革新的な機能と独自の哲学で一部のユーザーから熱狂的な支持を集めていたブラウザ「Arc」。その開発元であるThe Browser Companyが、Arcの積極的な新機能開発を停止し、AIファーストの次世代ブラウザ「Dia」へとリソースを集中させる方針を明らかにした。この大胆な方針転換の裏には一体何があるのだろうか。
衝撃の発表:Arcブラウザ、新機能開発停止の背景
The Browser CompanyのCEO、Josh Miller氏は、2025年5月27日付の「Letter to Arc members 2025」と題されたブログ記事で、Arcの開発方針転換について詳細な説明を行った。その内容は、Arcが抱えていた課題と、AIという新たな波に対する同社の決意を浮き彫りにするものだった。
「ノベルティ税」と利用率の壁:Arcが直面した現実
Miller氏は、Arcが「ノベルティ税(novelty tax)」と呼ぶ問題に直面していたことを認めている。多くの革新的な機能は、一部の熱心なユーザーには歓迎されたものの、「ほとんどの人々にとって、Arcはあまりにも異質で、学ぶべき新しいことが多すぎ、それに見合うだけの報酬が少なすぎた」という。
実際にデータもそれを示している。例えば、複数のワークスペースを管理できる「スペース(Spaces)」機能を日常的に利用していたのはデイリーアクティブユーザー(DAU)のわずか5.52%。GitHubの更新などをリアルタイムに表示する「ライブフォルダ(Live Folders)」に至っては4.17%、「カレンダープレビュー(Calendar Preview on Hover)」は0.4%に留まっていた。Miller氏は、「D1リテンション(利用開始初日の継続率)は強かったが、我々の指標は、私たちが目指していたマスマーケット向け消費者製品というよりは、高度に専門化されたプロフェッショナルツール(ビデオ編集ソフトなど)に近かった」と述懐する。
この現実は、ブラウザという日常的に使うツールにおいて、革新性と使いやすさのバランスがいかに難しいかを示唆している。Arcのユニークな機能群は、特定のユーザー層には深く刺さったものの、幅広いユーザーに受け入れられるにはハードルが高かったと言えるだろう。
CEOが語る「AIへの遅すぎた確信」とArc Maxの反省
開発停止のもう一つの大きな理由は、AI技術の急速な進化だ。Miller氏は、個人的には早くからChatGPTなどに魅了されていたものの、「業界の誇大広告(そしてそれに私自身が加担していたこと)にうんざりしていた」と告白。その結果、AIをArcの中心に据える決断が遅れたという。
「Arc Max」と名付けられたAI機能群のロールアウトが慎重だったことにも、その躊躇が現れている。しかし、Miller氏は「もっと早く、もっと大胆に自分のインスピレーションを受け入れるべきだった」と反省の弁を述べる。実際、2024年1月に公開された「Act II」と題したビデオの最後には、「Arc Explore」というAIネイティブなプロトタイプのデモが含まれていた。このアイデアこそが、現在のDiaや他の多くのAIネイティブ製品が向かっている方向性だとMiller氏は指摘する。「我々の直感は、心が追いつくずっと前からそこにあった」のだ。
2023年、ChatGPTやPerplexity AIがGoogle検索の牙城を脅かし、Cursorがコーディング用IDE(統合開発環境)のあり方を再定義した。これらの出来事は、Miller氏にとって「私たちが待ち望んでいた瞬間」であり、「ユーザーの行動に挑戦し、ブラウザの真の再構築につながる可能性のある根本的な変化」だった。このAIの波こそが、Arcでは達成できなかった「インターネットコンピュータ」という壮大なビジョンを実現するための鍵だと確信したのである。
コミュニケーションの反省:「真実があなたを自由にする」
