NASA(アメリカ航空宇宙局)は2026年2月3日、人類を再び月の軌道へと送り出す歴史的なミッション「アルテミスII(Artemis II)」の打ち上げ予定を、当初目標としていた2月から「2026年3月以降」へと延期することを発表した。
この決定は、ケネディ宇宙センター(Kennedy Space Center)で行われた「ウェット・ドレス・リハーサル(WDR)」と呼ばれる、打ち上げ直前の最終燃料充填試験において、深刻な液体水素の漏洩が確認されたことを受けたものである。カウントダウンがわずか5分15秒前まで迫ったところで、自動システムが異常を検知し、試験は強制停止(スクラブ)となった。
有人宇宙飛行において「妥協」は許されない。今回の延期は、1972年のアポロ17号以来、約半世紀ぶりとなる有人月探査という壮大な目標を確実に達成するための、極めて重い決断である。
「ウェット・ドレス・リハーサル」という究極の試練
「ウェット・ドレス・リハーサル(WDR)」とは、ロケットに極低温の推進剤(燃料と酸化剤)を実際に充填し、打ち上げ当日のカウントダウン手順を本番さながらに再現する、打ち上げ前で最も重要な試験である。
今回の試験では、全長322フィート(約98メートル)の巨大ロケット「Space Launch System(SLS)」のコア・ステージと、その上部に位置する「中間再突入推進ステージ(ICPS)」に対し、合計70万ガロン(約265万リットル)以上の超低温液体水素(LH2)と液体酸素(LOX)が充填された。
この試験の目的は、地上設備と機体のインターフェースが正常に機能するか、極低温にさらされた配管やシール材(密閉材)に漏れが生じないかを確認することにある。NASA長官であるJared Isaacman氏は、「これらのテストは、飛行前に問題を表面化させ、打ち上げ当日を最高の成功確率で迎えるために設計されている」と述べている。
緊迫のカウントダウン:何がプロセスを止めたのか
試験は2026年1月31日夜(東部標準時)から、約49時間にわたるカウントダウンとして開始された。当初は極低温のフロリダの寒波による開始の遅れがあったものの、2月2日正午過ぎから本格的な燃料充填作業が始まった。
繰り返される漏洩の予兆
燃料充填の過程で、技術者たちはすでに不穏な兆候を捉えていた。SLSコア・ステージの液体水素タンクが約55%満たされた時点で、機体と地上設備を繋ぐ「テール・サービス・マスト・アンビリカル(TSMU)」の接続部分(インターフェース)から水素の漏洩が検出されたのである。
エンジニアは一度充填を停止し、接続部を意図的に温めることでシール材を再密着(リシート)させるというトラブルシューティングを試みた。この処置により漏洩は一旦、「許容範囲内」に収まったと判断され、作業は続行された。
T-5分15秒での自動停止
しかし、事態はカウントダウンの最終盤で急転する。日付が変わった2月3日午前0時過ぎ、カウントダウンが残り5分15秒を指した瞬間、地上発射シーケンサー(GLS)が液体水素の漏洩レートの急激な上昇(スパイク)を検知した。
SLSは、制御を地上から機体内の自動システムへと引き継ぐ直前の段階にあったが、安全基準を上回る漏洩により、システムは自動的にカウントダウンを停止した。これにより、機体の内部電源への切り替えやタンクの加圧といった、最終的なプロセスを完了させることはできなかった。
なぜ「液体水素」は漏れ続けるのか
NASAが直面している液体水素の漏洩問題は、今回が初めてではない。2022年に行われたアルテミスI(無人試験飛行)の際にも、同様のTSMUインターフェース部分での水素漏洩により、打ち上げが数ヶ月単位で遅延した経緯がある。
なぜこれほどまでに水素の制御は困難なのか。そこには水素という物質が持つ物理的特性に起因する「宿命」とも言える課題がある。
- 極小の分子サイズ: 水素は宇宙で最も小さく軽い分子である。微細な亀裂や、他のガス(酸素や窒素)では漏れないようなわずかな隙間からも容易に漏れ出してしまう。
- 超低温による収縮: 液体水素を維持するためには、マイナス253度(423度F)という超低温を保つ必要がある。この極低温により、金属配管やシール材は急激に収縮する。常温では完璧に密閉されていた接続部も、極低温下ではわずかな歪みが生じ、そこが漏洩の経路となる。
