IBMは2025年6月10日、量子コンピューティングの歴史における新たな一里塚となる計画を発表した。2029年までに、世界初となる大規模な「フォールトトレラント(耐障害性)」量子コンピュータ「IBM Quantum Starling」を構築するというのだ。この野心的な宣言の背景には、長年この分野の最大の壁とされてきた「エラー訂正」問題における、同社の根本的なブレークスルーがある。これは、量子コンピュータが研究室の実験装置から、現実世界の問題を解決する実用的なツールへと進化する、その明確な道筋が初めて示されたことを意味する、まさに歴史的な出来事と言えるだろう。
IBMが描く量子コンピューティングの未来図:2029年、Starling登場へ
「我々は、量子コンピューティングの次なるフロンティアを切り拓いています」。IBMの会長兼CEOであるArvind Krishna氏は、声明で力強く語った。今回の発表の核心は、ニューヨーク州ポキプシーにあるIBMの歴史的な施設に建設される、新世代の量子コンピュータ「Starling」だ。

Starlingは、単に量子ビットの数を増やしただけのものではない。その最大の特徴は「フォールトトレラント」、つまり計算中に発生するエラーを自ら検出し、訂正しながら計算を続行できる能力にある。
提示されたスペックは驚異的だ。
- 論理量子ビット: 200個
- ゲート操作回数: 1億回
これは、現在の最先端量子コンピュータが実行できる演算回数を、実に20,000倍も上回る性能である。Starlingが持つ量子状態の複雑さを古典コンピュータで表現しようとすれば、世界で最も強力なスーパーコンピュータを1京(10の48乗)台以上集めても、そのメモリは足りないとされる。
このStarlingの登場は、量子コンピュータがこれまでアクセスできなかった、はるかに複雑な問題領域への扉を開くことを意味する。そしてIBMは、このStarlingを土台とし、2033年にはさらに高性能な「Blue Jay」(2,000論理量子ビット、10億ゲート操作)の実現を見据えている。

建設地に選ばれたポキプシーは、IBM初の商用コンピュータ「701」や、コンピュータの歴史を変えた「System/360」メインフレームが生まれた場所でもある。IBMがこの地で次世代のコンピューティング革命を推し進めることは、その歴史的な連続性からも象徴的と言えるだろう。
なぜ「今」なのか?量子コンピュータ最大の壁「エラー訂正」の突破
今回のIBMの大胆な発表は、単なる未来予想図ではない。その根底には、量子コンピューティングにおける長年の課題、すなわち「エラー」との戦いにおける決定的な勝利がある。IBMフェローであり、量子部門のバイスプレジデントでもあるJay Gambetta氏は、「我々はエラー訂正の暗号を解読した。もはや大規模量子コンピュータの構築は、科学の問題ではなく、工学の問題になった」と語る。この自信はどこから来るのだろうか。
物理量子ビット vs. 論理量子ビット:ノイズとの戦い
量子コンピュータの基本素子である「量子ビット(qubit)」は、その量子力学的な性質ゆえに、非常に繊細で外部からのノイズに弱い。この「ノイズ」が原因で、計算中に情報の「0」と「1」が意図せず反転したり、量子状態が壊れたりする「エラー」が頻繁に発生する。これが、量子コンピュータが大規模で複雑な計算を実行する上での最大の障害となってきた。
この問題を解決するのが「量子エラー訂正(QEC)」という考え方だ。これは、壊れやすい「物理量子ビット」を複数束ねて冗長性を持たせることで、エラーに強い1つの安定した「論理量子ビット」を作り出す技術である。例えるなら、壊れやすいガラス玉(物理量子ビット)をたくさん使って、頑丈な鉄球(論理量子ビット)を一つ作り上げるようなものだ。この論理量子ビットこそが、実用的な計算を行うための真の構成要素となる。
従来の「表面符号」の限界と、IBMのパラダイムシフト
これまでエラー訂正の主流とされてきたのは「表面符号(surface code)」と呼ばれる方式だった。この方式は2次元平面上に量子ビットを配置でき、実装が比較的容易なため広く研究されてきた。しかし、表面符号には致命的な欠点があった。それは、1つの論理量子ビットを作るために、約1,000個もの物理量子ビットが必要となる、その圧倒的な非効率性だ。Gambetta氏が「技術的な夢物語」と表現したように、このままでは数千の論理量子ビットを必要とするような実用的な量子コンピュータの実現は、非現実的な数の物理量子ビットを必要とし、まさに夢のまた夢だった。
救世主「qLDPCコード」登場:90%のオーバーヘッド削減という衝撃
この状況を打開したのが、IBMが2024年3月に科学雑誌『Nature』の表紙で発表した、画期的なエラー訂正符号「qLDPC(量子低密度パリティチェック)コード」である。
qLDPCコードは、表面符号と比較して、論理量子ビットの構築に必要な物理量子ビットの数を約1/10に削減する。これは、エラー訂正に要する「オーバーヘッド」を約90%も削減できることを意味し、量子コンピュータの設計思想を根本から覆すブレークスルーだ。
IBMが今回詳細を明らかにしたのは、「bivariate bicycle code」と呼ばれるqLDPCコードの一種を用いたアーキテクチャである。このコードは、隣接する量子ビットだけでなく、チップ上の離れた量子ビット同士を接続する「長距離結合」を必要とするが、この複雑な配線こそが、劇的な効率化の鍵となっている。

