無機質な3D空間の中で、一匹のデジタル化されたキイロショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)が歩き回っている。目に見えない甘い味覚の手がかりに引き寄せられるようにバナナの切り身へと近づき、ふと立ち止まって前足で触角の埃を払うような仕草(グルーミング)を見せた後、再び餌に向かって歩き出し、ついに食事を始める。この光景は、一見すると2000年代の古いビデオゲームの粗いアニメーションのように思えるかもしれない。しかし、この映像の裏側で動いているのは、プログラマーが手書きしたコードでも、最新のAIが膨大なデータから学習した強化学習モデルでもない。物理エンジン上に構築された仮想の身体を制御しているのは、実際のハエの脳細胞の「配線図」をそのままデジタル空間に再現した、シミュレーション上の脳そのものなのだ。
アメリカのバイオテクノロジー企業であるEon Systems社は、成体ショウジョウバエの脳を構成する約12万5,000個のニューロンと5,000万個のシナプス接続を完全にシミュレーションし、それを仮想ボディに接続することに成功したと発表した。同社はこれを「世界初のマルチ行動脳アップロード(whole-brain emulation)」と呼んでいる。これまで、SFの世界や人工知能の究極の目標として語られてきた「生物の脳をコンピュータ上にコピーして起動する」という概念が、昆虫のスケールにおいてひとつの現実的なマイルストーンに到達したことを意味するのだ。
13万9,255の神経細胞が描く精密な地図「コネクトーム」

Eon Systems社が今回達成したシミュレーションの土台となっているのは、ある一つの記念碑的な科学的成果だ。それは、2024年10月に国際学術誌『Nature』で発表された「FlyWireプロジェクト」によるショウジョウバエの全脳コネクトーム(神経回路の配線図)の完全なマッピングである。
プリンストン大学の研究者らが主導したこのプロジェクトは、ハエの脳を電子顕微鏡でナノメートル単位でスキャンし、約13万9,255個のニューロンと、それらを繋ぐ5,450万個のシナプス結合のすべてを三次元的に追跡・カタログ化したものである。この作業は極めて途方もないものであり、生み出されたデータ量は106テラバイトに及んだ。機械学習による初期のトレース支援があったにもかかわらず、人間による確認と修正(プルーフリーディング)だけで33人年(1人が専任で33年かかる労働量)が費やされた。もしAIの支援がなければ、この校正作業だけで5万人年を要したと推計されている。
配線図を手に入れることと、その回路に実際に電気を流して身体を動かすことの間には、巨大な技術的断絶が存在する。地図があるからといって、そこに住む住人の動きが自動的にわかるわけではないという理屈と同じである。今回のEon Systems社によるデモンストレーションは、単一のブレイクスルーによって突如として実現したわけではなく、実際には独立した4つの最先端研究が合流することによって形作られた。
第一の基盤は先述したFlyWireによる解剖学的な配線図の完成である。第二の要素は、カリフォルニア大学バークレー校のPhilip Shiu(現Eon Systems社シニアサイエンティスト)らが同月に発表した、ノートパソコン上で動作する脳全体の計算モデルの構築である。第三の要素は、Google DeepMindとハワード・ヒューズ医学研究所(HHMI)ジャネリア研究キャンパスが2025年4月に発表した、物理エンジンMuJoCoを用いた極めてリアルなハエの身体シミュレーション技術に由来する。そして第四の決定的な要素として、中国の研究グループが2026年2月にプレプリントとして発表した、コネクトームをMuJoCoの身体シミュレーションの制御装置として統合する研究が存在する。
Eon Systems社の成果は、これらの解剖学、神経モデリング、身体シミュレーション、そしてコネクトーム誘導制御という異なる次元の進歩を巧みに繋ぎ合わせた結果として生み出された。
仮想空間で生命を駆動する漏れ積分発火モデルのメカニズム
静的な回路図であるコネクトームを、仮想環境で自発的に行動するデジタルな脳へと変換する中核には、単純かつ生物学的に妥当な数学的アプローチが採用されている。研究チームは、神経細胞の挙動を模倣するために漏れ積分発火(Leaky Integrate-and-fire: LIF)モデルと呼ばれる手法を実装した。これは、個々のニューロンを微小なコンデンサのように見立てる計算モデルだ。
上流のニューロンからシナプスを通じて興奮性または抑制性の信号を受け取ると、ニューロンの膜電位が変動し、ある一定の閾値を超えた瞬間に発火(スパイク)して下流へと電気信号を伝達する。外部からの信号が途絶えれば、電位は徐々に基準値へと漏れ出て戻っていく仕組みを備えている。Siuらの研究では、FlyWireが特定したシナプス接続の重みと、各ニューロンが用いる神経伝達物質の予測データを用いることで、感覚入力から運動出力に至る脳全体の信号伝播を驚くべき精度で追跡することに成功した。
