2024年1月6日、中国安徽省合肥市にあるOrigin Quantum Computing Technology(本源量子計算科技)の実験拠点で、第3世代の超伝導量子コンピューター「本源悟空(Origin Wukong)」が稼働を開始した。それから2年余りが経過した2026年9月、中国の科学技術日報(Science and Technology Daily)や環球時報(Global Times)などの国営メディアは、この悟空プロセッサ上で稼働する「量子ルーター」が最大98%の情報伝送効率を達成したと相次いで報じた。
この報道は一部の英語圏メディアを通じて瞬く間に転載され、「大規模な量子メモリを実現する突破口」という文脈で広がった。日常会話においてルーターという言葉を聞くと、長距離の光ファイバー網を往来する光子を中継する通信設備や、拠点を結ぶ量子インターネットの中継器を思い浮かべがちだ。しかし今回の実験が対象としたのは、都市間を結ぶ通信インフラではない。希釈冷凍機の中で絶対零度近くまで冷却された単一のシリコンダイ上で、隣接する量子ビット同士がやり取りする情報を交通整理するオンチップ素子である。
発表の核心は、理論的な難所とされてきたバケツリレー型(bucket-brigade)の量子ランダムアクセスメモリ(QRAM: Quantum Random Access Memory)を構築するための構成要素を、実機上で動作させた点にある。公表された「98%」という数値を額面通りに受け取ることはできない。単体素子の伝送効率、多層化に伴う忠実度の下落、論文の公表時期とメディア宣伝の時差など、数字の文脈を慎重に読み解くべき構造が横たわっている。
データを表で見る
| 実測値 (%) | |
|---|---|
| 単一ルーター伝送効率 | 98 |
| 2層ネットワーク伝送効率 | 93 |
| 単一ルーター忠実度(論文値最大) | 95.74 |
| 単一ルーター忠実度(報道平均値) | 94.8 |
| 2層ネットワーク忠実度(平均) | 82.4 |
グラフに示した通り、単一素子における伝送効率は98%に達するものの、2層ネットワークへの拡張や忠実度(Fidelity)の測定では数値が段階的に低下する。メディアが強調する傑出した数字の背後で、実際の物理系は何を達成し、どこで足踏みしているのか?超伝導チップの内部構造から見ていきたい。
チップ上の交通整理を担う「10量子ビット」の実験系
超伝導プロセッサ「悟空」は、チップ全体として72個の計算用トランズモン(transmon)量子ビットと、126個のトランズモン型カプラー(結合器)を格子状に配置したハードウェアだ。合肥量子コンピューティングエンジニアリング研究センターのチップ研究所に所属するJia Zhilong(賈志龍)の説明によると、結合用素子を含めた物理素子の総数は198個に達する。
今回のルーター実証実験では、この72個の計算用ビットすべてを動かしたわけではない。研究チームはチップの中から選ばれた10個のトランズモン量子ビットを切り出し、局所的な実験系を構築した。システム全体の制御基盤ではなく、チップの特定区画を使った基礎的な素子検証である。
実験の主眼は、バケツリレー型QRAMの最小単位となるコヒーレント量子ルーター(QRouter)の動作確認にあった。QRAMは、古典コンピューターにおけるRAMと同様に、量子ビットで表現されたアドレス情報を入力することで、メモリ内に格納された重ね合わせデータをコヒーレントな状態のまま読み出す機構を指す。グローバーの探索アルゴリズムや量子機械学習(QML)など、大規模データを扱う量子計算の多くは、このQRAMが実用的な速度と忠実度で動作することを前提に設計されている。
従来のQRAM設計では、アドレスビットの数が増えるにつれて回路を構成する量子ゲートの数が指数関数的に増大するという問題があった。量子ビットは環境ノイズに極めて弱く、操作の手順が長くなるほど状態が壊れるデコヒーレンスが発生する。回路の深さをいかに浅く抑え、情報の損失を防ぎながら目的の保存領域へ誘導するか。これが長年の課題だった。
