原子核という、目に見えない極微の世界で、物理学の教科書を書き換えるかもしれない、静かな、しかし巨大な発見が成し遂げられた。フィンランドのユヴァスキュラ大学加速器研究所を拠点とする国際研究チームが、これまで知られていなかった新しい原子核「アスタチン188(188At)」の合成と観測に成功。この原子核は、陽子を一つだけ放出して崩壊する「陽子放出核」として史上最も重いことが確認されたのだ。さらに驚くべきことに、その形状は完全な球ではなく、歪んだ「スイカ型」をしていることが示唆された。この発見は、物質の根源的な性質と、原子核を支配する未知の力への理解を深める、重要な一歩となるだろう。

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物理学界に走った衝撃:30年ぶりの記録更新

今回の発見がどれほど画期的なものであるかを理解するには、少し時計の針を戻す必要がある。これまで知られていた最も重い陽子放出核は「ビスマス185(185Bi)」で、その発見は1996年にまで遡る。 それ以来、約30年もの間、この記録は破られることがなかった。陽子放出という現象自体が極めて稀であり、観測対象となる原子核は極度に不安定で、生成すること自体が極めて困難だからだ。

フィンランドの研究チームは、この長年の沈黙を破り、原子核物理学のフロンティアを大きく押し広げた。彼らが発見したアスタチン188は、陽子放出核の質量記録を更新しただけでなく、その特異な性質によって、原子核の構造に関する既存の理論モデルに新たな問いを投げかけている。 この研究成果は、世界的に権威のある科学誌『Nature Communications』に2025年5月29日付で掲載され、物理学界に大きな波紋を広げている。

発見された新顔「アスタチン188」とは何者か?

今回、歴史の表舞台に登場した「アスタチン188」とは、一体どのような原子核なのだろうか。その素顔は、極めてエキゾチックで謎に満ちている。

陽子85個、中性子103個の奇妙なバランス

アスタチン188の核は、85個の陽子と103個の中性子で構成されている。 元素の種類は陽子の数で決まるため、陽子が85個のこの原子は「アスタチン(At)」に分類される。同じ元素でも中性子の数が異なるものを「同位体」と呼ぶが、アスタチン188は、これまで知られているアスタチンの同位体の中で最も中性子が少なく、最も軽い(質量数が小さい)ものとなる。

原子核の世界では、陽子と中性子の数のバランスがその安定性を大きく左右する。アスタチン188のように、陽子の数に対して中性子の数が極端に少ない原子核は「中性子欠損核」と呼ばれ、極めて不安定ですぐに崩壊してしまう運命にある。

元素の幽霊「アスタチン」の正体

そもそも、アスタチンという元素自体が非常に特異な存在だ。周期表ではハロゲン族に属するが、地球の地殻中に天然に存在する量は、全球を合わせても常に1グラム未満と推定されている「地球上で最も希少な元素」である。

その理由は、アスタチンの全ての同位体が強い放射性を持ち、極めて短命であるためだ。最も寿命の長い同位体でさえ半減期(原子の半分が崩壊するまでの時間)はわずか8.1時間。今回発見されたアスタチン188の寿命は、さらに桁違いに短い。このような儚さから、アスタチンは「元素の幽霊」とでも言うべき存在なのである。

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崩壊の常識を覆す「陽子放出」という奇跡

不安定な原子核は、より安定した状態になるために、内部の粒子やエネルギーを放出して別の原子核に変化する。これが「放射性崩壊」だ。アスタチン188が注目される最大の理由は、その崩壊の仕方が極めて珍しい「陽子放出」であることにある。

なぜ原子核は崩壊するのか?安定への長い旅路

放射性崩壊にはいくつかの主要なモードがある。

  • アルファ(α)崩壊: 陽子2個と中性子2個からなる「アルファ粒子」(ヘリウム原子核と同じ)を放出する。重い原子核でよく見られる崩壊形式だ。
  • ベータ(β)崩壊: 原子核内の中性子が陽子に変化し、電子(ベータ粒子)を放出する(またはその逆)。

これらの崩壊は、原子核が自身の陽子と中性子のバランスを調整し、より安定な構成へと向かうための自然なプロセスである。

プロトン(陽子)が一つだけ飛び出す、極めて稀な現象

一方、「陽子放出」は、原子核が陽子を一つだけ、まるで弾き飛ばすかのように放出する現象だ。 これは、陽子が過剰になりすぎて、原子核を繋ぎとめている「核力」だけでは陽子を閉じ込めておけなくなった極限状態でのみ発生する。

博士課程研究者であり、本研究の筆頭著者であるHenna Kokkonen氏は、「陽子放出は、原子核が安定に向かうための一歩として陽子を放出する、珍しい形式の放射性崩壊です」と語る。

この現象は、量子力学的な「トンネル効果」によって説明される。陽子は本来、原子核内部のエネルギーの壁(クーロン障壁)を乗り越えるエネルギーを持っていない。しかし、量子力学の世界では、確率的にこの壁をすり抜けて外に飛び出すことが可能になるのだ。陽子放出を観測できるということは、その原子核が安定性の限界、すなわち「陽子ドリップライン」のすぐ外側に存在していることを意味する。

なぜ「スイカ型」なのか?原子核の形状が語る新物理

今回の発見で最も興味深い点の一つが、アスタチン188の形状だ。研究チームの理論モデルによれば、この原子核は綺麗な球形ではなく、ラグビーボールやスイカのように、特定の軸方向に引き伸ばされた「強くプロレート変形」した形状をしていると解釈されている。

球形ではない原子核の世界

私たちは原子核を小さな球としてイメージしがちだが、実際には多くの原子核が変形している。これは、陽子や中性子が原子核内で特定のエネルギー準位(殻構造)を形成し、全体のエネルギーが最も低く、安定になるように配置されるためだ。その結果、球形、葉巻型(プロレート)、円盤型(オブレート)など、多様な形状をとる。

