人体の細胞内で絶えず働くミトコンドリアは、食物から得た栄養を利用してアデノシン三リン酸(ATP)を合成し、生命活動のほぼすべてに必要な化学エネルギーを供給する「細胞の発電所」である。生化学の教科書では、内膜を隔てたプロトン濃度勾配が巨大な回転酵素であるATP合成酵素を駆動する、酸化的リン酸化の仕組みが詳しく説明されている。一方で、この高効率なエネルギー変換を支える微視的な物理過程には、なお解明されていない部分が残されている。

この問いに対し、生体膜内部で起こる微視的な物理現象から説明を試みる研究が報告された。中国の上海理工大学(University of Shanghai for Science and Technology)光電情報・コンピュータ工学院に所属するBo Songらの共同研究グループは、構造を保ったミトコンドリアから既知の分子振動では説明しにくい信号を検出し、その背景に光と物質が量子力学的に結合した状態が存在する可能性を提案した。

ただし、本研究は査読付き学術誌に掲載された確定的な成果ではない。2026年9月にプレプリントサーバーbioRxivで公開された未査読論文(DOI: 10.64898/2026.09.10.750628、筆頭著者はYangら)である。

研究チームの主張は、ミトコンドリア内部にエネルギー産生へ影響する量子状態が形成されているというものだが、これは得られた分光データと数理モデルを結びつけた著者らの解釈であり、確立された事実ではない。実験で何が観測され、どこからが数理モデルに基づく推論なのか。そして仮説を実証するために何が不足しているのかを分けて考える必要がある。

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構造を保った試料でのみ現れた71テラヘルツの分光信号

研究チームが最初に調べたのは、細胞やミトコンドリアが赤外線に対してどのような周波数応答を示すかだった。実験にはフーリエ変換赤外分光法(FTIR)が用いられた。

赤外分光法は、分子を構成する原子間の結合が固有の周波数で伸縮や変形を起こす性質を利用し、物質の組成や構造状態を調べる基本的な分析手法である。

分析対象には、培養したヒト細胞株のほか、マウスの腎臓、肝臓、心臓、骨格筋から採取した組織、さらに遠心分離によって単離したミトコンドリアが用いられた。

研究チームがこれらの試料の赤外吸収スペクトルを測定したところ、既知の生体分子の振動では説明しにくい71テラヘルツ(THz)付近に特徴的な信号が検出された。71 THzとは、1秒間に71兆回振動する周波数に相当する。

試料の種類 処理状態 71 THz信号
ヒト培養細胞(HEK-293T株) 生細胞 検出
マウス摘出組織(腎臓、肝臓、心臓、骨格筋) 新鮮組織 検出
単離ミトコンドリア 膜構造を維持 検出
各種生体試料 乾燥・粉砕処理 消失

注目すべきなのは、この71 THzの信号が試料の構造状態に強く依存していたことである。生きた細胞や摘出直後の新鮮な組織、構造を保った単離ミトコンドリアでは確認された一方、試料を乾燥させて粉砕し、生体膜などの高次構造を壊すと信号は消失した。

Bo SongはScienceAlertの取材に対し、「ミトコンドリアの量子状態は、この未知の周波数を説明する一つの可能性を与える」との趣旨を述べている。

ただし、71 THzの信号が観測されたことと、そこに量子状態が存在することは同じではない。構造を壊すと信号が消えるという結果は、組織化された生体構造に由来する集団的な物理現象である可能性を示すものの、量子コヒーレンスや量子的な結合状態を直接証明するものではない。

光と分子振動が結合するポラリトンモデル

では、研究チームが想定する「量子状態」とは何なのか。

研究グループが提案しているのは、物性物理学やナノ光学で広く研究されている「ポラリトン(polariton)」と呼ばれる、光と物質の励起が強く結合した状態をミトコンドリア内部に当てはめるモデルである。

着目したのは、ミトコンドリア内膜が複雑に折りたたまれて形成される「クリステ」と呼ばれる構造だ。クリステの脂質二重層には、炭素と水素からなる基が多数存在する。この結合には、約87 THz付近の分子振動モードがある。

研究チームのモデルでは、ミトコンドリア内部に局在する電磁場と、規則的に配置された結合の集団的な分子振動が強く結合することで、光と物質の双方の性質を持つポラリトン状態が形成されると仮定した。

光子と物質側の集団励起が強く結合すると、元のエネルギー準位が二つに分かれる。このモデルを計算すると、約87 THzの振動モードから、低エネルギー側のおよそ71 THzと、高エネルギー側のおよそ103 THzという二つの準位が生じると予測された。

