Thinking Machines Labは2026年7月15日、初の自社開発汎用モデル「Inkling」をオープンウェイトで公開した。同社はこれまで、外部モデルを調整するTinkerを提供してきた。今回、自社の基盤モデルまで揃ったことで、事業の輪郭が変わる。利用者は完成済みAIを借りる代わりに、Inklingを出発点として自社の判断基準を学ばせ、チェックポイントを持ち出せるようになった。
ただし、公開されたモデルを広く使えるかどうかは別の話である。Inklingは総パラメータ数9750億の巨大モデルであり、量子化版でも合計600GB以上のGPUメモリを求める。ライセンス欄にはApache 2.0とある一方、別の利用規約が用途を制限する。Thinking Machinesが掲げる「組織ごとに異なるAI」は、技術仕様、契約、計算資源の三つを揃えて初めて動き出す。
9750億のMoEに、45兆トークンと3000万回超のRL
Inklingは66層のデコーダー専用Transformerで、総パラメータ数は9750億、各トークンの処理に使うのは410億である。Mixture-of-Experts(MoE)層には256個の選択型エキスパートと2個の共有エキスパートがあり、各トークンを6個の選択型エキスパートへ振り分ける。モデル全体を毎回動かさず、巨大化と計算量の抑制を両立する設計だ。
アテンションにも長文処理を意識した工夫が入った。局所的な範囲を見るスライディングウィンドウ層と、全体を見るグローバル層を5対1の割合で交互に配置し、最大100万トークンのコンテキストに対応する。位置情報には現在広く使われるRoPEではなく相対位置埋め込みを採用した。Thinking Machinesは、長い入力への外挿でこちらが優れたと説明している。
画像は40×40ピクセルのパッチへ分け、4層の階層型MLPで処理する。音声はdMelスペクトログラムへ変換する。両方をそれぞれ軽量な埋め込み層へ通し、テキストと同じデコーダーで処理する仕組みだ。公開モデルが受け取る入力はテキスト、画像、音声で、出力はテキストである。学習には動画も含めた45兆トークンを使った。
事後学習の規模も大きい。初期の教師あり学習にはKimi K2.5などのオープンウェイトモデルが生成した合成データを使い、その後は合成環境と人が作った環境で3000万回を超える強化学習を実施した。推論評価の集約スコアは、教師あり学習直後の0.264から公開版の0.356まで上がったという。公式発表はInklingを同社初の主要な学習プロジェクトと説明しており、NVIDIA GB300 NVL72システム上で学習した。
最高性能より、使う推論量を調整できること
Thinking Machines自身、Inklingが公開・非公開を含めて総合首位ではないと認めている。代わりに、推論に使うトークン量を0.2から0.99まで調整し、用途ごとに精度、待ち時間、費用を選べるようにした。Terminal Bench 2.1では、Nemotron 3 Ultraと同水準に届くまでの生成トークン数を約3分の1に抑えたとしている。
公開された主な評価値を見ると、狙いが分かる。
| 評価 | Inkling | 比較対象の例 |
|---|---|---|
| Humanity's Last Exam(テキストのみ) | 29.7% | GLM 5.2は40.1%、Claude Fable 5は53.3% |
| SWE-Bench Verified | 77.6% | Kimi K2.6は80.2%、DeepSeek V4 Proは80.6% |
| IFBench | 79.8% | GLM 5.2は73.3%、Claude Fable 5は63.5% |
| VoiceBench | 91.4% | Gemini 3.1 Proは94.3% |
難しい知識問題やコーディングでは上位モデルに届かないが、指示追従や音声では競争力がある。もっとも、表を順位表として読むのは危険だ。Inklingは推論量の設定0.99、温度1.0で測られ、コーディング評価の処理過程には最大25万6000トークンを認めている。比較値には外部機関の結果と各社の自己申告が混在し、SWE-Bench Verifiedはbash専用ハーネス、Terminal Bench 2.1は社内ハーネスを使った。
