米国政府による輸出再開の承認を受け、安堵ムードが漂っていたはずのNVIDIAの中国事業に、突如として暗雲が立ち込めた。中国のインターネット規制当局であるサイバースペース管理局(Cyberspace Administration of China, CAC)が、同社の中国向けAIチップ「H20」に「深刻なセキュリティ脆弱性」があるとして、NVIDIAの担当者を呼び出し説明を求めたのだ。NVIDIAは即座に「バックドアは存在しない」と疑惑を全面否定したが、この一件は単なる一企業の製品問題にはとどまらない。米国のチップ追跡構想に対する中国の強い警戒感と、技術覇権を巡る米中間の根深い不信が、ついに半導体のコア部分を巡る攻防として表面化したことを意味している。この「信頼」を巡る新たな火種は、NVIDIAの巨大な中国市場、ひいては世界の半導体サプライチェーンにどのような地殻変動をもたらすのだろうか。

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中国当局がNVIDIAに突如突きつけた「セキュリティリスク」

BloombergやReutersなどの報道によると、CACは2025年7月31日、NVIDIAの代表者を呼び出し、中国で販売されるH20チップに存在する潜在的なセキュリティリスク、特に「バックドア」やその他の脆弱性について説明し、関連文書を提出するよう要求した。

CACが問題視しているのは、米国の議員や政府関係者から上がっている、海外に輸出される高性能AIチップに「追跡・位置情報特定機能」を搭載すべきだという声だ。CACは声明の中で、この米国の動きに懸念を表明。中国メディア「集微網(ijiwei)」はさらに踏み込み、NVIDIAのチップにはすでに成熟した「追跡・測位」および「遠隔シャットダウン」技術が備わっていると報じ、中国側の不信感を煽っている。

この動きのタイミングは、極めて政治的だ。わずか数週間前、NVIDIAのCEOであるJensen Huang氏は北京を訪問し、中国のAI企業の躍進を称賛するなど、中国市場への強いコミットメントをアピールしたばかりだった。また、米中両政府は関税休戦を延長するなど、対話ムードを演出していた。そんな矢先の「呼び出し」は、水面下で続く米中の厳しい神経戦を浮き彫りにしたと言えるだろう。

NVIDIAの反論:「バックドアは存在しない」

中国当局からの厳しい追及に対し、NVIDIAは即座に声明を発表し、疑惑をきっぱりと否定した。

「サイバーセキュリティは我々にとって極めて重要です。NVIDIAのチップには、誰かが遠隔でアクセスしたり制御したりすることを可能にするような『バックドア』は存在しません」

この声明は、技術的な潔白を主張するものだ。Jensen Huang氏自身も過去に、製品にバックドアを仕込むことは「ビジネスセンスに合わない」と述べ、顧客の信頼を損なうような行為は企業の存立を危うくすると示唆している。世界中のデータセンターで稼働するNVIDIAのチップに、特定の国家がアクセスできるような仕組みが存在すれば、それはNVIDIAという企業への信頼を根底から覆しかねないからだ。

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なぜ今?疑惑の背景にある米国の「チップ追跡構想」

中国側の動きは、単なる言い掛かりなのだろうか。いや、そう単純ではない。その背景には、米国側で着々と進む「チップセキュリティ」の議論がある。

Trump政権が発表した「AI行動計画(AI Action Plan)」や、2025年5月に米国の超党派議員グループが提出した「米国チップセキュリティ法案(U.S. Chip Security Act)」は、まさに中国が警戒する内容を含んでいる。これらの構想の目的は、米国製の最先端AIチップが、輸出規制の対象となっている「懸念国」に密輸されたり、意図しない用途で利用されたりするのを防ぐことにある。そのための手段として、チップに位置情報を検証する機能の搭載を義務付けることが提案されているのだ。

Reutersが報じたように、専門家によれば、こうした追跡技術はすでに利用可能であり、その多くはNVIDIAのチップに既に組み込まれている機能の延長線上で実現できるという。つまり、中国の懸念は全くの空想ではなく、技術的な蓋然性に基づいている。

米国から見ればこれは安全保障上の正当な措置だが、中国から見れば、自国のデータセンターで稼働する半導体の生殺与奪の権を米国に握られるに等しい。それは、デジタル社会における主権の侵害であり、到底受け入れがたいシナリオなのだ。今回のCACの動きは、この米国の構想に対する明確な牽制と見ることができる。

巨大市場と規制の狭間で:Nvidiaが直面する「チャイナ・ジレンマ」

この一件で、NVIDIAは改めて米中対立の断層の真上に立たされていることを痛感させられた。同社にとって中国は、決して失うことのできない巨大市場だ。米国の輸出規制がなかった場合、直近の四半期売上は25億ドル上乗せされていたとされ、規制によって販売できなくなったH20チップの在庫は45億ドルの評価損を生んだ。

だからこそ、米国政府がH20の輸出禁止を解除したことを受け、NVIDIAはすぐさまTSMCに30万個もの追加発注を行ったと報じられている。旺盛な中国需要に応え、失地を回復しようという強い意志の表れだ。

しかし、その矢先に中国当局から「待った」がかかった。ワシントンの顔色を窺いながらダウングレード版のH20を開発し、ようやく輸出の許可を得たと思えば、今度は北京から「信頼性」を問われる。まさに、巨大市場と政府規制の板挟みとなる「チャイナ・ジレンマ」の典型例である。

アナリストのCharlie Dai氏(Forrester)が指摘するように、「CACによるH20のセキュリティリスク精査は、国内競合が台頭する中、Nvidiaの中国市場シェアをさらに侵食する可能性があり、H20の即時販売再開は規制の不確実性により遅延に直面するかもしれない」。

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中国の真意と今後の展望:交渉カードか、国産化への本気か

中国側の真の狙いはどこにあるのだろうか。複数の可能性が考えられる。

第一に、米中間の様々な交渉における「交渉カード」としての側面だ。Gavekal Dragonomicsのアナリスト、Tilly Zhang氏が「NVIDIAのチップは今や中国にとって交渉のテーブルに載せられる存在になった」と述べるように、中国はもはや海外技術に一方的に依存する立場ではないという自信を深めている。

第二に、「国内半導体への代替促進」という国家戦略の一環である可能性だ。この騒動を口実に、Huaweiなどが開発する国産AIチップへの乗り換えを国内テック企業に促し、「技術的自立」を加速させる狙いだ。

第三に、米国がHuaweiやTikTokに対して行ってきたセキュリティ上の懸念表明に対する「象徴的な対抗措置」という見方もある。

ただし、性急な結論は禁物だ。86Researchのアナリスト、Charlie Chai氏が「中国は依然として国内の研究や応用のためにNVIDIAのチップを必要としている」と指摘するように、中国にとってもNVIDIAを完全に締め出すことは現実的ではない。過去、中国は米Micron Technologyの製品を「深刻なセキュリティリスク」があるとして主要インフラからの購入を禁じた一方、Intelに対する調査要求には公的な対応を示していない。今回のNVIDIAへの対応がどちらのケースに近くなるかは、今後の米中関係の力学に大きく左右されるだろう。

この事件は、グローバルな半導体サプライチェーンが、性能や価格だけでなく「信頼」という極めて曖昧で政治的な要素によって左右される新時代に突入したことを象徴している。もはや、どこの国のどの工場で、どのような設計思想に基づいて作られたチップなのかという「出自」が、その性能以上に重要な価値を持つようになったのだ。NVIDIAと中国の攻防は、この信頼なき時代のテクノロジー覇権争いの行方を占う、重要な試金石となるに違いない。


Sources