アルベルト・アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼び、生涯にわたってその解釈に苦慮した量子力学の最も奇妙な現象、「量子もつれ(量子エンタングルメント)」。空間的にどれほど離れていても、一方の粒子の状態を測定した瞬間に、もう一方の粒子の状態が即座に確定するというこの現象は、現在では量子コンピューターや量子暗号通信の基盤技術として広く認識されている。しかし、これまでに実証されてきたエンタングルメントの大部分は、質量を持たない光子(フォトン)や、電子や原子の「スピン」といった内部状態(粒子の内的な性質)に関するものであった。
このたび、オーストラリア国立大学(ANU)の研究チームは、この量子力学の根幹をなす現象を、全く新たな次元へと引き上げることに成功した。2026年2月に学術誌『Nature Communications』に発表された論文において、研究チームは超低温に冷却されたヘリウム原子のボーズ・アインシュタイン凝縮体(BEC)を衝突させ、質量を持つ粒子の「運動量(空間的な動き)」がエンタングルした状態を生成し、その観測に世界で初めて成功したと報告している。この画期的な成果は、単なる量子力学の理論的証明に留まらず、現代物理学の最大のミッシングリンクとされる「一般相対性理論(重力)」と「量子力学」の統合に向けた、極めて重要なマイルストーンとなるものである。
「内部状態」から「外部状態」への飛躍:なぜ「運動」の絡み合いが重要なのか
これまでの量子力学の歴史において、エンタングルメントの実証実験は数多く行われてきた。その代表的なものは、光子の偏光状態や、原子のエネルギー準位、あるいはスピンの向きといった「内部自由度(内部状態)」を用いたものである。これらは、粒子の空間的な位置や動きそのものとは切り離された、粒子固有のパラメータである。しかし、今回のANUの研究チームが挑んだのは、質量の大きな原子そのものの「運動量」、すなわち「外部自由度(空間的な運動状態)」におけるエンタングルメントの証明であった。
この「運動量エンタングルメント」が物理学界において熱望されてきた背景には、宇宙の根本法則を記述する二つの巨大な理論体系の間に横たわる、深い溝の存在がある。微小な世界を完璧に記述する「量子力学」と、広大な宇宙の重力や時空の歪みを記述するアインシュタインの「一般相対性理論」は、現在に至るまで数学的・概念的に統合されていない。重力は「質量」を持つ物体が時空を歪めることで生じる。しかし、量子力学によれば、質量を持つ粒子は「同時に複数の場所に存在する(複数の経路を同時に移動する)」という重ね合わせの状態をとることができる。ここで重大なパラドックスが生じる。もし質量を持つ原子が同時に二つの異なる経路を通っているならば、その原子が引き起こす重力(時空の歪み)は、一体どちらの経路に存在するべきなのだろうか。
この究極の問いに答えるためには、質量を持つ粒子が、外部空間を移動する「運動」のレベルで純粋な量子力学的状態(重ね合わせとエンタングルメント)を維持しているシステムを実験室で構築し、そこに重力がどのような影響を及ぼすかを精密に検証する必要がある。ANUのSean Hodgman博士率いる研究チームの成果は、まさにこの未踏の領域に踏み込むための強力なプラットフォームを完成させたことを意味している。
極限の冷却と物質波の衝突:ボーズ・アインシュタイン凝縮体が織りなす干渉
実験の舞台裏には、極めて高度な原子光学と冷却技術が存在する。研究チームが実験の対象として選択したのは、高い内部エネルギーを持つ「準安定ヘリウム4(4He*)」の原子であった。通常のヘリウム原子とは異なり、この準安定状態のヘリウムは、原子内部に約19.8電子ボルト(eV)という巨大なエネルギーを蓄えている。この特異な性質により、原子が検出器に衝突した際に電子を放出し、マイクロチャンネルプレートおよび遅延線検出器(MCP-DLD)と呼ばれる装置を通じて、単一原子の到達位置と時間を極めて高い空間的・時間的分解能で3次元的に記録することが可能となる。
実験は、約10万個のヘリウム原子を絶対零度(マイナス273.15度)の極限近くまで冷却し、「ボーズ・アインシュタイン凝縮体(BEC)」と呼ばれる特殊な状態に移行させることから始まる。BECとは、無数の原子が個別の熱運動を失い、最も低いエネルギー状態に落ち込むことで、集団全体が一つの巨大な「物質波」として振る舞う量子状態である。研究チームは磁気トラップ内でこのBECを生成した後、トラップを切り、重力によって原子雲を自由落下させた。

落下中の原子雲に対して、研究チームは特定の周波数を持つレーザー光のパルスを照射した。このレーザー光は、光子を吸収・放出させる「ブラッグ遷移」と呼ばれる物理プロセスを通じて、原子雲に特定の運動量を付与する。光の波が作る微細な干渉縞が「光の格子」として働き、物質波であるBECを異なる運動量を持つ複数のグループ(波束)にコヒーレントに分割・回折させるのである。
この光のパルスによって分割された原子の波束同士は、互いに空間をすり抜けながら衝突を果たす。このとき、「s波散乱」と呼ばれる低エネルギーの量子力学的な衝突プロセスが発生し、衝突した原子のペアは、元の波束の中心から見て互いに正反対の方向(反対の運動量)へと飛び出していく。無数のペアが散乱した結果、運動量空間においては、まるでシャボン玉のような美しい球状の「散乱ハロー(確率の雲)」が形成される。重要なのは、エネルギーと運動量保存の法則により、互いに反対方向へ飛び出したこの原子ペアが、強い相関関係を持つエンタングル状態にあるという事実である。

