神経科学の領域において、研究者たちは長年、あるジレンマに直面してきた。それは、ヒトの脳の複雑さを再現しようとすればするほど、動物実験や動物由来の材料に依存せざるを得ないという現実である。シャーレの上で脳細胞を培養する際、細胞が足場として認識し接着するためには、ラットの腫瘍などから抽出された「細胞外マトリックス(ECM)」や、ラミニン、フィブリンといった動物性タンパク質のコーティングが不可欠であったからだ。
しかし、カリフォルニア大学リバーサイド校(UCR: University of California, Riverside)の研究チームが発表した画期的な成果は、この常識を過去のものにする可能性を秘めている。
2025年、UCRのIman Noshadi准教授率いる研究チームは、動物由来の成分を一切使用しない、完全に合成された材料のみで機能的なヒト脳組織様構造を構築することに世界で初めて成功した。
「BIPORES(Bijel-Integrated PORous Engineered System)」と名付けられたこの新しいプラットフォームは、これまで不可能とされてきた「化学的に不活性なポリマー上での細胞接着」を物理構造の制御のみで実現し、さらには神経細胞の成熟とシナプス形成までも促進することが確認されたのだ。
既存の壁:なぜ「合成材料」で脳は作れなかったのか
この発見の凄みを理解するためには、まず従来の研究が抱えていたボトルネックを理解する必要がある。
動物由来コーティングの不確実性
従来の脳組織モデル(オルガノイドや3D培養)では、細胞を接着させるために生物学的コーティングが必須であった。しかし、動物(主にマウスやラット)から抽出されるこれらの物質は、ロットごとに成分のバラつき(バッチ間差)が生じやすい。
- 再現性の欠如: コーティングの成分が一定でないため、薬効テストの結果が「薬の効果」なのか「足場の違い」なのかを判別することが困難になる。
- 種の壁: ヒトの細胞を齧歯類(げっしるい)由来のタンパク質上で育てることは、厳密にはヒトの生体内環境(In Vivo)を再現しているとは言えず、生理学的な差異が生じるリスクがある。
合成ポリマーの限界
一方で、成分が明確な合成ポリマー(プラスチックやゲルなど)を使用する試みもあった。特にポリエチレングリコール(PEG)は、化学的に中性であり、薬物の吸収や干渉を起こさないため理想的な材料とされる。しかし、PEGには致命的な欠点があった。
- 細胞が滑る: PEGは細胞にとって「テフロン」のようなものであり、細胞接着に必要な足がかり(接着リガンド)を持たないため、細胞は定着できずに死滅してしまう。
UCRの研究チームが成し遂げたのは、この「ツルツル滑るはずのPEG」を、化学的な添加物を加えることなく、物理的な形状(トポグラフィー)の工夫だけで「細胞が喜んで住み着く家」に変えた点にある。
革新技術「BIPORES」:カオスを制御する物理学
研究チームが開発したシステムBIPORES(Bijel-Integrated PORous Engineered System)は、材料科学における最先端の概念「Bijel(バイジェル)」を応用している。
Bijel(二連続界面ジャミングエマルジョンゲル)とは何か
通常、水と油(ここではPEG前駆体)を混ぜると、時間の経過とともに分離してしまう。しかし、この分離しようとする瞬間の界面にナノ粒子を密集(ジャミング)させ、構造を固定化する技術がBijelである。
これにより、水相と油相が互いに入り組んだまま固まった、「ジャングルジム」や「迷路」のような連続した多孔質構造(Bicontinuous Structure)が生まれる。
STrIPS法による微細構造の制御
論文によると、研究チームはSTrIPS(Solvent Transfer-Induced Phase Separation:溶媒移動誘起相分離)と呼ばれる手法をマイクロ流路デバイスと組み合わせることで、この構造形成を精密に制御した。
- 3成分の混合: PEGDA(ポリマー)、エタノール(溶媒)、水(シリカナノ粒子を含む)を混合する。
- 相分離の誘発: この混合液をマイクロ流路から吐出させ、周囲の水流と接触させる。すると、エタノールが急速に抜け出し、代わりに水が入り込むことで相分離が始まる。
- ナノ粒子のジャミング: 界面活性剤(CTAB)で修飾されたシリカナノ粒子(SiNPs)が、形成されつつあるポリマーと水の界面に殺到し、構造が崩れる前に「壁」となって固定する。
- UV光による凍結: 最後に紫外線を照射してPEGDAを硬化させ、構造を永久的にロックする。
このプロセスにより、数マイクロメートル単位の微細な穴が無数に連結した、スポンジ状の繊維が生成される。
「負のガウス曲率」が細胞を導く
ここで最も重要な科学的発見は、BIPORESが持つ「負のガウス曲率(Negative Gaussian Curvature)」、すなわち「鞍(サドル)」のような形状の連続体であるという点だ。