筆頭著者のSheng Zhang(張勝)、共同責任著者のZhao-Yun Chen(陳昭昀)、Peng Duan(段鵬)、Guo-Ping Guo(郭国平)らの研究チームは、中国科学技術大学(USTC)量子情報重点実験室、中国科学院量子情報・量子物理卓越創新センター、合肥総合性国家科学センター人工知能研究院、そしてOrigin Quantumの共同体制でこの課題に取り組んだ。論文の中で著者らは「超伝導量子プロセッサ上でバケツリレー型QRAM向けコヒーレント量子ルーターを実験的に実証した初の事例」と主張している。これは研究チーム自身の主張であり、外部の独立機関によって認定された絶対的な評価ではない。完成したのはQRAMそのものではなく、その配線技術の基礎となるルーターの構成要素である。
クトリットの余剰エネルギー準位を「消しゴム」として使う回路設計
量子ルーターを小型化し、操作エラーを抑え込むために、研究チームは**遷移複合ゲート(TCG: Transition Composite Gate)**と呼ばれる手法を採用した。
通常の量子計算では、量子ビットの基底状態 と励起状態 の2準位のみを用いる。クリフォード群に基づく標準的な論理ゲートの組み合わせでルーターを構築しようとすると、多数の2量子ビットゲートを連結する必要が生じ、回路が深くなってコヒーレンス時間が尽きてしまう。
これに対し研究チームは、トランズモンが本質的に持つ第3のエネルギー準位 を一時的な仲介役として利用した。3つの準位を扱うクトリット(qutrit)の性質を活かし、高次の遷移を経由させることで、従来のゲート分解に比べて回路の深さを大幅に圧縮したのである。
具体的には、アドレス情報を担う制御用クトリット()において、隣接しない状態である と にアドレスをエンコードした。中間準位である をアドレスの割り当てからあらかじめ外しておく設計だ。この配置が、エラーを自動的にあぶり出す**消去エラー(eraser)**の検出機構として働く。
アドレス素子における状態割り当ては、次のように定義されている。基底状態 は左側ルートへの転送を指示し、第二励起状態 は右側ルートへの転送を指示する。その間に位置する第一励起状態 はアドレス用途から完全に除外され、エラー判定専用の中間準位として待機する。
ルーターの動作完了後、もしアドレス素子 が中間状態 で測定された場合、その演算プロセスで漏れ出しや緩和のエラーが発生したと判定できる。この場合、該当するデータを後選択(post-selection)によって破棄する。物理的なエラー訂正用量子ビットを追加することなく、不要な演算結果を排除して忠実度を引き上げる論理的な工夫である。
量子ビット間の結合には、2量子ビット ゲートを採用した。量子ビットとカプラーの周波数を の相互作用点近傍へ精密にチューニングし、フロケ(Floquet)励起シーケンスを用いた実験を通じて波形の最適化を図っている。
さらに、アドレスの初期化や $X$ フリップを行う単一量子ビットゲートには、断熱通過による誘導結合抑制技術であるDRAG(Derivative Reduction by Adiabatic Gate)を適用した。不要な高次準位への漏れ出しを抑えながら、高速な制御パルスを印加するためだ。
ルーターがコヒーレントな重ね合わせを維持しているかを確認するため、研究チームはアドレスの位相 を走査しながら、入力ビット 、制御ビット 、出力先の左ビット および右ビット に対し、3系統並列で 操作を加える干渉実験を実施した。奇数励起状態の占有率が位相 に応じて の明確な振動パターンを描くことを観測し、量子もつれを保持したまま情報が振り分けられている事実を実験的に確かめている。
伝送効率98%と忠実度95%が持つ意味の違い
メディアの見出しを飾った「98%」という数値は、どのように導き出されたのか。報道で混同されがちな指標の定義を整理する必要がある。
論文によると、単一ルーターにおける約98%という伝送効率は、ルーティング操作後に入力量子ビット に残存した励起確率から逆算されたものだ。実験において、入力側の残留確率 は2.05%の閾値以下に抑えられていた。すなわち、入力されたエネルギーの約98%が出力先のビットへ移動したことを意味している。
一方、システム全体の計算精度を示す指標として、著者らは**ランダムアクセステスト(RAT: Random Access Test)**と呼ばれるベンチマークを導入した。これは入力された量子状態のコヒーレンスがどれだけ正確に保持されたかを測る忠実度の指標である。
ここで注意すべきは、伝送効率(エネルギーやポピュレーションが移動した割合)と忠実度(量子力学的な位相情報を含めて正しく再現された割合)は全く別の物理量であるという点だ。さらに、公表されたデータの間には、学術論文の記述と一般メディアの報道との間で微妙な食い違いが存在する。
