六角形の網目状に炭素が連なるグラフェンは、強靭で安定した構造を持つ。そのため、一度組み上がった炭素の網目の「内側」を切り開き、別の形に組み替えることは不可能だと長く考えられてきた。これまで化学者たちは、小さな部品の縁を少しずつ繋ぎ合わせることで、目的のナノカーボンを作り上げてきたのだ。しかし名古屋大学の研究チームは、この半世紀の常識を覆し、分子の内側を直接「編集」する手法を確立した。医薬品開発で使われてきたアプローチを炭素の巨大分子に適用し、これまでにない立体的で機能的な構造を生み出したのである。
強固な炭素骨格を内側から切り開く
ナノカーボンは、フラーレンやカーボンナノチューブに代表されるように、無数の炭素原子が強固な共有結合で結びついてできた分子の総称だ。中でも平面状に広がるナノグラフェンは、その薄さと特異な電子特性から、次世代の電子デバイスや光学材料の基盤として期待を集めている。1980年代のフラーレン発見に始まるナノカーボンの歴史は、いかにして狙い通りの形と大きさを持つ炭素分子を合成するかという、化学者たちの絶え間ない挑戦の歴史でもあった。
これまでのナノカーボン合成は、まるでジグソーパズルのピースを外周から繋ぎ合わせるような「ボトムアップ型」の戦略に依存していた。周辺部(エッジ)の結合は比較的反応させやすく、別の分子を修飾するのも容易である。ところが、分子の中心部に鎮座する強固な網目を後から組み替えることは極めて困難だった。炭素同士がしっかりと結びついた内部の結合を切り離そうとすれば、分子全体に致命的な歪みが生じ、反応そのものが進行しなくなるからだ。結合を無理に切ろうとすれば、分子全体が分解してしまうリスクもあった。このため、分子の内部は変換の対象にならないという前提が化学界に定着していた。
名古屋大学大学院工学研究科の福井識人准教授らのチームは、この限界に挑んだ。彼らが着目したのは、近年医薬品の合成などで注目されている「骨格編集」という手法である。これは、完成した分子の骨格の一部をピンポイントで切り離し、別の原子を挿入したり形を変えたりする技術だ。研究チームは、適切な出発原料を選び出し、反応条件を精密に制御することで、強固なナノカーボンの内部結合を開裂させ、再び修復することに成功した。これは、完成済みの建物の壁を壊すことなく、内部の柱だけを別の形に組み替えるような離れ業である。建物の外側から増築していくしかなかったナノカーボン建築において、内部のリノベーションが可能になった意義は計り知れない。
歪みを乗り越え十員環とキラル構造を生む
骨格編集という新しい道具を手に入れたことで、これまで作ることができなかった構造が次々と現実のものになった。その成果の筆頭が、炭素原子10個からなる「十員環」の導入である。
自然界の炭素は、結合角の制約から六角形の網目を作ることを最も好む。近年では七員環や八員環を含む構造も合成されていたが、十員環を巨大なナノカーボンの中に組み込むことは至難の業だった。強固な六角形の平穏な海に十角形の波紋を投じるようなものであり、分子全体に強烈な構造的歪みをもたらすからだ。しかし研究チームは骨格編集を駆使し、最大170個もの炭素原子からなる巨大な分子の中に、この十員環を安定して組み込むことに成功した。極めて複雑な巨大分子の内部にある特定の結合だけを、狙い通りに組み替える精密さである。
この成果は形の珍しさという枠を超えた意味を持つ。右手と左手のように鏡合わせの関係にある「キラル」なナノカーボンの作り分け、すなわち不斉合成への扉を開いたのだ。立体的で複雑な構造を持つキラル分子は、光や電子と特異な相互作用をする。チームは、十員環を含むキラルなナノカーボンを、右型と左型のそれぞれ狙った方だけを合成することに成功した。このような巨大なナノカーボンで不斉合成が成功したのは、過去の歴史の中でわずか2例しかないという。
| 合成手法の比較 | 従来手法(ボトムアップ型) | 新手法(骨格編集) |
|---|---|---|
| 反応領域 | 分子の周辺部(エッジ) | 分子の内部骨格 |
| 十員環の導入 | 原理的に困難 | 高い精度で可能 |
| 立体構造の制御 | 巨大分子では過去2例のみ成功 | 右型と左型の精密な作り分け(不斉合成)が可能 |
280度の耐熱性と多孔性結晶が自己組織化する未来
新たに合成されたキラルナノカーボンは、特異な物性をいくつも備えている。
第一に挙げられるのが、非常に高い熱的安定性だ。通常、無理な歪みを抱えた立体的なキラル分子は、熱を加えると形が崩壊するか、元の形を保てずに別の鏡像異性体へと反転してしまう。この反転を防ぐエネルギーの壁をラセミ化障壁と呼ぶ。今回作られた分子の一つは、280℃という高温環境下でもそのキラルな形状を維持した。280℃といえば、一般的な電子基板のハンダ付け工程の温度すら上回る過酷な環境である。これほどの熱に耐えられるということは、分子に電子を与えたり奪ったりしても構造が壊れないことを意味し、長寿命な有機電子材料として申し分のない性質である。
分子の安定性は、次世代の電子デバイス、特に省電力が求められる回路や、極小スケールでのトランジスタを設計する上で欠かせない条件となる。分子が壊れにくいということは、デバイスの寿命そのものを引き延ばすことに直結する。
光学的な特性も注目すべき点だ。合成された分子は、光が螺旋状に進む「円偏光発光」を高い効率で示した。これは次世代の3Dディスプレイや、光の回転方向を用いた高度な暗号通信技術への応用が期待される性質である。分子自身のねじれが、放たれる光の軌道をもねじ曲げている構造が確認された。
さらに、二重螺旋の形状を持つ分子は、自発的に集まって内部に無数の微細な空孔を持つ多孔性構造体を形成した。2025年のノーベル化学賞を受賞した金属有機構造体(MOF)の親戚とも言える性質だ。この結晶は、二酸化炭素を選択的に捉えて放出するガス吸着材としての機能を持つことが確認されている。金属を使わず炭素だけで精巧なフィルターを作り出したことは、環境負荷の低いガス分離技術への応用を予感させる。
分子の内部はもはや立ち入れない聖域ではなくなった。骨格編集という手法が実証されたことで、化学者は炭素材料の設計図を全く新しい次元で引けるようになった。今後、この手法が他のどのような分子構造に適用可能か、またスケーラビリティや量産性の課題をどう克服していくかが問われる。そして生み出された未知のナノカーボンが、省電力デバイスや環境技術としてどのように社会実装への道を辿るのか。炭素が織りなす次世代素材の進化は、未知の領域へと踏み出したのである。
