しかし、生物の複雑な振る舞いを数式に落とし込み、それをシリコンや光素子といった工学的な物理ハードウェアとして具現化する試みには、分厚い壁が立ちはだかっていた。生体の粘菌モデルに組み込まれていた厳密な制約が、電子回路や光素子など多彩な物理系との相性を著しく狭めていたためだ。
早稲田大学理工学術院の宮嶋祐介助教(研究当時)と望月維人教授の研究チームは、この粘菌型アルゴリズムの構成要素を根本から見直し、ハードウェア化を妨げていた数理的拘束を徹底的に削ぎ落とした新しい数理モデルを構築した。物理現象に直接対応させやすい漸化式へと簡略化されたこのモデルは、計算機シミュレーションにおいて従来モデルを大幅に上回る探索性能を示した。
本研究は査読付き学術誌『Physical Review Research』の2026年6月9日付オンライン版に掲載された(Vol. 8, Issue 2, Article 023269, DOI: 10.1103/zgvb-cfpg)。本論文が提示したのは数理モデルの簡略化と数値シミュレーションによる性能実証であり、物理的なデバイスそのものを製作して実測したわけではない。それでも、生物模倣コンピューティングを実際の物理素子へと橋渡しする理論基盤として明快な設計指針を与えている。
原形質流動の保存則が生んでいた工学実装の行き止まり
組合せ最適化問題の代表例である巡回セールスマン問題(TSP: Traveling Salesperson Problem)は、指定されたすべての都市を一度ずつ訪問して出発地に戻る最短の巡回順路を割り出す問題である。訪問すべき都市数がわずかに増えるだけで巡回経路の候補数は爆発的に増加するため、従来のノイマン型コンピュータで全探索を行うと計算時間と消費電力が天文学的に膨れ上がる。
2018年、青野真士教授らの研究グループは、放射状の流路を持つ星型チップ内に生体の真正粘菌を配置し、光刺激によるフィードバック制御(バウンスバック制御)を与えることでTSPを解く「粘菌TSPモデル」を提案した(Royal Society Open Science, DOI: 10.1098/rsos.180396)。粘菌は光を嫌う性質を持つため、不適切な経路が選ばれそうになると局所的に光を照射して忌避させる。各流路の間で粘菌の原形質がせめぎ合い、安定した体積分布に落ち着いたとき、全体として最短に近い巡回経路が導き出される仕組みだった。
この生体実験および初期の数理モデルは、自然界の自己組織化現象を最適化アルゴリズムへ転換する道筋を示した。だが、これを生体ではなく無機質なハードウェアデバイスへ移植しようとした際、深刻な制約が浮上した。最大の足枷となったのが、生体粘菌の「細胞全体の体積が常に一定に保たれる」という体積保存則の存在だった。
数理モデルの中に体積保存則が組み込まれていると、ある要素の状態変化が瞬時に系全体の総和に影響を及ぼし、全体で辻褄を合わせ続けなければならない。この大域的な拘束条件を物理回路で忠実に再現しようとすれば、閉回路内の全電荷が保存される特殊なアナログ電気回路を利用する構成に限定されてしまう。その結果、利用可能な物理現象や材料の選択肢が著しく狭められていた。
さらに、従来の粘菌TSPモデルはハードウェア化を困難にする演算を多数含んでいた。状態の急激な立ち上がりを表現する非線形なシグモイド関数をはじめ、状態値に応じた「もし〜ならば」という条件分岐処理、特定の条件を満たす要素の個数を数え上げるカウント演算などである。これらはデジタルコンピュータのプログラム上では数行のコードで書けるものの、連続的な物理ダイナミクスを直接使って計算させようとすると極めて複雑な制御回路を要求する。
宮嶋助教らは2024年に発表した研究(NOLTA, DOI: 10.1587/nolta.2.1101)において「改良粘菌TSPモデル」を提案し、体積保存則を部分的に緩和しても解探索が成立することを理論的に示した。今回の研究は、その方向性を極限まで突き詰め、ハードウェアへの実装を妨げていた5つの数理要素を完全に解体、再構成したものである。
物理現象へ直結させる5つの数理的改変
