2026年1月のConsumer Electronics Show(CES)で、フィンランドの小規模スタートアップDonut Labは電池業界に激震を走らせた。同社が発表したのは、エネルギー密度400 Wh/kg、充電時間5分以内、サイクル寿命10万回という、現行のリチウムイオン電池の性能を根本から覆す全固体ナトリウムイオン電池の仕様だった。
現在の市販リチウムイオン電池のエネルギー密度は200〜300 Wh/kg程度、サイクル寿命は概ね1,500〜3,000回の範囲にある。Toyotaが15億ドル超を投じ、Samsung SDIが世界最大規模のパイロット生産ラインを稼働させてもなお、2027〜2028年の量産を目標とするのが現状だ。その文脈において、Donut Labの主張は「数年以内ではなく、すでに実現済み」という主張であり、業界関係者の多くが懐疑的な反応を示した。
CEOのMarko Lehtimäki氏は、大手電池メーカーからの批判に対し「何十年もかけて勝てなかった者が否定するのは当然だ」と反論し、自社の技術が既存勢力の脅威になっていると主張した。この姿勢は一部のメディアで注目を集め、Donut Labは「アウトサイダーが業界を変えた」という物語とともに拡散した。
しかし、発表の時点で特許文書も学術論文も実機デモも示されなかった。公開されたのは写真と動画、そして口頭の主張のみだった。それでもDonut Labが注目を集められた背景には、「既存勢力への挑戦者」という物語の強さと、全固体電池に対する業界全体の期待感の高まりがあった。技術的懐疑より物語への共感が先行するメディア環境が、初期段階の検証を遅らせた。
第三者テスト「VTT」データが示していたもの
Donut Labは2026年2月、フィンランド国立技術研究センター(VTT)による独立テストの結果を順次公開すると発表した。自社サイト「idonutbelieve.com」も立ち上げ、透明性をアピールした。
だがVTTが実施した5回のテストのうち、どれ一つとしてDonut Labが主張する「400 Wh/kgのエネルギー密度」と「10万サイクルの寿命」を直接検証するものではなかった。VTTはあくまで依頼されたテスト範囲内でしか評価を行えない独立機関であり、テスト設計そのものを決定する権限を持たない。つまり問題の本質は「VTTが何を検証しなかったか」ではなく、「Donut Labが核心的な性能主張を第三者に検証させるテスト設計を意図的に回避した」という点にある。この事実は当時から指摘されていたが、同社はテストが進行中であるとして説明を回避し続けた。
その間、Nordic Nano元最高営業責任者(CCO)のLauri Peltola氏が内部告発を行い、電池スペックが一度も達成されたことがないと申告した。さらに、量産車両(Verge MotorcyclesのTS Pro)への搭載を2026年第1四半期中に完了すると公表していたにもかかわらず、期末に発表されたのは「社内フリート向けの第一号機」であり、顧客への引き渡しではなかった。Lehtimäki氏は後のフィンランドメディアとのインタビューで「400 Wh/kgのセルはまだ顧客に届けていない」と認めている。
20名超の専門家が下した「リチウムイオン電池」判定
決定的な証拠をまとめたのは、バッテリー研究家として知られるサイエンス系YouTuberのZiroth氏だ。同氏は20名を超える独立した電池専門家に協力を依頼し、VTTのテストデータを精査した。
参加した専門家には、Fraunhofer研究所のJulian Zanau氏、Justus-Liebig大学のYahim San博士、Leona社のTom Bicha氏、Seinäjoki応用科学大学のYuo Hesca博士が含まれる。全員が同じ結論を下した:テストされたセルはリチウムイオン電池である。
証拠は二本の柱から成る。一つ目は電圧カーブだ。VTTのテストデータにおいて、セルは充電状態50%の時点で3.7〜3.8ボルトを示している。この数値は高ニッケル型リチウムイオン(NCM系)の特性と完全に一致する。一般的なナトリウムイオン電池は、50%SOCの時点で3.5ボルトを大きく超えることがない。
二つ目の証拠はさらに決定的だ。充放電時のセル膨張データに、グラファイト負極特有の「キンク(屈曲点)」が確認された。これは充電状態50〜70%付近でリチウムイオンがグラファイトの層状構造内で再配列される際に生じる現象だ。ナトリウムイオンは物理的にグラファイトの層間に入れないため、このキンクの存在はセルがリチウムイオンを使用していることを科学的に証明する。
