テクノロジーと科学の最新の話題を毎日配信中!!

豪州発「極低温CMOSチップ」によるブレークスルーが数百万量子ビットの単一量子プロセッサを可能にする

Y Kobayashi

2025年6月26日

量子コンピュータが「実験室の魅力的な機械」から「現実世界の問題を解決するツール」へと進化するきっかけとなるかもしれない。オーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ大学(UNSW)とシドニー大学の研究者らが開発した、絶対零度に近い極低温環境で動作する特殊な制御チップは、量子コンピュータの大規模化を阻んできた「配線」と「熱」という巨大な壁を打ち破る、まさにゲームチェンジャーとなる可能性を秘めたものだ。

スポンサーリンク

量子コンピュータが抱える「配線と熱」という巨大な壁

量子コンピュータの驚異的な計算能力は、「量子ビット」と呼ばれる極小の素子に支えられている。しかし、この量子ビットは極めて繊細だ。外部のわずかなノイズや温度変化で、その量子的な性質(重ね合わせやもつれ)は簡単に失われてしまう。この「コヒーレンス」を維持するため、量子ビットは絶対零度(-273.15℃)に近い、極低温の環境に置かれなければならない。まるで、完璧な静寂と極寒の世界でしか生きられない、壊れやすいガラス細工のようだ。

一方、この繊細な量子ビットを精密に操作し、計算結果を読み出すためには、現代のスマートフォンやPCにも使われている「CMOS(相補型金属酸化膜半導体)」技術をベースにした複雑な電子回路が不可欠である。問題は、この制御回路が動作する際に、無視できないほどの熱を発生させることだ。

ここに、根本的な矛盾が存在する。

「極寒を求める量子ビット」「熱を発生させる制御回路」

この二つをどう共存させるか。これまでのアプローチの多くは、発熱する制御回路を量子ビットから物理的に遠ざけ、冷凍機の外の室温環境に設置し、多数のケーブルで接続するというものだった。しかし、この方法には限界がある。

実用的な量子コンピュータには数百万個もの量子ビットが必要とされている。一つ一つの量子ビットを制御するために複数のケーブルが必要となれば、冷凍機の内部は瞬く間にケーブルの「ジャングル」と化してしまうだろう。これは「インターコネクト・ボトルネック(配線問題)」と呼ばれ、量子コンピュータのスケーラビリティにおける最大の障壁の一つとされてきた。

では、制御回路を量子ビットのすぐ隣、極低温の世界に持ち込むことはできないのか?それができれば配線問題は解決に向かうが、今度は制御回路の発熱が、隣にある繊細な量子ビットを「温めて」しまい、その量子状態を破壊してしまう。このジレンマこそが、研究者たちが長年頭を悩ませてきた難問だった。

シドニーからの回答:「チップレット方式」による極低温制御

この長年の難問に対し、シドニー大学とUNSWの研究チームが、世界的な科学誌『Nature』で一つの鮮やかな回答を提示した。その鍵は、極低温で動作する特殊なCMOSチップ、通称「クライオCMOS」と、それを量子ビットと巧みに組み合わせる「チップレット」という設計思想にある。

絶対零度で沈黙を守る制御チップ「クライオCMOS」

シドニー大学のDavid Reilly教授が率いるチーム(現在は彼が創設したスタートアップ「Emergence Quantum」が開発を主導)は、この難題を解決するために、ミリケルビン(mK、絶対零度よりわずかに高い温度)という極低温環境で動作するクライオCMOSチップを設計した。

このチップの最大の特徴は、その驚異的な低消費電力にある。論文によれば、チップ全体での消費電力はわずか数10マイクロワット(μW)。特に、量子ビットを直接制御するアナログ回路部分の消費電力は、1メガヘルツあたり20ナノワット(nW)という驚くべき低消費電力だ。これにより、冷凍機が持つ冷却能力の範囲内で、数千、数万の量子ビットを制御する回路を搭載することが理論的に可能になる。

量子ビットと制御チップの「近接配置」に成功

研究チームは、このクライオCMOSチップを、シリコン量子ビットを搭載したチップのすぐ隣、わずか3ミリメートルの距離に配置した。そして、この2つのチップをワイヤーで接続し、一つのパッケージに収めた。

これは「ヘテロジニアス(異種)統合」や「チップレット方式」と呼ばれるアプローチだ。量子ビットと制御回路を一つのチップに無理やり詰め込む「モノリシック(一体型)」方式とは異なり、それぞれに最適化された別々のチップを製造し、それらを後から高密度に接続する。この方式の利点は、熱や電気的ノイズを発する制御チップと、それに敏感な量子ビットチップを物理的に分離しつつ、配線を最短にできる点にある。熱を効率的に逃がすための経路も設計しやすくなる。

Reilly教授は声明でこう語る。「この結果は、10年以上にわたる努力の賜物です。極低温で動作し、ごくわずかな電力しか消費しない電子システムを設計するためのノウハウを蓄積してきました」

スポンサーリンク

性能低下はほぼゼロ ― Nature誌が認めた「驚異的な成果」

この研究の最も驚くべき点は、10万個以上ものトランジスタが集積された複雑な制御チップを量子ビットのすぐ隣で動作させても、量子ビットの性能がほとんど損なわれなかったことだ。

