英財務省は2026年10月24日、予算発表に先立ち、生物脅威への対策やサイバー防御を含む大規模なAI投資計画を発表した。AI安全保障に関する4事業には合計4億1,500万ポンドを配分する計画で、国内AI産業の育成や人材開発にも別途資金を投じる。10月12日に発表したAIリスク評価やサイバー防御の試験運用を踏まえ、今回は事業ごとの予算と実施主体を具体化した。AIの危険性を評価するだけでなく、実際のサイバー攻撃への防御や、生物脅威に備えたワクチン・治療薬などの開発にも投資する方針だ。
AI安全保障の4事業に4億1,500万ポンドを配分
英財務省が10月24日の発表で「AI Security」として示した4事業の投資額は、合計4億1,500万ポンドに上る。これは独立した4事業の予算を合計したもので、各事業に含まれる個別施策への配分を重複して計上したものではない。
| 事業 | 公表投資額 | 主な目的と予算の内訳 |
|---|---|---|
| 国家AIバイオセキュリティ構想 | 1億6,500万ポンド | 生物脅威への対策。研究所の設立・運営に1億ポンド、監視体制の整備と重点病原体に対する医療上の対抗手段に6,500万ポンド |
| AI Security Institute(AISI)への追加投資 | 1億2,000万ポンド | AIモデルの能力・リスク評価と技術標準の策定 |
| National Cyber Shield | 6,000万ポンド | AIエージェントを活用したサイバー防御と導入支援。2,500万ポンドの競争型基金を含む |
| NERV Centre | 7,000万ポンド | AIツールによるインフラや経済全体の脆弱性の発見 |
| 合計 | 4億1,500万ポンド |
国家AIバイオセキュリティ構想の1億6,500万ポンドには、研究所向けの1億ポンドと、監視体制や医療上の対抗手段に充てる6,500万ポンドが含まれる。同様に、National Cyber Shieldの競争型基金2,500万ポンドも、同事業の6,000万ポンドの内数だ。また、民間企業が提供する計算資源やAIモデルの利用枠は、政府による現金支出とは性質が異なるため、この合計には含めていない。
4億1,500万ポンドは、今回発表されたAI投資計画全体の総額ではなく、AI安全保障に関する4事業の合計額である。 年間予算を意味するものでもなく、各事業の支出期間が同じとは限らない。実際の予算執行額や、すでに整備された防御能力を表す数字でもない点には注意が必要だ。
今回の配分で特徴的なのは、AIの安全保障に関わる課題を複数の領域に分け、それぞれに予算を設けたことだ。生物学的な脅威の予防・検知と対処に加え、AIモデル自体の安全性評価、インフラやシステムの脆弱性の発見、防御技術の導入支援を個別の事業として位置付けている。AIのリスクを把握する段階から、実際の脅威に対処する体制の整備までを対象とする計画だ。
AI Biosecurity Labを新設、OpenAIとAnthropicも計算資源を提供
国家AIバイオセキュリティ構想の中心となるのが、新たに設立される「AI Biosecurity Lab(AIBL)」だ。英国政府による研究所の発表によると、当初は新興の生物脅威を早期に検知し、ワクチンや治療薬などの開発を加速させることに重点を置く。対象はAIを使って生み出された生物脅威に限らず、より広範な公衆衛生上のリスクを含む。政府は、AIが科学研究を進歩させる一方、有害な行為に必要な知識や技術を得るハードルを下げる可能性もあると説明している。
英国政府は研究所に1億ポンドを投じるほか、民間AI企業からも研究に必要な計算資源やモデルへのアクセスの提供を受ける。OpenAIは、1億ポンド相当の計算資源とモデル利用枠を提供するとともに、Rosalind Biodefenseを通じて関連する先端モデルへのアクセスを認める。Anthropicも最大1億ポンド相当のモデル利用枠を提供し、専任の技術支援を行う計画だ。政府は、両社のモデルについて、研究機関との信頼関係を前提とするアクセスを認めるとしているが、具体的な利用条件は公表していない。
ただし、両社による支援は現金の寄付ではない。モデル利用枠とは、企業が保有するAIモデルや計算資源を一定の範囲で利用できる権利であり、その金額は利用可能な資源の価値を表している。また、Anthropicが示した1億ポンド相当という数字には「最大」という条件が付く。政府の研究所予算と企業の利用枠を単純に合算して現金の投資額として扱うと、支援の実態を誤解することになる。
ほかの企業も研究所への協力を表明している。Google DeepMindは研究協力に加え、Geminiや科学研究向けモデルへのアクセス提供を目指すとしているが、すでに利用可能になったという発表ではない。Basecamp Researchは、自社のAIモデルや技術的な能力、専門知識を提供する方針だ。各社の支援内容や提供段階には違いがあり、研究所が実際に利用できる資源の範囲は今後の具体化を待つ必要がある。
AIBLは独立した非営利組織として設立される予定だ。国家AIバイオセキュリティ構想には、英国健康安全保障庁(UKHSA)、動植物衛生庁(APHA)、国防科学技術研究所(Dstl)が関わる。さらに、医薬品・医療製品規制庁(MHRA)とも連携し、健康危機への備えやAIによって設計された医薬品の規制に取り組む計画だ。AIを活用した生物脅威の研究を、公衆衛生や医薬品規制を担う既存の行政機関と結び付ける体制となる。
一方、研究所の具体的な運営体制には未確定の部分が多い。科学諮問委員会の詳細は後日発表するとしており、稼働開始日や所在地、責任者も明らかになっていない。政府予算の年度別配分に加え、企業が提供するモデル利用枠の利用条件や評価額の算定方法も未公表だ。研究に必要な資源を確保するという約束が、実際の研究活動や生物脅威への対処能力にどのようにつながるかは、今後の運用次第となる。