この脳の計算モデルを、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)が開発したNeuroMechFly v2と呼ばれる身体シミュレーションフレームワークと統合することで、自律的な感覚・運動ループが完成する。仮想のハエが環境内を移動し、仮想の砂糖のパッチに触れると、味覚受容体に対応するニューロンに感覚入力が発生する。入力された信号は配線図に従って数万のニューロン群を伝播し、最終的に吻の伸長を制御するMN9などの運動ニューロンを発火させる。出力された信号が物理シミュレーション上の関節や筋肉を動かし、ハエが実際に食事のアクションを起こすという一連のプロセスが、15ミリ秒という極めて短い周期で絶え間なく計算され続けている。
外部のプログラムが行動を逐一指示しているわけではなく、感覚入力が生物学的に忠実にマッピングされた回路図を流れることによって、自発的に特定の運動コマンドが生成される。知覚から行動へのループをコネクトームのシミュレーション内で完全に閉じたという点に、この実験の真の革新性が宿っている。
生物学的アーキテクチャが内包する圧縮された計算知能
このデジタルハエの歩行や摂食行動は、現在の高度な強化学習アルゴリズムを用いれば、外見上は簡単に模倣できるように思われるかもしれない。実際にDeepMindの研究チームは、コネクトームに頼らずに強化学習を用いてリアルに動くハエの仮想ボディを構築している。そこに提示されているのは、現代の人工知能開発における根本的なパラダイムの違いである。
現在のディープラーニングや大規模言語モデルは、数十億から数兆という膨大なパラメータを用意し、天文学的な量のデータと計算資源を用いた最適化によって有益な構造を発見している。言うなれば、膨大なエネルギーを消費しながらゼロから手探りで歩き方を学ばせている状態に近い。対照的に、今回のハエの脳モデルは、進化が数億年という途方もない時間をかけて最適化してきた生物学的な配線自体が、極めて高度に圧縮された計算インテリジェンスを内包していることを実証した。
Siuらのシミュレーションでは、味覚の感知から摂食行動に至る特定の経路において、わずか735個の調整されたパラメータを用いて64種類のニューロンタイプの挙動を再現し、実際のハエの運動応答を約95パーセントの精度で予測することに成功している。中国の研究チームによる成果でも、ランダムに繋ぎ直したネットワークでは生物の行動を制御できず、実際の配線パターンを維持したネットワークのみが優れた制御能力を発揮したことが報告されている。進化の過程ですでに最適解が導き出されている特定の計算上の課題について、現代の人工知能が膨大な電力を浪費して再発見しようとしている可能性が示唆されている。
この知見は、人工知能の物理的基盤に劇的な変革をもたらす可能性を秘めている。生体構造からインスピレーションを得た、よりエネルギー効率の高いニューロモルフィック(脳型)ハードウェアの設計や、巨大で不透明な言語モデルとは異なる、解釈可能な人工知能アーキテクチャへの応用が期待される。実際に市場の熱狂は先行しており、インテル社が11億5000万の合成ニューロンを搭載したニューロモルフィックシステムHala Pointを発表したほか、Unconventional AIというスタートアップ企業が生物由来のアナログ計算技術を掲げて4億7500万ドルの資金調達を行うなど、莫大な資本がこの領域に流入し始めている。
「脳のアップロード」というナラティブに潜む生命の複雑性
Eon Systems社によるデモンストレーションは技術的な到達点として高く評価されるべき事象であるが、スタートアップ企業が好んで用いる「世界初の脳のアップロード」という宣言に対しては、科学的な観点から冷静に見極める必要がある。今回のシミュレーションが描き出したデジタルハエは、生きている生命の完全な再現には程遠い状態にある。コネクトームという配線図とLIFモデルによる発火シミュレーションが捉えきれていない、生物学的な動的要素が数多く抜け落ちているからだ。
デジタルのハエは、生物学的な意味での空腹や渇きを感じることはない。交尾期や産卵期といった内部状態の概念が存在しないため、同じ刺激に対しても常に同じ機械的な反応を返す仕様となっている。実際の脳では、ドーパミンや各種神経ペプチドといった神経修飾物質が細胞外に放出され、シナプス接続の物理的な配線に縛られずに広範な回路の挙動を劇的に書き換えるが、現在のモデルはこれらを十分に模倣できていない。
生命の脳は経験によってシナプスの繋がりを継続的に変化させ、常に自己の配線を更新し続けている。デジタルハエの配線図は固定されたままであり、過去の経験から学習して行動を変容させるシナプス可塑性を持ち合わせていない。化学的なシナプス伝達に加え、電気的に直接信号をやり取りするギャップ結合や、情報処理に重要な役割を果たしていることが近年明らかになりつつあるグリア細胞の存在も、現在のモデルの計算対象からは除外されている。