1量子ビット、2量子ビットゲートでの性能を実証

研究チームは、クライオCMOSチップを用いて、単一の量子ビットを操作する「1量子ビットゲート」と、二つの量子ビットを相互作用させる「2量子ビットゲート」という、量子計算の基本操作を実行した。

その結果は目覚ましいものだった。

  • 1量子ビットゲートの忠実度(フィデリティ): ランダム化ベンチマーキングという手法で測定したところ、クライオCMOSで制御した場合の忠実度の低下は、室温の機器で制御した場合と比較してわずか0.07%だった。これは誤差の範囲内と言えるほどの小さな差だ。
  • 2量子ビットゲートのコヒーレンス: 量子ビット間の相互作用(交換相互作用)を利用する2量子ビットゲートは、電気的ノイズに特に敏感とされる。しかし、実験の結果、クライオCMOSを動作させてもコヒーレンス時間(量子状態を保てる時間)に測定可能なほどの大きな減少は見られなかった。

共同筆頭著者であるSamuel K. Bartee博士は「私たちがミリケルビンでの制御が1量子ビットおよび2量子ビットゲートの性能を低下させないことを示した今、多くの人々が我々の先導に続くと期待しています」と述べている。

ノイズ源は「熱」のみ、電気的干渉は驚くほど小さい

10万個のトランジスタが、サブナノ秒という超高速でスイッチングを繰り返す。常識的に考えれば、そこからは強烈な電気的ノイズ(クロストーク)が発生し、繊細な量子ビットをかき乱すはずだ。

しかし、今回の実験では、そのような電気的ノイズの増加はほとんど観測されなかった。論文では、観測されたわずかな性能低下は、電気的ノイズではなく、クライオCMOSチップから量子ビットチップへ伝わる「寄生的な熱」が原因である可能性が高いと結論づけている。この熱の問題は、チップのパッケージングや熱を逃がす経路を工夫することで、将来的にはさらに改善できる見込みがある。

この驚くべき結果は、クライオCMOSの巧みな設計に加え、チップレット方式が熱とノイズの分離に極めて有効であることを実証したと言えるだろう。

産学連携が生んだシナジー ― DiraqとEmergence Quantumの挑戦

この歴史的な成果は、技術的ブレークスルーだけではなく、シドニーに拠点を置く二つの大学発スタートアップの強力なパートナーシップが生んだシナジーの賜物でもある。

UNSW発「Diraq」の”ホット”な量子ビット

今回の実験で使われた量子ビットは、UNSWのAndrew Dzurak教授が創設したスタートアップ「Diraq」の技術だ。彼らのシリコンスピン量子ビットは、既存のCMOS製造プロセスと非常に親和性が高いだけでなく、比較的「高温」である1ケルビン(-272.15℃)以上でも高い忠実度で動作することが昨年『Nature』誌で報告されている。

この「ホット量子ビット」と呼ばれる特性が、今回の成功の隠れた鍵となった。制御回路からのわずかな熱に対する許容度が高いため、クライオCMOSとの統合がより容易になったのだ。

Dzurak教授は言う。「この進歩は、量子ビットの品質を損なうことなく精密な制御を可能にする手段をDiraqに提供します。これは量子コンピューティングのパズルの重要なピースであり、今日のコンピュータでは考えられないような問題を解決できるマシンに向けた我々の進歩を加速させるでしょう」

シドニー大学発「Emergence Quantum」の”クール”な制御技術

一方、極低温制御チップ「クライオCMOS」を開発したのは、シドニー大学のReilly教授が率いるチームからスピンアウトした「Emergence Quantum」だ。このチームは元々Microsoftの量子コンピューティング部門の一部であり、その高い技術力は折り紙付きだ。

この二つの企業の連携は、それぞれが持つ世界トップレベルの技術、つまりDiraqの「優れた量子ビット」とEmergence Quantumの「優れた制御回路」が、完璧な形で組み合わさったことを意味する。

スポンサーリンク

100万量子ビットのコンピュータは、いつ実現するのか?

今回の成果は、シリコン量子コンピュータが、研究室の基礎研究フェーズから、実用的な大規模システムを構築するエンジニアリングのフェーズへと大きく踏み出したことを象徴している。

  • スケーラビリティへの道筋: 配線と熱の問題を解決する「クライオCMOS+チップレット」という明確なアーキテクチャを示した。
  • 産業との連携: 世界中の半導体工場で使われているCMOS技術を基盤としているため、既存の巨大な製造インフラとエコシステムを活用できる。これは、他の方式の量子コンピュータにはない、シリコン方式の圧倒的な強みだ。

Reilly教授は、この成果が持つ意味を次のように要約する。「これにより、私たちは量子コンピュータが『実験室の魅力的な機械』である領域から、これらのデバイスが人類のために解決できる現実世界の問題を発見し始める段階へと進むことができるでしょう」

もちろん、100万量子ビットの実現までには、エラー訂正技術のさらなる向上や、製造プロセスの精密化など、まだ多くの課題が残されている。しかし、今回のブレークスルーは、その長く険しい道のりに、明るく、そして確かな光を灯した。量子コンピュータが創薬や新材料開発、気候変動対策といった人類の重要課題に貢献する未来は、もはやSFの世界の話ではなく、シドニーの研究者たちの手によって、着実に現実のものとなりつつあるのだ。


論文

参考文献

Follow Me !

\ この記事が気に入ったら是非フォローを! /

フォローする
スポンサーリンク

コメントする