| 構成および手法 | 伝送効率 | ランダムアクセス忠実度(RAT) | 指標の根拠と性質 | 出典 |
|---|---|---|---|---|
| 単一ルーター(消去エラー抑制適用) | 約98% | 最大95.74% | 入力ビット残留確率 。忠実度は論文要旨の最良値 | Zhang et al. (arXiv:2505.13958) |
| 単一ルーター(国営メディア報道) | 最大98% | 平均94.8% | 3台の独立ルーターにおける測定値の平均値とみられる | Global Times, 人民網 |
| 2層ネットワーク(消去エラー抑制適用) | 93% | 平均82.40%(フィッティング値) | 深度 $N=0$ の実測値は90.02%。深さの増加とともに低下 | Zhang et al. (arXiv:2505.13958) |
| 2層ネットワーク(消去エラー抑制なし) | 非公開 | 平均81.90%(フィッティング値) | 深度 $N=0$ の実測値は78.50%。後選択を適用しない生データ | Zhang et al. (arXiv:2505.13958) |
学術論文の要旨および結論部には、単一ルーターの忠実度として「最大95.74%」という数値が記載されている。一方、環球時報や人民網、それを引用したInteresting Engineeringは「平均忠実度94.8%」と報じている。この94.8%という数値は、実験のために製作された3つの独立したルーター素子の平均値を示していると考えられる。
性能の減衰は、ネットワークを多層化した際に顕著に現れる。2層の量子ルーティングネットワークを構成した場合、全体の伝送効率は単一素子の98%から93%へと低下した。ランダムアクセス忠実度に至っては、単一素子の95%前後から、2層の平均で82.40%まで落ち込んでいる。
消去エラー検出の有無による比較も重要だ。ルーティングの深さ $N=0$ の時点において、消去エラー抑制(中間準位 の後選択)を適用した測定忠実度は90.02%であったのに対し、抑制機構を適用しない素の状態では78.50%にとどまった。フィッティング後の平均忠実度でも、抑制ありの82.40%に対して、抑制なしは81.90%となっている。消去エラーの排除によって約11ポイントの底上げが確認されたものの、ネットワークが深くなるにつれてその優位性は薄れていく。
著者ら自身、ルーティング深度の増加に伴って性能が段階的に劣化する理由として、アドレス素子の2光子遷移、不完全なゲート操作、そしてデータ情報の時間的減衰を挙げている。デコヒーレンスとマイクロ波制御に起因する準位漏れ出しが最大の不忠実度要因であり、これが左右の出力経路の非対称性や、稀に発生するデータの誤ルーティング(misrouting)を引き起こしている。98%という数字は、最も条件の良い単一素子において、エネルギーが移動した効率を切り取った数値に過ぎない。
チップ平面の幾何学が突きつける「5層」の壁
多層化に伴う性能劣化に加え、論文にはより根本的な物理的制約が明記されている。プロセッサ平面上への配置限界、すなわちスケーラビリティの上限である。
研究チームは、超伝導チップ上に多数のルーターを効率よく並べるためのレイアウトアルゴリズムを開発した。これは基準となる三角形(seed triangle)を起点とし、トポロジー的に有利な領域へ向けて三角形のリンクを反復的に成長させていく手法である。各ビットのコヒーレンス時間、素子間のクロストーク、ハードウェアの配線制約を総合的に評価し、最適な配置を探索する。
の格子状トポロジーを持つ悟空プロセッサを想定した場合、最適な配置はシード三角形をプロセッサの中央付近に置き、そこから外側へ擬似円形(quasi-circular)に素子を広げていく形態となる。これによってパッキング効率を最大化できる。
しかし、この最適化を用いてもなお、現在のチップ構造で展開できるのは「最大5層」のシステムまでだと論文は認めている。
5層を超えてネットワークを拡張しようとすると、2次元平面上において量子ルーター同士の物理的な重なり(overlap)が不可避となる。平面配線である以上、交差を回避するにはチップ上の遠隔ビット間を結ぶ短距離伝送技術や3次元積層配線などの付加技術を導入しなければならない。