このうち、低エネルギー側の71 THzは、実験で検出された未知の吸収信号とほぼ一致した。

一方、高エネルギー側の約103 THzは、生体内に大量に存在する水分子()やさまざまな生体高分子の強い赤外吸収帯と重なるため、通常の分光測定では背景信号に埋もれて識別しにくいと研究チームは説明している。

さらに著者らは、活発に代謝するミトコンドリアの典型的な寸法が、87 THz付近の電磁場の波長スケールと対応し得る点にも注目した。ミトコンドリア内膜の構造自体が微小な共振環境として働き、電磁場と分子振動の相互作用を強めている可能性があるという仮説である。

こうした光と生体分子振動の結合モデルは、Bo Songが今回初めて提案したものではない。Songは以前にも、神経線維を包む髄鞘(ミエリン鞘)の内部で光と脂質振動が結合する「細胞ビブロン・ポラリトン」の仮説をプレプリント(arXiv:1906.03795)などで提案してきた。

今回の研究は、その理論的枠組みを細胞のエネルギー代謝を担うミトコンドリアへ拡張したものと位置づけられる。

ただし、計算モデルが実測周波数と一致したことは、ポラリトン状態の存在を直接証明するものではない。現時点では、モデルと観測結果が整合しているという段階にある。

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赤外線照射でATPが約10%増加

仮説上の71 THzの状態が、単なる分光学的な現象ではなく、実際に細胞の代謝へ影響するのか。

研究グループはこの点を調べるため、生きた細胞に特定の周波数の中赤外線を照射し、細胞内のATP量がどのように変化するかを測定した。

実験には、ヒト胎児腎細胞由来の培養細胞株HEK-293Tが使われた。研究チームは細胞に弱い中赤外線を10分間照射した後、ATP産生量を測定した。

設定した周波数は、観測された未知信号に対応する71 THz、モデルの基準となる振動に対応する87 THz、そして仮説とは直接関係しない対照周波数の53.7 THzの3条件だった。各群のサンプル数は8($n=8$)である。

中赤外線照射によるHEK-293T細胞のATP産生変化率横棒グラフ。カテゴリ 3 件、系列: ATP変化率(単位: %)71 THz (検出信号)71 THz (検出信号)71 THz (検出信号) — ATP変化率: 10.3%10.387 THz (CH2振動)87 THz (CH2振動)87 THz (CH2振動) — ATP変化率: 10.1%10.153.7 THz (対照群)53.7 THz (対照群)0単位: %
データを表で見る
ATP変化率 (%)
71 THz (検出信号)10.3
87 THz (CH2振動)10.1
53.7 THz (対照群)0
中赤外線照射によるHEK-293T細胞のATP産生変化率各群n=8。53.7 THz照射群では有意な変化なし(図では0として表示)出典: Yang et al., bioRxiv (2026) / ScienceAlert

71 THzの赤外線を照射した細胞では、非照射群と比較してATP産生量が10.3%増加した。また、振動に対応する87 THzを照射した群でも、10.1%の増加が報告された。

一方、対照周波数の53.7 THzを照射した群では、統計的に有意なATP産生量の変化は確認されなかった。なお、確認できる公表資料では、非照射群と照射群それぞれのATP量の絶対値は示されていない。

照射周波数 モデル上の位置づけ ATP産生量の変化 実験条件
71 THz 観測された特異信号、モデル上の低エネルギー側準位 +10.3% HEK-293T、10分照射、各群$n=8$
87 THz 結合の振動モード +10.1% HEK-293T、10分照射、各群$n=8$
53.7 THz 対照周波数 有意な変化なし HEK-293T、10分照射、各群$n=8$

この結果の解釈には慎重さが必要である。著者らは、特定の周波数でATP量が増加したことを、赤外線照射によってモデル上のポラリトン共鳴が励起され、エネルギー代謝に影響した可能性を示す結果と捉えている。

もし周波数に関係なくATPが一様に増えていたのであれば、単純な加熱作用でも説明できる。一方、53.7 THzでは有意な変化が見られなかったため、周波数依存の応答が存在する可能性はある。

ただし、加熱の影響が完全に排除されたわけではない。

照射された中赤外線は弱く、53.7 THzでATP変化がなかったことは単純な熱作用だけでは説明しにくいことを示唆する。しかし、論文では細胞周辺の局所的な温度変化を物理的な温度プローブで直接測定したデータは示されていない。