Ziroth氏はこの状況を「少しノイズが乗った指紋と容疑者の顔写真がある状態。それでも一致している」と表現した。実測されたエネルギー密度は約298 Wh/kg——良質なリチウムイオン電池の水準であり、主張された400 Wh/kgとは大きくかけ離れている。
CT Coatings:技術の源泉と企業の連鎖
調査は電池技術の出所にも迫っている。Donut Labの技術は、ドイツのCT Coatingsという企業に辿り着く。同社の特許ポートフォリオは多岐にわたり、スクリーン印刷による舗装スラブ、メニューフォルダー、警告三角板などが含まれる「折衷的」な内容だ。
CT CoatingsはNordic NanoとDonut Labに対してスクリーン印刷技術を用いたナトリウムイオン固体電池を提供すると約束した。Nordic Nanoはその製造パートナーとして機能する予定だったが、同社は実際には一個の電池セルも製造したことがない。
FraunhoferのJulian Zanau氏はCT Coatingsの担当者との面会を振り返り「彼らはリチウムが希少金属とは関係がないことを知らなかった。電池の基礎的な化学知識が欠如していた」と述べている。それにもかかわらずDonut Labは外部の専門機関ではなく自社内部でデューデリジェンスを完結させ、CT Coatingsから400 Wh/kgのスペックを証明するデータが提供されなかったことが後にリークされたメールで明らかになっている。
1,300人超の小口投資家が背負ったリスク
このケースで特に問題となるのは資金調達の構造だ。Donut Labの株主数は1,300人を超え、そのうち900人以上は50株以下の小口保有者——推定で一人当たり3,000〜23,000ドル程度の出資に相当する。多くはフィンランドのクラウドファンディングプラットフォーム「Springvest」を通じて2023年にVerge Motorcyclesに出資した個人だ。
Vergeが経営再編されDonut Labがスピンオフした際、企業評価額は「奇跡の電池」を根拠に急騰した。CES発表後の企業価値は12.5億ドルと評価され、Lehtimäki氏は投資家への書簡で「12〜18ヶ月で最大10倍のリターン」を約束していた。
VTTは当初から財務情報のほぼすべてが欠落した状態で監査を完了できない状態にあり、親会社Verge Motorcyclesの財務健全性も深刻な疑問符がついていた。技術的なデューデリジェンスが困難な個人投資家を対象に、ベンチャーキャピタルが要求するような厳格な審査を回避したうえで資金調達を行ったという構図は、当時から批判の対象となっていた。
Theranos、Nikolaとの比較が示すもの
今回の事案は、かつてのTheranos(体外診断装置の詐称)やNikola(トラックの技術虚偽)との類似性を多くの関係者が指摘する。ただしDonut Labのケースは資金調達の構造において独自の危険性を持つ。
TheranosやNikolaが主にベンチャーキャピタルや大手機関投資家から資金を集めたのに対し、Donut Labの主要投資家の大半は個人の小口投資家だ。リスクを評価する専門的スキルも情報アクセスも限られた層が、退職金や貯蓄を投じた可能性がある。その点で、同様のスケールの金融被害であっても回収手段や社会的影響が異なる。
フィンランド金融当局と刑事当局はすでに本件の調査を開始している。固体電池産業全体への波及という観点からも、この事案の帰結は注視される必要がある。ToyotaやSamsung SDIのような実績ある企業が正規の開発プログラムを進めるなかで、信頼性への損害が実質的な次世代電池技術の普及を遅らせるリスクもある。
固体電池技術そのものへの信頼をどう守るか
Donut Labの問題が業界に与える最も深刻な副作用は、全固体電池技術そのものへの不信感だ。Toyotaは2027〜2028年の全固体電池搭載車量産を目標に150億ドル超を投じており、Samsung SDIは世界最大規模のパイロット生産ラインを稼働させている。これらは技術的根拠と実績に裏打ちされた開発だ。
固体電池がもつエネルギー密度の優位性と熱暴走リスクの低減効果は、科学的根拠を持つ。急速充電への対応という特性についても同様だ。むしろ実現に向けた開発は着実に進んでいる。Donut Labのケースはその技術の詐称であり、技術自体の否定ではない。だが一般投資家やメディアの目には、「固体電池スタートアップへの懐疑」として広く受け取られるリスクがある。
電池業界が次のフェーズに進むためには、技術的な主張に対する独立した検証体制と、クラウドファンディング型の技術系投資への規制強化が避けられない議題として浮上している。フィンランド当局の調査結果と、今後の法的帰結がその議論の起点になるだろう。