論文中のデータによれば、神経幹細胞はこの独特な曲面構造を認識し、わずか30秒以内に足場に接着したことが示されている。これは、コーティングなしのPEG素材としては驚異的な速度だ。
- 細胞のメカノセンシング: 細胞は物理的な「凹凸」や「曲率」を感知する能力(メカノセンシング)を持つ。BIPORESの複雑な3次元曲面は、細胞核を変形させ、焦点接着(Focal Adhesion)を促進するシグナルを送ることが判明した。つまり、化学物質ではなく「形状」そのものが、細胞に「ここに定着して成長せよ」という命令を与えているのである。
実証された成果:本物の脳に迫る機能性
生成されたBIPORES足場(直径約2mm)上で、ヒトiPS細胞由来の神経幹細胞(i-HNSCs)を培養した結果、以下の顕著な成果が得られた。
驚異的な接着と成長
- データ: 培養14日目までに、BIPORES上の細胞密度は5619 ± 288 cells/mm²に達し、従来の対照群(4118 ± 115 cells/mm²)を有意に上回った(p < 0.01)。
- 細胞は足場の表面だけでなく、多孔質の内部深くまで浸透し、3次元的なネットワークを構築した。これは栄養素や酸素が内部まで効率的に循環していることを証明している。
神経細胞への分化とネットワーク形成
- 細胞は神経細胞(ニューロン)とアストロサイト(グリア細胞)に分化し、本物の脳組織に近い比率で共存した。
- 特に注目すべきは、アストロサイトが足場の繊維に沿って整列・伸長した点である。これは生体内で見られる「グリアガイド」のような役割を、合成足場が果たしていることを示唆する。
「生きている」証拠:カルシウムイメージング
構造だけでなく、機能面でも本物に近づいていることが確認された。カルシウムイメージング解析により、培養されたニューロンが自発的な電気信号(カルシウムトランジェント)を発していることが観測された。
- 活動頻度: BIPORES上で培養されたニューロンは、平坦な培養皿上の細胞と比較して、より高い頻度と強度で信号を発火させていた。これは、3次元構造がシナプスの成熟を加速させたことを意味する。
創薬プロセスと再生医療のパラダイムシフト
この研究成果は、単なる「新しい培養皿の発明」ではない。創薬プロセスと再生医療のあり方を根底から変える可能性を秘めている。
動物実験代替法としてのFDA基準への適合
米国食品医薬品局(FDA)は近年、新薬開発における動物実験の義務化を撤廃する動き(FDA Modernization Act 2.0)を見せている。しかし、それに代わる信頼性の高いヒト組織モデルが必要とされていた。
BIPORESは「成分が完全に定義された(Chemically Defined)」合成物質であるため、動物実験を代替するゴールドスタンダードになり得る。バッチ間差のない安定した足場は、アルツハイマー病などの神経変性疾患に対する新薬スクリーニングの精度を飛躍的に向上させるだろう。
臓器間ネットワーク(Multi-Organ Systems)への拡張
現在、UCRのチームは脳組織だけでなく、この技術を肝臓組織へ応用する研究も進めている。
Iman Noshadi准教授は、「相互接続されたシステム」の構築を目指していると語る。例えば、ある薬を投与した際、肝臓で代謝された物質が脳にどのような影響を与えるか(血液脳関門の通過や神経毒性など)を、一つのチップ上で再現することが可能になる。これは「Human-on-a-Chip」技術の核心部分となる。
スケールアップへの挑戦
現在のBIPORESスキャフォールドは直径約2mm程度だが、研究チームはすでにスケールアップに取り組んでいる。論文では、マイクロ流路とバイオプリンティングを統合することで、ミリメートルスケールの繊維を積み重ね、より大きなマクロ構造体を構築できることが実証されている。これにより、外傷性脳損傷(TBI)の患部に直接移植するパッチの開発なども視野に入る。
BIPORESが描く「脳のデジタルツイン」への道
カリフォルニア大学リバーサイド校が開発したBIPORESは、生体材料工学における「化学的模倣」から「物理的模倣」への転換点を示している。動物のタンパク質に頼らずとも、物理学と数学(トポロジー)の力で細胞を制御できることを証明したのだ。
この技術は、倫理的な問題をクリアしながら、人間の脳の複雑な機能を実験室で再現することを可能にする。それは、未知の副作用におびえることなく新薬を開発できる未来や、患者自身の細胞を使って最適な治療法を見つけるオーダーメイド医療の実現を、我々のすぐ手の届くところまで引き寄せたと言えるだろう。
論文
- Advanced Functional Materials: Bicontinuous Microarchitected Scaffolds Provide Topographic Cues That Govern Neuronal Behavior and Maturation
参考文献
- University of California, Riverside: Scientists engineer first fully synthetic brain tissue model