早大チームが発表した「粘菌TSP漸化式モデル」の技術的要点は、生体の模倣から生じていた大域的な制約と複雑な論理演算を排し、局所的な相互作用のみで閉じるシンプルな漸化式へ変換した点にある。研究チームが導入した改変は、具体的に以下の5点である。
第1に、最大の制約であった体積保存則を完全に撤廃した。各要素が自身の近傍情報のみを参照して局所的に状態を更新できるように設計し直すことで、系全体の総和を瞬時に監視、拘束する必要をなくした。
第2に、シグモイド関数を定数や単純な線形関数へと置き換えた。シグモイド関数はアナログ素子で高精度に再現することが難しく、回路規模の増大を招く要因となっていたが、これを単純化することで素子レベルの負担を大幅に減らした。
第3に、条件分岐処理を完全に排除した。状態値が閾値を超えたかどうかに応じて処理を切り替えるif-then構造を取り払い、単一の数式ダイナミクスのみで一貫して記述できる形式に統一した。
第4に、特定条件を満たすノード数を数え上げるカウント演算を削除した。大域的な集計処理をなくし、単純な局所結合の足し引きだけで状態が遷移する枠組みへと改めた。
第5に、探索の停滞を防ぐランダムノイズとして、ガウス分布に従う乱数を導入した。最適化アルゴリズムが局所解(局所的な罠)に捕まるのを防ぐための揺らぎとして、物理素子が本質的に帯びている熱雑音(熱揺らぎ)をそのまま利用できるようにした。
これらの改変により、粘菌の探索ダイナミクスは無駄のない漸化式へと集約された。モデルの数式中には動作特性を調整できる調整パラメータが組み込まれており、解くべき問題のサイズや難易度に合わせて性能を柔軟に最適化できる。
筆頭著者の宮嶋助教は「我々のアプローチは最大の制約であった体積保存則を排除し、はるかに多様な物質や物理現象を用いて粘菌計算機を実装することを可能にする」と、その工学的意義を述べている。
| 比較項目 | 初代 粘菌TSPモデル(2018) | 改良粘菌TSPモデル(2024) | 提案 漸化式モデル(2026) |
|---|---|---|---|
| 最大対応都市数(シミュレーション) | 30都市 | 100都市 | 180都市 |
| 体積保存則の制約 | 必須(厳密な総和拘束) | 緩和(部分的に依存) | 完全に撤廃 |
| 条件分岐処理 | 多数存在 | 存在 | なし(単一式で記述) |
| シグモイド関数 | 使用 | 使用 | 定数、単純関数へ置換 |
| ノイズ源の想定 | 一様乱数など | 一様乱数など | 熱揺らぎを利用可能なガウス乱数 |
| 実装可能なハードウェア候補 | 電荷保存を利用するアナログ回路 | アナログ電子回路 | スピントロニクス、光回路、流体系など |
シミュレーション実験が示した収束速度と規模の拡大
数式を極限まで簡素化したことは、ハードウェアへの実装可能性を高めただけに終わらない。デジタル計算機上で実施された数値シミュレーションにおいて、新しい漸化式モデルは探索性能そのものの大幅な向上を記録した。
研究チームは、巡回セールスマン問題の標準的なベンチマーク問題を用いてモデルの探索ダイナミクスを検証した。その結果、新しい漸化式モデルは、初代の粘菌TSPモデルや2024年の改良モデルと比較して、すべての都市を重複なく巡る有効な経路(実行可能解)に到達するまでに必要な反復回数(イテレーション数)を大幅に減らすことに成功した。
数値シミュレーションのベンチマークにおいて、提案モデルは従来のモデルよりも格段に少ない反復回数で実行可能解へ到達した。さらに、一度に扱える問題の規模(スケーラビリティ)も拡大している。初代の粘菌TSPモデルが安定して解を探索できた規模は30都市程度にとどまり、2024年の改良モデルでも上限は100都市であったが、今回の漸化式モデルは最大180都市のTSPに対して有効な解を導き出した。
注意すべき点は、これらの数値が物理的な専用チップを作製して得られた実測値ではなく、デジタルコンピュータ上での数値シミュレーションに基づく理論的なベンチマークであることだ。180都市の解探索成功は、あくまで特定のTSPベンチマークにおけるシミュレーション結果であり、あらゆる組合せ最適化問題に対して直ちに万能であることを保証するものではない。それでも、モデルから複雑な演算を削ぎ落としながら、解の品質、収束速度、スケーラビリティのすべてにおいて従来以上の性能を数値的に示した事実は、物理デバイス設計における有力な指針となる。