これらの欠落が行動予測に与える影響は決定的に大きい。1986年に完全なコネクトームが判明したC. elegans(線虫)というわずか302個のニューロンしか持たない生物でさえ、40年近く経った現在でも、配線図だけからその行動を完全に予測し再現することには成功していない。神経科学者のEve Marderが指摘するように、配線をマッピングすることは不可欠な始まりであって、最終的な到達点ではない。コネクトームは都市の道路網の地図のようなものであり、道がどこにあるかは教えてくれるが、交通渋滞の状況や気象条件といった、システムが時間とともにどう動的に変化するかという現実を教えてはくれないのである。
マウス全脳への野心と立ちはだかるスケールの壁
Eon Systems社は今回の成果を踏まえ、わずか2年以内に約7,000万個のニューロンを持つマウスの脳の完全なエミュレーションを完成させるという野心的な目標を掲げ、将来的な人間の脳へのスケーリングへの布石と位置付けている。このタイムラインは科学的推測というよりは、資金調達に向けたスタートアップ特有の楽観的なマイルストーンとして捉えるのが妥当であろう。
マウスの脳のニューロン数はハエの約560倍に及ぶ。2025年4月の時点で科学者たちがマッピングできたマウスの脳は、全体のわずか0.2パーセント(約1立方ミリメートル)に過ぎない。このごく一部をマッピングするためだけに、22の研究機関から150人の科学者が参加し、9年の歳月を費やして1.6ペタバイトのストレージを消費している。マウスのニューロンはハエのそれよりも格段に複雑であり、1つのニューロンの校正に40時間以上かかる事例も報告されている。全脳のコネクトーム解析には500ペタバイトものデータが必要となり、人間による校正作業だけで70億ドルから210億ドルのコストがかかると推計されており、現在の技術と速度では到底2年で達成できる規模ではない。
巨大な脳シミュレーションプロジェクトが直面する困難については、歴史的な教訓が存在する。2013年に欧州連合が10億ユーロの資金を投じて立ち上げたHuman Brain Projectは、当初10年以内に人間の脳全体をシミュレーションするという壮大な目標を掲げていた。その科学的妥当性に多くの神経科学者から批判が殺到し、計画の大幅な軌道修正を余儀なくされた結果、2023年にプロジェクトが終了した時点で、ヒトの脳はおろかマウスの全脳シミュレーションにも到達できなかった。スイスのBlue Brain Projectも同様に、数億ドルの資金を投じてラットの皮質の一部をシミュレーションするにとどまり、2024年後半にプロジェクトを終了している。
最前線でコネクトーム解析に取り組む科学者たちは、この分野のタイムラインに関して極めて慎重な姿勢を崩していない。FlyWireプロジェクトを牽引した研究者の一人は、マウスの全脳コネクトームの完成には10年から15年かかると予測しており、アレン脳科学研究所の専門家に至っては、現在の処理速度ではまだ現実的ではないと明言している。最善の科学を行っている人々が最も慎重に未来を語り、企業を構築する人々が最も確信に満ちて宣言するという非対称性が、この分野の現状を如実に物語っている。
脳型人工知能を巡る国家間競争と未来への視座
コネクトームに基づく脳のエミュレーション技術は、単なる神経科学の探求にとどまらず、国家間の戦略的なテクノロジー競争の舞台へと移行しつつある。欧米のメディアがプリンストン大学やバークレー校の成果に注目する一方で、中国は脳着想型コンピューティングとブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)の分野で強大なエコシステムを静かに構築している。
中国の脳科学プロジェクトは2021年から2025年にかけて約50億元の予算を割り当てており、清華大学が開発したニューロモルフィックチップTianjicはすでに2019年に国際的な注目を集めている。さらに重要な点として、コネクトームと身体シミュレーションの統合において極めて実践的な前進を示した前述のプレプリント(FlyGM)は、中国の大学の研究グループによって発表されたものである。米国におけるBRAIN Initiativeの資金提供が2023年度の6億8000万ドルをピークに減少し、2025年度には3億2100万ドルまで落ち込んでいる状況と対比すると、この分野における地政学的なパワーバランスの変化が明確に読み取れる。
デジタルのハエが仮想空間で餌を探して歩き回る映像は、神経科学とコンピュータサイエンスの融合が生み出した見事な金字塔であり、生物の配線構造が優れた行動予測モデルとなることを世界に証明した。コネクトームから着想を得た人工知能アーキテクチャは、次世代の計算インフラストラクチャを形作る上で極めて重要な意味を持つだろう。
我々は今、意識の完全なデジタル化というSF的幻想と、極めて有望な脳型ハードウェアの幕開けという現実の境界線に立っている。線虫の行動がコネクトームのデータのみから完全に説明できるようになって初めて、ハエのシミュレーションの真価を問い、ハエがデジタル空間で完全に機能したときに初めて、マウスへの展開を現実的な視野に収めるべきである。未来のテクノロジーの行方を見定めるためには、最も声高なマーケティングの宣言ではなく、最も緻密に検証された科学的データに目を向ける姿勢が求められている。
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