Miller氏は、今回の大きな方針転換に伴うコミュニケーションについても反省点を挙げている。Diaの詳細が固まる前に発表してしまったこと(透明すぎた点)や、ユーザーが抱いていた疑問への回答が遅れたこと(不透明すぎた点)などだ。彼はメンターからの「真実はあなたを自由にする (The truth will set you free.)」という言葉を胸に、今回の書簡を「私たちの真実」として公開したと述べている。
Dia:AI時代を見据えた「インターネットコンピュータ」への再挑戦
Arcが直面した課題とAIという大きな波を踏まえ、The Browser Companyが次なる一手として投入するのが「Dia」だ。Diaは、Arcの教訓を活かし、AI時代に最適化された全く新しいブラウザとして構想されている。
Arcの教訓を活かすDiaの設計思想:シンプル、高速、セキュア
Diaの開発においては、Arcで得た反省点が徹底的に活かされている。
第一に、「シンプルさ」。Appleの元iOS担当上級副社長であるScott Forstall氏から「Arcはサックスのようだ。パワフルだが学ぶのが難しい。ピアノを作れ。誰でも座ってすぐに弾けるものを」とアドバイスされたエピソードを挙げ、Diaでは「複雑さを馴染みのあるインターフェースの背後に隠す」ことを目指すという。
第二に、「速度」。Arcは機能が豊富になるにつれて「肥大化」し、動作が重くなる場面も見られた。Diaではアーキテクチャを一から見直し、パフォーマンスを最優先。具体的には、これまでUI構築に利用してきたTCA(The Composable Architecture)やSwiftUIの使用を止め、軽量で応答性の高いブラウザを目指している。
第三に、「セキュリティ」。AIエージェントが普及する世界では、セキュリティの重要性が増す。Diaではセキュリティエンジニアリングチームを1人から5人に増強し、レッドチーム演習、バグバウンティ(脆弱性報奨金制度)、内部監査への投資を強化。「小規模なスタートアップの標準となることを目指す」と意気込む。
「従来のブラウザは死ぬ」- Diaが描くAIブラウザの未来像
Miller氏は、「伝統的なブラウザは、私たちが知っている形では死ぬだろう」と大胆に予言する。これは、検索エンジンやIDEがAIによって再構築されつつあるのと同じ流れだという。Diaは、このAIによるパラダイムシフトを前提として設計されている。
- Webページは主要インターフェースではなくなる:従来のブラウザはWebページを読み込むために作られていた。しかし今後は、AIチャットインターフェースがアプリや記事、ファイルといった「ツール」を呼び出す形が主流になると予測。チャットインターフェースは既に検索、読解、生成、応答といったブラウザ的な機能を有しており、人々はそこで多くの時間を費やし始めている。
- しかしWebは消えない:FigmaやThe New York Timesのようなウェブサービスやコンテンツの重要性は変わらない。タブは依然としてユーザーの「コアコンテキスト」であり続ける。そのため、デスクトップAIの最も強力なインターフェースは、WebブラウザかAIチャットインターフェースのどちらか一方ではなく、「両方の組み合わせ」になるとMiller氏は考えている。「ピーナッツバターとジェリーのように」。
- 新しいインターフェースは馴染みのあるものから始まる:AIによるコンピュータの利用方法は急速に変化しているが、同時に古いやり方がすぐには放棄されないという現実もある。Cursorが既存のIDEの形を取りながらAIネイティブな機能を提供して成功したように、AIブラウザもまた、既存のブラウザの概念を引き継ぎつつ進化していくと見られる。
Diaは、これらの洞察に基づき、「ブラウザの真の後継者」、そしてThe Browser Companyが創業以来目指してきた「インターネットコンピュータ」を実現する可能性を秘めていると、Miller氏は大きな期待を寄せている。
なぜDiaはArcに統合されなかったのか?