再帰型ニューラルネットワークとの数学的等価性
本研究におけるもう一つの理論的発見は、粘菌の探索ダイナミクスを簡略化した結果、その漸化式が結合重みを固定した再帰型ニューラルネットワーク(RNN)と数学的に等価であることが判明した点にある。
このモデルにおけるネットワークの各結合重みは、都市間の距離情報や、同一都市を重複して訪れることを防ぐペナルティ項を表す値としてあらかじめ決定され、固定される。一般的な機械学習のニューラルネットワークのように、大量の教師データを用いてバックプロパゲーションなどで重みを学習(トレーニング)させる枠組みではない。固定された重みを持つネットワーク内部で、非線形なダイナミクスと熱雑音が相互作用しながら時間発展し、系全体のエネルギーが低い状態へと自己組織化していくことで、結果的に最適化問題の解が導かれる。
論文では、この数学的等価性が「粘菌の情報処理とニューラルネットワークが共通の計算原理を共有している可能性を示唆している」と言及されている。これは、生体の真正粘菌が脳のような神経回路網を体内に持っていることを生物学的に証明したという意味ではない。生体模倣アルゴリズムを物理法則に親和的な形まで削ぎ落としていくと、人工知能や統計物理学の基礎理論であるニューラルネットワークの数理構造と自然に合流したという発見である。この等価性により、粘菌型コンピューティングは経験的な生体模倣にとどまらず、理論的に体系化された数理フレームワークの中に強固に位置づけられた。
物理実装への道筋と残された課題
数理モデルから体積保存則やシグモイド関数といった工学的障壁が取り除かれたことで、粘菌型アルゴリズムを物理的に具現化するためのプラットフォーム候補は大きく広がった。
研究チームが論文中で最も有望な実装形態として提案しているのが、電子のスピン(磁気的性質)を利用する「スピントロニクス素子」を用いたハードウェア構成である。スピントロニクス技術は、熱や放射線に対して高い安定性を誇り、不揮発性メモリのように電源を切っても状態を保持できるため、待機電力を極小に抑えた超低消費電力な専用最適化アクセラレータを構築できる可能性がある。論文内では、スピントロニクス素子を用いた具体的な実装アーキテクチャの概念例も提示された。
スピントロニクスに加えて、光の干渉や回折を利用して瞬時に積和演算を行うフォトニック集積回路(光回路)や、微細加工技術による微小流体デバイス、機械的な微小振動子アレイなど、局所的な物理的相互作用と熱揺らぎを利用できる系であれば、多様なマテリアルへの適用が可能となった。
望月維人教授は「柔軟性を増した我々のモデルは、エネルギー効率に優れた粘菌計算機の開発を加速させるだろう。この分散型の情報処理様式は、従来のコンピュータが膨大な電力を消費しているAIや大規模な組合せ最適化において価値を発揮する可能性がある」とコメントを寄せている。
もっとも、ここで言う「粘菌計算機」とは生きた粘菌を使って動かすバイオコンピュータではなく、粘菌の動作原理に着想を得た非ノイマン型計算アーキテクチャを指す。そして本研究が完了したのは数理モデルの提案と数値シミュレーションによる原理検証の段階であり、実際に動作する物理ハードウェア素子そのものはまだ作製されていない。
スピントロニクス素子や光回路を集積して実用的な最適化チップを製造するためには、素子間の高密度な配線設計、製造工程で生じる素子特性のばらつきへの耐性、さらには外部から問題データを高速に入力し、得られた解を低遅延で読み出す周辺回路の統合など、多くの工学的課題をクリアしなければならない。
筆頭著者である宮嶋氏は2026年6月末に早稲田大学を離れ、大阪大学のJST CREST研究員として新たな研究環境へ拠点を移した。生体模倣の着想を研ぎ澄まし、物理法則に素直な漸化式へと昇華させた今回の数理モデルが、実在する超低消費電力な物理プロセッサとして稼働するかどうかが次の検証の舞台となる。
