まれるだろう。


Sources