「プロレート変形」が示唆する未知の力

アスタチン188の「スイカ型」形状とその崩壊の特性は、原子核内部で働く力について、新たな知見をもたらす可能性がある。Kokkonen氏は、「この原子核の特性は、原子価陽子(最も外側にある陽子)の結合エネルギーにおける傾向の変化を示唆しています。これは、重い原子核では前例のない相互作用によって説明される可能性があります」と指摘する。

これは、原子核の構造を記述する標準的な理論モデルだけでは完全には説明できない、未知の物理現象が隠されている可能性を示している。具体的には、「トーマス・アーマンシフト」と呼ばれる効果が、重い原子核で初めて観測された可能性が論文中で議論されている。これは、原子核から染み出した陽子の波動関数が、原子核全体のエネルギー状態に影響を与える現象であり、特にアスタチン188のような低角運動量状態からの陽子放出で顕著になると考えられている。この効果の証拠が得られれば、原子核の限界状態における我々の理解を大きく塗り替えることになるだろう。

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いかにして「幽霊」を捕らえたか?フィンランドの超絶技巧

寿命が極めて短く、生成量もごくわずかなアスタチン188を、どのようにして作り出し、観測したのだろうか。その裏には、ユヴァスキュラ大学加速器研究所が誇る最先端の技術と、研究者たちの緻密な戦略があった。

核融合蒸発反応:原子核の錬金術

研究チームは、「核融合蒸発反応」という手法を用いた。

  1. まず、同研究所のサイクロトロン加速器を使い、「ストロンチウム84(84Sr)」の原子核を光速近くまで加速し、強力なイオンビームを作り出す。
  2. このビームを、「天然銀(Ag)」でできた薄い標的に照射する。
  3. ストロンチウムと銀の原子核が衝突し、融合して一つの巨大な複合核を形成する。この状態は非常に不安定で、過剰なエネルギーを放出するために、即座にいくつかの中性子を「蒸発」させる。

このプロセスを経て、ごく稀に目的の「アスタチン188」が生成されるのだ。アカデミー研究員のKalle Auranen氏がこのプロセスを説明している。

RITU分離器:干し草の中から針を探す

しかし、生成されるのはアスタチン188だけではない。ビームの粒子や、目的外の様々な原子核が大量に生成される。この膨大な「干し草」の中から、目的の「針」であるアスタチン188だけを見つけ出す必要がある。

ここで活躍するのが、「RITU(Recoil-Ion Transport Unit)」と呼ばれるガス充填型反跳分離器だ。 この装置は、磁場と低圧のガスを利用して、生成された粒子をその質量と電荷の違いによって巧みに選別する。この超高性能フィルターを通過することで、アスタチン188の原子核だけが分離され、検出器へと導かれる。最終的に、検出器に到達したアスタチン188が陽子放出して崩壊する様子を捉えることで、その存在が初めて確認されたのである。

一人の研究者の情熱が歴史を動かした

この歴史的な発見は、筆頭著者であるHenna Kokkonen氏の長年にわたる研究の集大成でもある。驚くべきことに、この研究は彼女の修士論文で発見した別の新同位体「アスタチン190」の研究の直接的な続編なのだ。

修士課程の学生が新しい原子核を発見すること自体が異例だが、彼女は博士課程でさらに大きな成果を上げたことになる。Kokkonen氏自身も、「同位体の発見は世界的に見ても稀なことであり、歴史の一部になる機会を2度も得られたことを嬉しく思います。どの実験も挑戦的ですが、物質の限界や原子核の構造についての理解を深める研究に携われることは素晴らしいことです」と、その喜びを語っている。

一人の若き研究者の尽きることのない探求心と情熱が、科学の最前線を切り拓いた感動的な物語がここにある。

この発見が拓く未来と「解決策」としての基礎科学

アスタチン188の発見は、私たちの日常生活にすぐに変化をもたらすものではないかもしれない。しかし、このような基礎科学の進展こそが、人類の知の地平を押し広げ、未来の技術革新の土台となる。

この研究は、原子核がどのようにしてその形を保ち、どのような限界状況で崩壊するのかという、物質の根源的な問いに答えるための重要な手がかりを提供する。例えば、宇宙における星の内部での元素合成プロセス(特にrpプロセス)の理解を深めることにも繋がるだろう。

今後の課題として、研究チームはより多くのデータを収集し、アスタチン188の半減期や崩壊エネルギーの測定精度を高めることを目指している。 また、さらに未知の領域である「アスタチン189」の探索も、次の興味深いターゲットとして挙げられている。

ここで我々が考えるべき「解決策」とは、こうした基礎研究の重要性を社会全体で認識し、継続的に支援していくことではないだろうか。Einsteinの相対性理論がなければGPS技術は生まれなかったように、今日の純粋な知的好奇心から生まれた発見が、数十年後の社会を支える技術の源泉となる可能性は十分にある。

奇しくも、アスタチンは別の側面からも注目されている。その同位体の一つである「アスタチン211」は、アルファ線を放出する性質を利用した、がんの標的アイソトープ治療への応用が期待されているのだ。アスタチンという元素ファミリー全体の性質を解明することは、将来的に医療分野へ貢献する可能性も秘めている。

今回のアスタチン188の発見は、単に一つの原子核が見つかったというニュースに留まらない。それは、極微の世界に隠された宇宙の設計図を、また一枚解き明かしたという人類の知的な勝利の証なのだ。フィンランドの森の奥深くにある研究所から発信されたこの一報は、私たちに、まだ見ぬ科学のフロンティアがいかに広大で、魅力に満ちているかを改めて教えてくれている。


論文

参考文献