「科学」から「工学」へ:Starling実現に向けた具体的なロードマップ
「科学の問題は解決した」というIBMの宣言は、Starling実現に向けた極めて詳細かつ具体的なロードマップによって裏付けられている。同社は、基礎技術を開発する「イノベーション・ロードマップ」と、ユーザー向けの性能向上を目指す「開発ロードマップ」という2つの系統で、量子コンピュータ開発を加速させる。
新アーキテクチャの心臓部:チップ設計の根本的変革
qLDPCコードを実装するため、IBMはプロセッサの設計を根本から見直した。
- 重ヘックス格子からスクエア格子へ: 従来のプロセッサで採用されてきた「重ヘックス(heavy hex)」格子は、量子ビット間の不要な干渉(クロストーク)を抑えるのに有効だったが、qLDPCコードには不向きだった。IBMはクロストークをほぼゼロに抑える技術を開発し、qLDPCコードに最適化された「スクエア(正方)格子」へと移行する。
- 長距離結合の実現: 新しいチップアーキテクチャでは、チップ内の離れた量子ビットを結ぶ「c-coupler」や、複数のプロセッサチップ間を物理的に接続する「L-coupler」といった新技術が導入される。これにより、これまで不可能だったモジュール式のスケーラブルな量子コンピュータの構築が可能になる。
2つの開発ライン:実用化への二正面作戦
この新技術は、2つの開発ラインを通じて段階的に実現されていく。
1. イノベーション・ロードマップ(Starlingへの道)

このロードマップは、フォールトトレラント量子コンピュータの基盤技術を確立するためのものだ。
- Loon (2025年): c-couplerを搭載し、qLDPCコードの基本要素をテストする。
- Kookaburra (2026年): qLDPCコードによる論理量子ビットを初めて実装するプロセッサモジュール。量子メモリと論理演算を組み合わせた、スケーラブルなシステムの基本構成単位となる。
- Cockatoo (2027年): 2つのKookaburraモジュールをL-couplerで接続し、マルチチップ化を実証する。
これらの技術開発の集大成が、2029年の「Starling」となる。
2. 開発ロードマップ(量子優位性への道)