周波数ごとの吸収率の違いによって微小な局所温度差が生じ、それが酵素反応速度などに影響した可能性まで完全に排除するには、追加の実験が必要である。

TCA回路と二酸化炭素を結ぶ仮説

研究チームはさらに、この物理現象が細胞内のどの生化学反応と結びつく可能性があるかについても仮説を提示している。

着目したのは、ミトコンドリアのマトリックス内で進行し、酸化的リン酸化へ電子を供給するクエン酸回路(TCA回路)である。

Songらが注目した要素の一つが、二酸化炭素()分子の振動モードとの関係だ。TCA回路では栄養素の代謝に伴う脱炭酸反応によってが生成される。著者らは、この過程に関係する振動エネルギーが71 THz付近の電磁場と相互作用する可能性を考えている。

この発想には、Songらが以前に発表した理論研究も関係している。

2023年の論文(DOI: 10.1007/s12264-023-01044-7)では、TCA回路内でニコチンアミドアデニンジヌクレオチド()が還元されてNADHが生じる際に、87 THzに相当する微弱な光子が放出される可能性を理論計算から提案していた。

SongはScienceAlertに対し、ミトコンドリア内の量子状態がTCA回路の効率を高め、ATP産生に影響する可能性があるとの見方を示している。

研究チームが描くモデルでは、代謝反応に伴って生じる電磁的な励起が内膜のポラリトン状態と相互作用し、その結果として代謝反応やエネルギー移動に影響する可能性がある。

しかし、この一連の過程は実験的に確立された機構ではなく、複数の仮説を組み合わせたモデルである。

細胞内で87 THzの光子が実際に放出されていることをリアルタイムで直接測定したわけではなく、ポラリトン状態の励起によってTCA回路内のどの酵素反応が変化したのかも特定されていない。

ATP量が特定の照射周波数で変化したという結果から、TCA回路における共鳴機構まで直接結論づけるには、現時点では証拠が不足している。

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仮説の検証に残された課題

今回の研究を評価するうえで重要なのは、実験で確認された事実と、そこから導かれた仮説を明確に区別することである。

第一に、特徴的な分光信号の検出だけでは量子状態の存在を証明できない。

構造を保ったミトコンドリアで71 THzの吸収信号が現れ、組織を破壊すると消失したという結果は興味深い。しかし、ポラリトンという光と物質のハイブリッド状態が形成されているという解釈は、数理モデルから予測された周波数と実測信号が一致したことに基づいている。

古典的な電磁場による生体膜内部の共振や多重反射、脂質やタンパク質の集団振動など、量子ポラリトン以外の説明がすべて排除されたわけではない。

第二に、ATP実験は規模も対象も限定されている。

10%のATP増加が確認されたのは、長年実験室で培養されてきたHEK-293Tという単一の細胞株であり、各群のサンプル数は8にとどまる。

培養細胞で観測された反応が、複数の細胞種や組織、恒常性維持機構を持つ動物個体、まして人間の体内でも同じように起こるかどうかは分かっていない。

したがって、「特定の赤外線を照射すれば人体の代謝を高められる」といった健康増進や治療効果へ結びつける根拠は、現時点では存在しない。

Song自身も研究の重要な制約を認めている。ScienceAlertの取材では、研究の主な限界として「87 THzの光に関連したエネルギー移動のダイナミクスが分かっていない」ことを挙げている。

提案されたモデルが正しいのであれば、光子と分子振動の間でエネルギーがどのように交換され、その状態がどの程度の時間維持されるのかを、超高速分光などによって直接測定する必要がある。しかし、そうした時間分解測定のデータはまだ示されていない。

今後、この仮説が支持されるかどうかを判断するには、独立した研究グループによる再現実験が不可欠である。

異なる研究室と測定装置を用いて71 THzの信号が再現されることに加え、その信号が古典的な振動や熱的効果では説明できないことを示す必要がある。さらに、ポラリトン形成そのものを検証するには、強結合に特徴的な準位分裂やエネルギー移動の時間発展などを直接測定する実験が求められる。

生体のように水分が多く、熱揺らぎの大きい環境で、量子力学的な現象が生物機能にどの程度関与しているのかは、量子生物学における重要な研究テーマの一つである。鳥類の磁気受容や光合成の初期過程などでも、量子効果の役割について長年研究が続けられてきた。

今回報告された71 THzの信号が、ミトコンドリアのエネルギー代謝を支える新たな物理機構につながるのか、それとも別の生物物理学的現象として説明されるのかは、現時点では分からない。

未査読のプレプリントで提示された仮説を評価するには、まず信号の再現性と起源を確かめ、そのうえでエネルギー移動とATP産生の因果関係を直接検証する必要がある。