著者らが挙げている今後の課題は、ルーター配置の重なりだけではない。素子密度の上昇に伴うクロストークの激化、そして多段中継を経ることで累積していく伝送エラーへの対処である。研究チームはこれらの解決策として、さらなる後選択技術の洗練、高コヒーレンスな素子作製プロセスの導入、制御波形のファインチューニングなどを挙げている。だが、これらは将来の展望として提示された道筋であり、今回の実験で実証された成果ではない。72ビット中わずか10ビットを用いた実験結果をもって、大規模なQRAMへの道が開かれたと結論づけるのは早計である。
論文公開から15カ月後に訪れたメディア攻勢の背景
今回の発表を評価する上で、もう一つ見落とせない要素がある。プレプリントの公開からメディア報道に至るまでの時間差だ。
本研究の技術的詳細を記した論文『超伝導プロセッサ上におけるバケツリレー型量子ランダムアクセスメモリ向けコヒーレント量子ルーターの実証(Demonstrating Coherent Quantum Routers for Bucket-Brigade Quantum Random Access Memory on a Superconducting Processor)』は、プレプリントサーバーarXivに2025年5月20日付で登録(arXiv:2505.13958)されている。INSPIREなどの学術データベースの記録とも合致する。
海外の専門メディアThe Qubit Reportなどは、この研究が査読付き学術誌『Physical Review X』の第16巻(論文番号031051)に2026年8月25日付で掲載されたと伝えている。安徽省量子計算チップ重点実験室が科学技術日報に対して研究内容を説明したのが2026年9月2日であり、それを受けてOrigin Quantumがプレスリリースを出し、環球時報が9月3日に報じた。
2026年9月に突如として巻き起こった「量子ルーター98%」報道の波は、新たな実験結果が得られたからではなく、学術誌掲載を契機とした広報サイクルの産物である。
報道の起点となったのが、研究に参画した企業そのものである点も留意すべき事実だ。Origin Quantumは論文の共著者組織であると同時に、メディアに情報を供給したプレスリリースの発行元でもある。「データ伝送の高速道路(fast lane)」といった宣伝文句は、客観的な技術用語ではなく、企業リリースに由来する比喩表現に過ぎない。
学術論文として査読を通過した事実自体は技術的な堅牢性を裏付けるものだが、報道で語られる「コスト削減」「計算効率の飛躍」「チップと回路設計の統合」といった下流のメリットは、実験データを離れた研究者側の推論である。
実装技術と商用QRAMの間にある広大な溝
今回の実験成果に対しては、中国国内の専門家からも冷静な分析が示されている。元・商湯科技(SenseTime)智能産業研究院院長のTian Feng(田豊)は、環球時報の取材に対し、次のように釘を刺している。
「98%の伝送効率を達成したからといって、大規模なQRAMが直ちに商用化の段階に入ったことを意味するわけではない」
田豊は、実用化に向けた最大の障壁として、依然として残るエラー制御の困難さとハードウェアの長期安定性を挙げた。同時に、量子コンピューターの性能を単に「量子ビット数」の大小だけで評価すべきではないとも指摘している。今回の成果の本質は、物理ビットを闇雲に増やすのではなく、クトリットの余剰エネルギー準位を巧妙に利用することで、限られたハードウェア資源の運用効率を高めた点にあるという分析だ。
PC Centralなどの技術系メディアも指摘するように、今回開発されたシステムは研究室段階のプロトタイプにとどまっており、商用化のスケジュールや価格設定が具体化しているわけではない。
量子コンピューター開発の競争は、チップに何個の量子ビットを並べたかを競う段階を終え、チップ内部のインターコネクトやメモリ階層をいかに実用化するかというアーキテクチャの競争へ移行しつつある。Origin Quantumらの実験は、超伝導回路の多準位制御を利用することで、配線の深さを減らしながらエラーを検出できる可能性を提示した。
だが、2層から3層、そして物理限界とされる5層へとネットワークを広げたとき、80%台前半まで落ち込んだ忠実度をどこまで維持できるのか。平面積層の限界を超えて三次元的な素子配置を実現できるのか。実用的な量子メモリの完成へ向けた問いは、依然として解かれていない。