AIのリスク評価からサイバー防御の実装へ
英国政府は10月12日にも、AIを利用したサイバー防御と先端AIモデルのリスク評価に関する施策を発表している。この発表では、2件の試験運用を通じて、政府システムに潜む1,000件超の脆弱性の特定と修正を支援したと説明していた。また、先端AIモデルの評価やAI関連事故への対応方針を示し、法制度の強化も検討するとしている。なお、1,000件超という数字は先行する試験運用についての政府の説明であり、10月24日の投資発表によって新たに修正された脆弱性の数ではない。
今回の発表では、これらの取組に対応する予算と実施主体がより明確になった。特に、AIモデルそのものの評価と、AIを活用したシステムの防御を異なる事業として位置付けている点が重要だ。
AI Security Institute(AISI)は、先端AIモデルがどのような能力やリスクを持つかを評価し、関連する技術標準の策定も担う。一方、NERV Centreは、重要インフラや経済活動を支えるシステムに潜む脆弱性をAIツールで発見する役割を持つ。National Cyber Shieldは、AIエージェントを活用してサイバー防御を強化する事業であり、人間による監督を最小限に抑えながら複雑な防御作業を進める技術の活用を想定している。生物安全保障の分野では、脅威の早期検知に加えて、ワクチンや治療薬などの医療上の対抗手段にも資金を振り向ける。
これらの事業は、対象とするリスクだけでなく、実施する作業も異なる。AIモデルの危険な能力を評価することと、実際のインフラやシステムの弱点を見つけることは別の課題だ。また、脆弱性を発見できても、それを修正し、防御策を現場で運用するには追加の作業が必要になる。英国政府は、こうした評価・発見・防御の各段階に、それぞれ予算を配分しようとしている。
National Cyber Shieldでは、重要インフラや公共部門、産業界へのAI防御技術の導入を後押しするため、「規制のサンドボックス」の設置も検討する。これは、一定の条件や監督の下で新技術を試験的に導入できるようにする制度だ。ただし、現時点では導入を検討している段階であり、制度がすでに始まったわけではない。AIが発見した脆弱性に対して、実際の運用環境でどのように防御策を適用できるかを確かめる仕組みとして位置付けられる。
こうした投資計画の発表直前には、AIによる脆弱性発見の影響をうかがわせる出来事も報じられている。Tech Xploreに掲載されたAFPの報道によると、10月22日にはAIが発見したPHPの重大な脆弱性を受け、政府機関や企業がWebサイトを閉鎖したという。ただし、この出来事が24日の投資計画を直接決定付けたとする根拠は示されていない。
今回の発表からは、英国政府がAIのリスク評価だけでなく、脆弱性の発見から防御策の導入までを重視していることが分かる。しかし、各事業をどのような技術仕様で連携させるのか、発見した脆弱性への対応をどこまで自動化するのかといった具体的な運用方法は明らかになっていない。AIによる脆弱性の自動修正が完成したという発表でもなく、新たな投資によって得られる防御効果も実証された段階にはない。
国内AI産業の育成と海外AIモデルの活用を両立
英国政府は安全保障分野への投資に加え、国内AI産業の競争力を高めるための施策も発表した。Sovereign AI Fundには6,000万ポンドを追加し、ロボット、自律システム、先端製造など、物理環境や産業分野で使われるAI技術への支援を拡大する。さらに、研究開発に関する政府調達に6,000万ポンド、チップ設計アカデミーに1,800万ポンドを配分する計画だ。企業や研究機関への資金供給だけでなく、政府による技術調達と半導体設計人材の育成を組み合わせることで、国内のAI開発基盤を強化する狙いがある。
このほか、AI Challenge Prizeに1,500万ポンド、AI Economics Instituteに3年間で追加2,300万ポンドを投じる。地域のAI関連組織の連携強化にも3,000万ポンドを充てる計画だ。マンチェスターのNCSCセンターでは人材育成を進めるほか、エディンバラにおけるチップ設計への投資も盛り込まれた。これらは前述の安全保障4事業の合計額には含まれないが、国内の研究開発能力や専門人材を育成し、長期的なAI活用を支えるための施策となる。
英国政府は、国内のAI開発能力を高め、海外技術への依存を減らす方針を掲げている。その一方で、AI Biosecurity LabではOpenAIやAnthropicなど海外企業のモデルと計算資源を積極的に活用する。これは必ずしも矛盾するものではない。今回の計画を見る限り、英国が重視しているのは、すべてのAI技術を国内で開発することだけでなく、必要な技術を活用しながら、国内で脅威を評価し、対処できる能力を確保することだと考えられる。
ただし、海外企業のモデルを利用できるようになっただけで、国内のAI安全保障体制が確立するわけではない。今後は、予算の年度別配分が明らかになるか、AI Biosecurity Labの稼働計画とモデル利用条件が具体化するかが重要になる。さらに、AIによって発見した脅威を実際の医療対応やインフラ防御につなげるには、National Cyber Shieldの試験運用や導入条件を含め、各事業の成果を現場で活用するための仕組みが欠かせない。今回の投資計画の成果を判断するうえでは、予算規模だけでなく、各事業がどこまで実用的な防御・対処能力を構築できるかが焦点となる。