当然の疑問として、「なぜDiaの機能をArcに統合するのではなく、全く新しい製品として開発するのか?」という点が挙げられる。Miller氏によれば、これは2023年の夏を通じてチーム内で徹底的に議論された問題だった。結論として、DiaとArcは「2つの別個の製品」であるという認識に至ったという。その理由は、前述のシンプルさ、速度、セキュリティといったDiaの基本方針が、Arcの既存のアーキテクチャや設計思想に後から追加するには「あまりにも大きな欠陥」であり、「新しいタイプのソフトウェアを(そして速く)構築するには、新しいタイプの基盤が必要だった」からだ。
Arcブラウザの今後は?売却か、オープンソース化の道は
Arcユーザーにとって最も気になるのは、愛用してきたブラウザが今後どうなるのかという点だろう。Miller氏の書簡は、その疑問にも答えている。
メンテナンスは継続、しかし新機能はなし
まず明確にされているのは、「Arcをシャットダウンするつもりはない」ということだ。多くのユーザーや、同社スタッフの家族・友人もArcを利用している。そのため、Chromium(Arcのベースとなっているオープンソースブラウザプロジェクト)の定期的なアップグレード、セキュリティ脆弱性の修正、関連バグの修正といったメンテナンスは継続される。しかし、積極的な新機能開発は行われない。「正直なところ、私たちが新機能の積極的な開発を停止したことにほとんどの人が気づいていない。これは、ほとんどの人がArcに何を求めているか(学ぶべき新しいものではなく、安定性)を物語っている」とMiller氏は述べている。
オープンソース化の壁:「秘伝のタレ」ADKの存在
新機能開発が止まるのであれば、コミュニティによる開発を可能にするためにオープンソース化を望む声は大きい。Miller氏もこの点については「広範囲に検討した」としながらも、現時点では難しいとの見解を示す。
その理由は、Arcが単なるChromiumのフォーク(派生版)ではなく、「ADK(Arc Development Kit)」と呼ばれるカスタムインフラストラクチャ上で動作しているためだ。ADKは、The Browser Companyが「我々の秘伝のタレ」と呼ぶ内部SDK(ソフトウェア開発キット)であり、これにより元iOSエンジニアなどがC++に触れることなく、迅速にネイティブなブラウザUIをプロトタイプ開発できるという。このADKはDiaの基盤でもあり、同社の中核的な価値そのものだ。「ADKをオープンソース化せずにArcを意味のある形でオープンソース化することはできない。そしてADKは依然として当社の中核的価値だ」とMiller氏は説明する。ただし、「それが私たちのチームや株主を危険にさらさなくなる日が来れば、私たちが構築したものを世界と共有することに興奮するだろう」とも付け加えており、将来的な可能性を完全に否定しているわけではない。
売却の可能性も浮上:「Arcの未来を模索」
オープンソース化が難しいとなれば、他社への売却という選択肢も考えられる。Miller氏自身も書簡の中で、「売却についても広範囲に検討した 」と述べており、選択肢の一つとして俎上に載っていたことは間違いないようだ。現時点では具体的な動きはないものの、「私たちを通してであれ、コミュニティを通してであれ、Arcがその過去と同じくらい考慮された未来を見つけることが私たちの希望であり意図だ。もしアイデアがあれば、ぜひ聞かせてほしい」と、Arcの将来に対する前向きな姿勢を示している。
The Browser Companyの野望とブラウザ市場への示唆
今回のThe Browser Companyの決断は、単なる一企業の戦略転換に留まらず、今後のブラウザ市場やAI技術のあり方について多くの示唆を与えている。
VCからの資金調達と「大きな目標」
なぜArcを有料化して利益を追求するのではなく、リスクを取ってDiaに賭けるのか。Miller氏は、ベンチャーキャピタルからの資金調達と、同社の「大きな目標」との関連で説明する。「もし目標が、素晴らしいチームと忠実な顧客を持つ小規模で収益性の高い会社を築くことであれば、私たちはウェブブラウザ(最もユビキタスなソフトウェア)の後継者を構築しようとは選択しなかっただろう。この点のポイントは、私たちにとって常により大きなものだった。つまり、真の規模で人々に影響を与えることができる、手入れの行き届いた良いソフトウェアを構築することだ」。この言葉からは、単なるビジネスとしての成功以上に、テクノロジーによる社会変革を目指す強い意志が感じられる。
AIはブラウザをどう変えるか?次世代ブラウザ戦争の幕開け
Miller氏は、「5年後、デスクトップで最も使われるAIインターフェースは、旧時代のデフォルトブラウザに取って代わるだろう」と予測する。そして、「次のChromeは今まさに作られている。それがDiaであろうとなかろうと」と述べ、新たなブラウザ戦争の幕開けを示唆する。Google Chrome、Apple Safari、Microsoft Edgeといった既存の巨人たちが支配するブラウザ市場に、AIという新たな武器を携えたDiaのような挑戦者がどこまで食い込めるのか。
The Browser Companyのこの大胆な賭けは、電気の黎明期にロウソク事業から電灯事業へと舵を切るようなものだとMiller氏は例える。その成否はまだ誰にも分からない。しかし、彼らの挑戦は、私たちが日々利用する「インターネットへの窓」が、AIによっていかに根本から変わりうるのかを考える上で、非常に興味深いケーススタディとなるだろう。Arcユーザーにとっては寂しいニュースかもしれないが、Diaが提示する未来に期待を寄せつつ、その動向を注意深く見守りたい。
Source
- The Browser Company: Letter to Arc members 2025