こちらは、今日のユーザーがより複雑な問題を解くための、実用性能の向上を目指すラインだ。
- Nighthawk (2025年後半): 新しいスクエア格子を採用した120量子ビットのプロセッサ。現行のHeronプロセッサと比較して、実効的な回路深度(実行できる計算の複雑さ)が約16倍に向上する。IBMは、このNighthawkが2026年までに「量子優位性」を実証する最初のプラットフォームになると見ている。将来的には9つのNighthawkをリンクさせ、1,000物理量子ビットを超えるシステムも計画されている。
忘れてはならない縁の下の力持ち:リアルタイムデコーダー「Relay-BP」
エラー訂正は、エラーを符号化するだけでは不十分だ。計算中に発生するエラーの兆候(シンドローム・データ)をリアルタイムで解読(デコード)し、どのエラーがどこで発生したかを特定して修正しなければならない。このデコード処理が間に合わなければ、エラーは次々と蓄積し、計算は破綻してしまう。
IBMは、この課題を解決するために「Relay-BP」と呼ばれる新しいデコーダーを開発した。今回発表されたもう一つの技術論文で詳述されているこのデコーダーは、FPGAやASICといった既存の半導体チップ上で効率的に動作し、リアルタイムでのデコードを可能にする。これにより、Starlingはフォールトトレラントの必須要件である「適応性(Adaptive)」、すなわち計算結果に応じて次の操作を動的に変更する能力を手にすることになる。
Starlingの先にある未来:Blue Jay、そして量子コンピュータが拓く世界
IBMの視線は、Starlingのさらに先を見据えている。2033年に計画されている「Blue Jay」は、2,000論理量子ビットという、Starlingの10倍の規模を誇る。この規模のフォールトトレラント量子コンピュータが実現すれば、社会は真の「量子時代」に突入するだろう。
その応用範囲は計り知れない。
- 創薬・医療: 分子のシミュレーションを正確に行い、これまで不可能だった新薬の開発を加速させる。
- 新材料開発: 高効率な太陽電池やバッテリー、触媒など、持続可能な社会に貢献する新素材を発見する。
- 金融・最適化: 複雑な金融モデルのリスク分析や、物流・サプライチェーンの最適化など、現代社会が抱える大規模な組み合わせ最適化問題を解決する。
ただし、よく話題になる「暗号解読」のようなタスクには、さらに桁違いの論理量子ビットが必要とされ、それはまだBlue Jayの先の未来の話となるだろう。
IBMの発表が持つ真の意味と残された課題
今回のIBMの発表は、量子コンピューティング業界全体にとって、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げるものだ。
パラダイムシフトの宣言:量子ビット数競争からの脱却
これまでの量子コンピュータ開発は、物理量子ビットの数をいかに増やすかという「数」の競争に焦点が当たりがちだった。しかしIBMの発表は、その競争からの明確な脱却を宣言している。重要なのは物理量子ビットの数ではなく、エラーに強く、実際に計算に使える「論理量子ビット」の質と数であり、「機能的な計算ユニット」をいかに構築するかである。これは、業界が初期の探求段階を終え、成熟した工学のフェーズへと移行しつつあることを示す重要なマイルストーンだ。
残された「工学」という巨大な山
「科学は解決した」という言葉は力強いが、残された「工学」の課題が決して容易なものではないことも忘れてはならない。qLDPCコードが必要とする複雑な長距離結合やチップ間接続を、高い忠実度で、かつ大規模に製造することは依然として巨大な挑戦だ。Gartnerのアナリストも、モジュール接続の難しさを指摘している。また、エラー率を目標値まで下げるためには、量子ビットの品質(コヒーレンス時間やゲート忠実度)をさらに1桁以上改善する必要があることもIBM自身が認めている。
競争の行方とエコシステムの重要性
もちろん、このレースのプレイヤーはIBMだけではない。GoogleやQuantinuum(旧Honeywell Quantum SolutionsとCambridge Quantum Computing)、さらには中性原子やフォトニクスといった異なるアプローチを採るスタートアップも、それぞれのロードマップを推し進めている。しかし、IBMが基礎技術として発表したqLDPCコードに関する論文が、わずか1年余りで競合他社からも200回以上引用されているという事実は、IBMの基礎研究が業界全体に大きな影響を与え始めていることを示唆している。
最終的な勝敗を分けるのは、ハードウェアの性能だけではない。開発者がその性能を最大限に引き出すためのソフトウェア、アルゴリズム、そして開発者コミュニティといった「エコシステム」の構築が不可欠だ。IBMがオープンソースの開発キット「Qiskit 2.0」に力を入れているのも、まさにそのためだろう。
今回の発表は、量子コンピュータがSFの世界から、私たちの現実世界へと降りてくる、その確かな足音を感じさせるものだった。2029年のStarling、そして2033年のBlue Jayへ続く道は、決して平坦ではないだろう。しかし、その道の先に、人類がまだ見たことのない景色が広がっていることだけは間違いない。
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