1859年11月、ベルリン王立科学アカデミーの月報に、わずか9ページの論文が掲載された。Bernhard Riemann(ベルンハルト・リーマン)の「与えられた大きさ以下の素数の個数について(Ueber die Anzahl der Primzahlen unter einer gegebenen Grösse)」である。この論文の中でリーマンは、ゼータ関数 の自明でない零点がすべて複素平面上の実部 の直線、すなわち臨界線上にあると「とてもそうであろう(sehr wahrscheinlich)」と書いた。厳密な証明は「いくつかの軽い試みの後、とりあえず脇に置いた」とも記している。この一言が、数学史上最も有名な未解決問題を生んだ。
リーマン予想がこれほどの重みを持つのは、零点の位置が素数の分布を直接支配するからだ。ゼータ関数の零点は、素数が自然数の中にどのように散らばっているかを記述する「スペクトル」のような役割を果たす。零点がすべて臨界線上にあれば、素数の分布は可能な限り「規則的」になる。逆に、臨界線から外れた零点が存在すれば、素数の分布に予測不能な揺らぎが生まれる。
Clay Mathematics Instituteは2000年にこの問題をミレニアム懸賞問題の一つに指定し、解決者に100万ドルの賞金を設定した。166年が経過した現在も、賞金は未請求のまま残っている。
「41%の壁」が50年間動かなかった理由
リーマン予想そのものを証明できなくても、零点のうち少なくとも何パーセントが臨界線上にあるかを下界として示す、というアプローチがある。この下界を徐々に引き上げていく研究は、20世紀半ばから続く地道な営みだ。
1942年にSelbergが「正の割合」の零点が臨界線上にあることを初めて証明したが、具体的な数値は示さなかった。1974年にLevinsonが新しい手法(mollifier法)を発明し、下界を (約33.3%)に引き上げた。1989年にはConreyがKloosterman和の理論を応用して (40%)に到達した。その後、Bui、Conrey、Youngが2011年に41.05%、Pratt、Robles、Zaharescu、Zeindlerが2020年に41.7%まで押し上げた。
| 年 | 数学者 | 下界 | 手法 |
|---|---|---|---|
| 1942 | Selberg | > 0%(数値なし) | mollifierの導入 |
| 1974 | Levinson | ≥ 33.3% | mollifier法 |
| 1989 | Conrey | ≥ 40% | mollifier法 + Kloosterman和 |
| 2011 | Bui, Conrey, Young | ≥ 41.05% | 二分割mollifier |
| 2020 | Pratt, Robles, Zaharescu, Zeindler | ≥ 41.7% | 改良mollifier法 |
| 2025 | Claude(Anthropic) | ≥ 67.2% | Weilの二次形式 + ペア相関 |
この表が示すように、1974年から2020年までの46年間で、下界は33.3%から41.7%へ、年平均約0.18ポイントずつしか動いていない。mollifier法の枠組みの中では、41%台が事実上の天井だった。
一方、1973年にMontgomeryが導入したペア相関(pair correlation)という別の手法は、RHを仮定すれば零点の (約66.7%)以上が単純零点であることを示せた。2020年にはChirre、Gonçalves、de Laatがこの手法で67.9%に到達している。ただし、これらはすべてRHを仮定した上での結果であり、無条件の下界には使えない。
ここに構造的な行き詰まりがあった。強い結果を出すペア相関法はRHを前提とし、無条件で使えるmollifier法は41%台で頭打ちになる。二つの手法の間に深い溝が横たわっていた。
溝を埋めたのは「既存研究の再結合」
2023年から2025年にかけて、Baluyot、Goldston、Suriajaya、Turnage-Butterbaughの4人が、Montgomeryのペア相関法からRHの仮定を取り除く一連の論文を発表した。2024年の論文(Acta Arithmetica掲載)では、RHを仮定せずに零点のペア相関を扱う定理を証明し、零点が臨界線近傍の狭い帯域に収まるというRHより弱い条件のもとで、61.7%以上が単純零点であることを示した。2025年のarXivプレプリントでは、同様の条件のもとでペア相関法が67.25%以上の零点の臨界線上での存在を導くことを証明した。
Claudeが見つけたのは、このBaluyotらの結果と、Bombieriが2000年に発表したWeilの二次形式に関する論文を組み合わせる道筋だった。
Bombieriの論文は、Weilの明示公式(素数とゼータ関数の零点を結ぶ等式)に付随する二次形式を研究したものだ。この二次形式は、RHが成り立つことと半正定値であることが同値になる。Bombieriは、RHが有限個の例外を除いて成り立つ場合、負の固有値の個数が臨界線から外れた零点の個数のちょうど半分になることを示した。