同時に試作版が示されたInkling-Smallも、この方針をよく表す。こちらは2760億パラメータ、実行時120億で、Humanity's Last Examのツール利用では46.6%と大型版の46.0%を上回った。IFBenchも83.4%対79.8%である。一方、SimpleQA Verifiedは20.9%にとどまり、大型版の43.9%から大きく下がる。小型化しても一様に弱くなるわけではないが、得意不得意は変わる。なお、Small版は試験中のプレビューであり、パラメータの公開日は決まっていない。
オープンウェイトでも、手元で動かす壁は高い
InklingのモデルカードとHugging FaceにはApache 2.0と記載され、BF16版とNVIDIA Blackwell向けNVFP4版を取得できる。だが、BF16版を自社運用するには合計2TB以上のGPUメモリが必要だ。公式の構成例はNVIDIA B300を8基、またはH200を16基である。NVFP4版でも600GB以上が必要で、B300を4基使うW4A4構成か、H200を8基使うW4A16構成が示されている。個人のワークステーションで試す規模ではない。
契約面にも注意が要る。Thinking Machinesは、モデルのパラメータ、関連資料、改変版へ適用する「Model Acceptable Use Policy」を別途設け、取得・利用によって同意したものと扱う。同規約は監視、欺瞞、個人の権利を左右する判断の完全自動化などを禁じる。規約は同社が更新でき、利用を続けると更新後の条件へ同意したものとみなされる。
この条件は、Open Source Initiative(OSI)が定めるOpen Source AI Definition 1.0の「あらゆる目的に使い、研究し、変更し、共有できる」という基準とは一致しない。OSIは学習データの詳細な情報と、学習・実行に使った完全なコードも求める。Thinking Machinesが公開した学習データ文書は、公開情報、第三者から取得したデータ、合成データを使ったという一般説明であり、Inkling固有のデータ一覧や完全な学習手順までは含まない。したがってInklingは、オープンソースAIよりもオープンウェイトモデルと呼ぶのが正確である。
Tinkerがつなぐ公開モデルと企業内データ
実行環境の大きさを考えると、多くの開発者にとって現実的な入口はThinking MachinesのTinkerか、提携する推論サービスになる。TinkerではInklingを6万4000トークン版と25万6000トークン版から選び、LoRAで調整できる。現在は期間限定で50%引きが適用されている。Tinkerが分散学習の設備運用を引き受けるため、利用者はデータ、評価方法、強化学習環境の設計に集中できる。作成したチェックポイントはダウンロード可能で、利用者のデータをThinking Machines自身のモデル学習には使わないと明記している。
Inkling公開前の6月、同社はBridgewater AIA Labsとの共同研究で、この事業の先行例を示していた。6種類の金融文書選別タスクで、専門家が指示と分類方法を調整した汎用モデルの最高成績は平均78.2%だった。そこで投資家の評価データを使い、Qwen3-235BをTinkerで調整したところ、平均84.7%へ上がった。誤りは29.8%減り、1タスク当たりの推論費用は13.8分の1になったという。
この実験で使われた基盤モデルはInklingではない。それでも、Thinking Machinesが汎用ランキングより企業固有の評価基準を事業の中心に置く理由は見える。InklingをTinkerの標準モデルに加えたことで、同社は基盤モデルの開発、調整用API、チェックポイントの配布、推論先との連携を一つの流れにまとめた。収益機会はモデルの利用料に加え、反復学習のたびに発生する学習処理へ広がる。
分散型AIを支える1ギガワットの集中投資
企業ごとにAIを変える構想は、計算設備まで小さくする話ではない。Thinking Machinesは3月、NVIDIAの次世代Vera Rubinシステムを少なくとも1ギガワット導入する複数年契約を発表した。稼働目標は2027年初頭で、NVIDIAも同社へ出資している。InklingをGB300 NVL72で学習した同社は、今後のモデルで事前学習、事後学習、強化学習の計算規模をさらに広げるとしている。
同社が分散させようとしているのは、巨大モデルを最初から作る設備ではなく、完成した基盤モデルを組織の知識と判断に合わせて調整する権限である。Inklingは、その構想に自社モデルを組み込んだ最初の製品だ。成否を測るには、2027年初頭のVera Rubin導入と、Tinkerで作られた企業別チェックポイントが実運用へ移る事例を追う必要がある。