量子コンピュータが秘める無限の可能性。その前に立ちはだかる巨大な壁、それが「エラー」だ。この根源的な問題を解決するため、Microsoftが用いたのは、我々の直感を揺さぶる「4次元」という概念だった。同社は2025年6月19日、高次元の幾何学を応用した新しいエラー訂正符号を発表。これにより、計算エラーを最大1,000分の1にまで劇的に削減し、実用的な量子コンピュータの実現を数年単位で早める可能性があると主張している。これが事実ならば、量子コンピューティングが「実験物理学」から「実用計算科学」へと移行する、歴史的な転換点となるかもしれない。
なぜエラー訂正が重要なのか?量子ビットの宿命
古典的なコンピュータもエラーを起こすが、その対策は比較的単純だ。情報を複数コピーし、多数決で正しい値を判断すれば良い。しかし、量子コンピュータの基本単位である「量子ビット(qubit)」は、この常識を覆す。
量子力学の根幹をなす「観測問題」と「複製不可能定理」により、量子ビットの状態を正確にコピーすることは原理的に不可能だ。さらに、外部のわずかなノイズ(熱、電磁波、振動など)に触れただけで、あるいは測定しようとしただけで、その繊細な量子の重ね合わせ状態は「崩壊」し、情報が失われてしまう。
現在の最高性能の量子コンピュータでさえ、エラー率は1,000回から10,000回の演算に1回程度(10⁻³~10⁻⁴)。一方、古典コンピュータのエラー率は1017回に1回以下。この絶望的ともいえる差が、量子コンピュータが真の力を発揮するのを阻んできた最大の要因だ。
この問題を解決するのが「量子エラー訂正」であり、論理的に安定した「論理量子ビット」を、多数の不安定な「物理量子ビット」から作り出す技術だ。これまで主流だった「表面符号(surface code)」などの手法は、1つの論理量子ビットを作るために1,000個以上の物理量子ビットを必要とするとされ、その膨大なリソース要求が実用化への大きな足かせとなっていた。
4次元という「魔法」:空間を超える数学的トリック
Microsoftのブレークスルーの核心は、このリソース問題を根本から覆す可能性を秘めている。彼らは、エラー訂正符号を、我々が住む3次元空間を超えた「4次元」の数学的構造上で設計した。
もちろん、物理的に4次元空間のコンピュータを作ったわけではない。これは、量子ビット間の関係性を記述するための、純粋に数学的なモデルだ。なぜ4次元なのか?身近な例で考えてみよう。
机という2次元の平面に荷物を並べるよりも、高さという3次元の次元を利用して棚や箱に詰め込む方が、同じ面積でも遥かに多くの荷物を効率的に収納できる。これと同じように、数学的な次元を上げることで、より少ない物理量子ビット(空間)を使って、同じ量の論理情報(荷物)を、より堅牢に(安全に)保護することが可能になるのだ。
「回転」がもたらす驚異の効率化
Microsoftの研究チームは、この高次元空間の利点を最大限に引き出すため、論文で「回転(rotation)」と表現される手法を導入した。これは、4次元格子を定義する基底ベクトル(行列で表現される)を最適化し、いわば荷物の「詰め方」を工夫するようなものだ。
この「回転」により、エラー訂正能力を示す「コード距離」を維持したまま、符号の体積、すなわち必要な物理量子ビットの数を劇的に削減することに成功した。Microsoftの公式ブログによれば、この最適化により、物理量子ビットの数を従来比で5分の1にまで削減できるという。
さらに、この4D幾何学符号は「単発(single-shot)エラー訂正」という強力な特性を持つ。従来の表面符号では、エラーを特定するために何度も測定を繰り返す必要があった。しかしこの新しい符号は、設計の巧みさにより、一度の測定サイクルでエラーの種類と位置を特定できる。これは、複雑な機械の故障診断を、何度も分解・再組立てすることなく、一度のX線スキャンで完了させるようなものだ。これにより、計算速度が向上し、訂正プロセス中に追加のエラーが発生するリスクも低減される。
1,000倍の改善:具体的な成果とハードウェアとの連携
この理論的な優位性は、具体的な数値となって現れている。Microsoftは、物理エラー率が0.1%(10⁻³)のハードウェアに対し、この4D符号を適用することで、論理エラー率を0.0001%(10⁻⁶)まで、実に1,000倍も改善できるとシミュレーションで示した。
このソフトウェア(符号理論)の進歩は、ハードウェアの進歩と見事に共鳴している。Microsoftが協業するAtom Computing社が開発した「中性原子」型量子コンピュータは、この4D符号と特に相性が良い。
中性原子は電荷を持たないため高密度に配置でき、レーザー光(光ピンセット)で自在に動かせるため、どの量子ビット間でも演算が可能な「全結合性(all-to-all connectivity)」を持つ。これは、2次元格子状に量子ビットが固定される多くの他方式と異なり、4D符号が要求する複雑な結合関係を効率的に実装できることを意味する。
Microsoftは、この強力な符号とAtom Computingのハードウェアを組み合わせることで、近い将来に50論理量子ビットを実現し、最終的には数千規模までスケールアップするロードマップを描いている。具体的には、「Hadamardコード」と呼ばれる構成を用いれば、わずか2,000物理量子ビットで54論理量子ビットを実現できる可能性も示唆されている。これは、量子コンピュータが「おもちゃ」の領域を脱し、実用的な問題解決ツールとなるための、現実的な道筋と言えるだろう。
IBMとの競争、そして量子業界の未来
奇しくも、この発表のわずか一週間前には、競合であるIBMもエラー訂正に関する画期的な進歩を発表し、「2029年までに実用的な量子コンピュータを構築する」と宣言している。
両社の アプローチには興味深い対比が見られる。IBMが自社の超伝導ハードウェアに最適化した手法をトップダウンで開発しているのに対し、Microsoftのアプローチは、より汎用性の高い符号理論をボトムアップで構築し、中性原子など様々なハードウェアへの適用を視野に入れている。
これは、量子コンピュータ実現への道筋が一つではないことを明確に示している。シリコンバレーで繰り広げられたPCやAIの覇権争いと同様に、健全な技術競争が業界全体の進歩を加速させることは間違いない。重要なのは、どちらが勝つかではなく、この競争の先に「量子優位性(Quantum Advantage)」が待っているという期待感そのものだ。
残された課題と未来への展望
もちろん、今回の発表がゴールではない。論文では「スライシング」や「手術(surgery)」といった、高次元の符号を切り貼りして論理演算を行う、まるで“量子折り紙”のような高度な技術も提案されているが、これらを物理的にどこまで効率良く実装できるかは今後の大きな課題だ。
また、理論上の性能を実機で大規模に再現し、実際の量子アルゴリズムを実行してその有効性を証明する必要がある。
しかし、今回のブレークスルーが持つ意味は大きい。それは、量子コンピューティング最大のボトルネックであったエラー訂正のオーバーヘッドを、力技(物理量子ビットの数を増やす)ではなく、知性(優れた数学的理論)によって克服できる可能性を示したことだ。
我々が量子コンピュータの越えがたい「壁」だと思っていたものは、実は巧妙に隠された「扉」だったのかもしれない。Microsoftが示した4次元への地図は、その扉を開き、量子コンピューティングが真に世界を変える時代へと我々を導く、最初の一歩となる可能性を秘めている。
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