Anthropicの技術説明によれば、Claudeのアプローチの核心は次の点にある。Weilが誘導する二次形式を持つ関数空間を構成し、臨界線上の零点から生じる正定値部分空間と、臨界線外の零点から生じる負定値部分空間を同時に扱う。その上で、一次モーメントと二次モーメントの情報から二次形式のランクに関する不等式を書き下す。正定値と負定値を分離せず、二次形式を非対角のまま全体として扱うことが、先行研究の組み合わせから結論を引き出す鍵になった。
Anthropic自身も認めているように、ここで使われた技法がリーマン予想の証明につながる見込みはない。だが、41%台で停滞していた下界を67.2%まで引き上げた事実は、既存の数学的道具の「接続の仕方」にまだ発見が残されていることを示している。
650回の失敗と60のサブエージェント
この結果に至る過程も、従来の数学研究とは異なる様相を呈している。
Anthropicのスタッフで数学者ではないJarred Sumnerが、Claudeに対して「リーマン予想に本気で挑んでくれ(Take a real stab at the Riemann hypothesis)」と指示した。最初のセッションでClaudeは650のアイデアを生成し、試したが、すべて失敗した。Sumnerが再挑戦を促すと、Claudeは約60のサブエージェントを調整しながら1日半をかけて探索を続けた。サブエージェントたちは合計2,400回のシェルコマンドを実行し、数百本のPythonスクリプトを作成した。既知のゼータ零点に対する数千回の数値検証を行い、互いの成果を査読し合った。
この過程でClaude自身も懐疑的だった。Anthropicのブログは、Claudeが「意味のある進展が可能だとは最初信じられなかった」と記している。Sumnerの入力は主に「続けろ」「自分を信じろ」といった励ましのメッセージだった。
結果を見つけた後、Claudeは自己検証も実施した。複数のサブエージェントに証明のレビューをさせ、反例を探させ、arXivから54本の論文をダウンロードして同一結果が既に発表されていないか確認し、ゼロから独立に再証明させた。その上で、人間の数論研究者による検証を推奨した。
計算資源としては、2回のセッションで合計3,100万出力トークンを消費した。
検証はどこまで進んでいるか
数学の結果は、証明が正しいと共同体が認めて初めて「知識」になる。Claudeの結果に対する検証は、現時点で三段階を経ている。
第一に、Anthropicの数学者Levent AlpögeとRalph Furmanが論文を精査し、結果が先行研究とどのように関係するかを確認した。第二に、この分野の専門家であるBrian Conrey(mollifier法で40%の下界を証明した本人)とDan Goldston(Baluyotらの共同研究者)が論文を短期間で検討した。第三に、ClaudeはスタッフのEric Easleyと協力して、結果のLean形式化を完成させた。この形式化は標準的な検証ツールcomparatorを通過している。
Leanは、証明の各ステップを計算機が機械的に検査できる形式で記述する証明支援系だ。形式化が成功したことは、証明の論理的構造に矛盾がないことを保証する。ただし、形式化が検証するのは「記述された定理と証明の整合性」であり、「定理の前提条件が数学的に自然か」「結果が既存文献と矛盾しないか」といった判断は人間の専門家に委ねられる。
留保がある。この結果は学術誌に投稿され、ピアレビューを経ていない。ConreyとGoldstonの検討は「短い通告での好意的なexamination」と表現されており、正式な査読とは性質が異なる。Anthropicは論文と形式化、証明の簡潔な解説ノートを公開しているが、数学共同体全体による検証はまだこれからの段階にある。
AIの数学的能力が問うもの
この結果をどう位置づけるべきか。Anthropicのブログは、Claudeが「数学者のアイデアの影響力と到達範囲を新しい方法で拡張できる」ことの例だと述べる。これは正確な表現だろう。Claudeは新しい数学的手法を発明したのではなく、BaluyotらとBombieriという、異なる方向から開発された既存の道具を接続した。人間の数学者が「この二つを組み合わせれば何かが出るかもしれない」と気づくまでに要したかもしれない時間を、AIが圧縮した格好だ。
同時に、この結果はAIの数学的能力の限界も映している。Claudeはリーマン予想そのものには歯が立たなかった。650の試行はすべて失敗し、最終的に得られたのは関連問題の下界改善にとどまる。Anthropic自身も、この手法がRHの証明につながるとは考えていない。
もう一つ注目すべき点がある。Claude自身が当初、自分が意味のある進展をできるとは信じていなかったことだ。Anthropicはこれを、AIが訓練データから「未解決問題の困難さ」と「AIモデルの限界」について学習した結果だと推測している。モデルが自らの能力を過小評価するという現象は、AIシステムの設計において無視できない問題になりうる。
残された問いは少なくない。この結果がピアレビューを通過するか。Baluyotらのペア相関法の条件(零点が狭い帯域に収まるという仮定)と、Claudeの結果の前提条件との関係が完全に整理されているか。Weilの二次形式とペア相関法の組み合わせが、他のL関数やゼータ関数の類似体にも応用できるか。そして何より、この種の「既存研究の再結合」がAIの得意領域だとすれば、人間の数学者の役割はどこへ移っていくのか。
41%の壁が50年かけても動かなかった分野で、AIが数日で25ポイント以上の更新を果たした。ただし、100%への道は依然として見えていない。