- 高エネルギーと可燃性: 水素は非常に高いエネルギー密度を持つ優れた推進剤だが、同時に極めて燃えやすい性質を持つ。わずかな漏洩も、発火や爆発のリスクに直結するため、NASAの安全基準は極めて厳格に設定されている。
今回の漏洩箇所が、3年前のアルテミスIで問題となった場所とほぼ同じであったことは、NASA内部でも深刻に受け止められている。改善策を講じてきたはずの設計が、なぜ再び失敗したのか。データの詳細な分析が求められている。
浮き彫りになった複数のテクニカル・イシュー
今回のWDRで判明した課題は、水素漏洩だけではない。NASAが公開した報告によれば、複数のシステムにおいて修復や調整が必要な事象が確認されている。
- オリオン宇宙船のハッチ加圧バルブ: 最近交換されたばかりの、オリオン(Orion)乗員モジュールのハッチ加圧に関連するバルブにおいて、追加の締め付け(リトルク)が必要であることが判明した。
- 通信システムのドロップアウト: 地上チーム間の音声通信チャネルにおいて、過去数週間にわたり散発的な通信途絶(ドロップアウト)が発生していたが、リハーサル中にもこれが再発した。
- クローズアウト作業の遅延: 宇宙飛行士が搭乗する際のハッチ閉鎖などの「クローズアウト作業」に、想定以上の時間を要した。本番ではタイトな打ち上げウィンドウの中でこれらの作業を完遂しなければならない。
- 極低温下でのカメラ故障: 記録的な寒波により、一部の監視カメラや機材が正常に作動しなかった。
これらの問題は、一つ一つは致命的ではないかもしれないが、有人飛行という極限の安全性が求められるミッションにおいては、すべてを完璧に解決しておく必要がある。
アルテミスII搭乗クルーの現状と今後のスケジュール
今回の延期を受け、すでにヒューストンのジョンソン宇宙センター(Johnson Space Center)で隔離生活に入っていた4名の宇宙飛行士たちは、一旦隔離を解除された。
Reid Wiseman船長、Victor Glover飛行士、Christina Koch飛行士(以上NASA)、そしてJeremy Hansen飛行士(カナダ宇宙庁)の4名は、2月4日にケネディ宇宙センターへ移動する予定をキャンセルし、家族のもとへ戻り、トレーニングを継続することとなった。
Wiseman船長はSNSを通じて、「燃料が100%まで充填されるのを見て、大きな誇りを感じた。我々は明日からトレーニングを再開する」と、前向きなコメントを発信している。
今後の打ち上げウィンドウ
NASAは現在、2月の打ち上げウィンドウ(2月8日〜11日)を完全に断念し、2026年3月を最短の打ち上げ目標としている。
現在検討されている具体的な打ち上げ候補日は以下の通りである。
- 3月6日〜9日
- 3月11日
- (これらを逃した場合は4月に延期される可能性もある)
打ち上げのためには、地球の自転や月の軌道といった「複雑な軌道力学」に基づいた数日間のウィンドウを正確に射抜く必要がある。
安全こそが最優先される「歴史の一歩」
アルテミスIIは、単なる試験飛行ではない。10日間にわたるミッションを通じて、オリオン宇宙船の生命維持装置や深宇宙での運用能力を人間が実際に搭乗してテストする、アルテミスIIIでの「有人月面着陸」に向けた決定的なステップである。
SLSとオリオンは2022年以来、有人での打ち上げ実績がない。3年以上のブランクがある中で、NASAが「ウェット・ドレス・リハーサル」で直面した課題は、むしろ打ち上げ前に解決すべき「贈り物」であるとも言える。
「我々は準備が整ったと信じられる時にのみ打ち上げる」。
このIsaacman長官の言葉は、過去のスペースシャトル事故などの教訓を胸に刻んだNASAの不変の姿勢を示している。水素漏洩という難敵に再び打ち勝ち、SLSが4人の英雄を乗せてフロリダの空を切り裂く日は、もう間もなく訪れる。我々はその時が「2月」ではなく「3月」になったとしても、その価値が揺らぐことはないことを知っている。
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