b: 続いて照射される「ブラッグ遷移パルス」によって、原子の集団(波束)が3つの異なる運動量グループ(0, -2k0, -4k0)にコヒーレントに分割される様子を描いている。分割されたグループが衝突することで、赤と青で示される2つの美しい球状の「s波散乱ハロー(エンタングルした原子ペアの確率の雲)」が形成される。
c: 生成されたハローから、反対方向に飛び出す原子ペア(エンタングル状態にあるペア)を抽出し、「Rarity-Tapster干渉計」と呼ばれる光学系のアナログに導く様子。レーザーパルス(ミラーとビームスプリッター)を使って原子の経路を曲げ・重ね合わせ、最終的に下部の検出器(MCP-DLD)の特定のウィンドウ(灰色のリング)で観測するまでの流れが示されている。
「Rarity-Tapster干渉計」が証明した非局所性
生成された運動量エンタングルメントの存在を証明するため、研究チームは「Rarity-Tapster(ラリティ・タプスター)干渉計」の物質波アナログと呼ばれる複雑な測定系を構築した。これはもともと、1990年代に光子ペアのエンタングルメントを証明するために考案された光学系を、重力下で落下する質量を持った「原子」に対して適用するという野心的な試みである。
ハローを形成して広がる原子ペアに対し、さらに巧妙に設計されたレーザーパルス(ミラーパルスとビームスプリッターパルス)を照射することで、研究チームは原子の軌道を曲げ、特定の運動量を持つ経路を干渉させた。この操作により、原子ペアが「経路Aを通って到達した」という可能性と「経路Bを通って到達した」という可能性が、量子力学的に見分けのつかない(区別不可能な)状態となり、重ね合わせが維持されたまま検出器へと導かれる。
検出器(MCP-DLD)に到達した数万回に及ぶ試行のデータを解析した結果、互いに反対方向に飛び出した原子ペアの同時検出確率が、レーザーパルスによって付与された位相に対して明確なサイン波状の干渉縞(アウトオブフェーズの振動)を描くことが確認された。この振動の振幅から導き出されたベル相関関数は、古典物理学の枠組みである「局所実在論(情報が光速を超えて伝わらず、隠れた変数によって結果があらかじめ決まっているとする理論)」に基づく予測の限界を明確に突破していたのである。
具体的には、非局所性の基準となる「ステアリング不等式」を用いて評価が行われた。実験データは、古典理論の上限値であるルート2(約1.414)を明確に上回る、1.752 ± 0.085という値を示した。約3.9シグマという高い統計的有意性で示されたこの結果は、実験室で観測された相関が、広範な局所的隠れた変数理論(LHV理論)では決して説明不可能な、純粋な量子力学的エンタングルメントに基づくものであることを強く裏付けるものだ。

研究を牽引したANUのSean Hodgman博士は、この結果の根源的な奇妙さについて次のように語っている。「空間的に離れた2つの原子がエンタングルしているとき、一方の原子に変化を加えると、それが即座にもう一方の原子に影響を与えます。これが世界の仕組みだとは、考えるほどにクレイジーなことです。しかし、我々はこれが現実の自然の性質であることを、原子の運動を用いて示してみせたのです」。
万物の理論への飛躍:「局所性の抜け穴」を越えて
今回の研究は、運動量におけるエンタングルメントを観測した歴史的快挙であると同時に、さらに深遠な探求へと向けた出発点でもある。論文の共著者であり博士課程研究者のYogesh Sridhar氏が「量子物理学が適用できる限界を押し広げ、さらに大きな現実の物体を用いて量子力学の理論をテストする道を切り開いた」と述べるように、この実験プラットフォームには無限の可能性が秘められている。
次なる最大の目標は、量子力学の非局所性を完全に証明する上で避けて通れない「局所性の抜け穴(Locality Loophole)」を完全に塞いだ状態での、CHSHベル不等式の完全な破れの観測である。局所性の抜け穴とは、2つの粒子の測定が空間的に十分に離れておらず、測定中に何らかの未知の信号が光速以下のスピードで互いに情報を伝達し合っている可能性を排除しきれない状態を指す。この抜け穴を塞ぐためには、原子ペアが測定される瞬間に、光の速度であっても互いに影響を及ぼし合えないほど「空間的に十分に離れている」必要がある。
研究チームの概算によれば、現在の1ナノ秒という検出時間分解能を考慮すると、原子ペアを少なくとも30センチメートル以上離れた状態で独立して位相制御し、測定を完了させなければならない。現在の検出器の直径は約8センチメートルであり、実験装置の大規模なスケールアップと、より長時間の自由落下を可能にする巨大な真空システムの構築が今後の課題として待ち受けている。しかし、ANUのチームはこの技術的ハードルを乗り越えるための具体的な道筋を既に見据えている。
さらに興味深いのは、このプラットフォームがもたらす究極の科学的展望である。研究チームは将来的に、質量の異なるヘリウムの同位体、すなわち「ヘリウム3(3He)」と「ヘリウム4(4He)」の原子間での運動量エンタングルメントの生成を構想している。質量の異なる二つの物体がエンタングルした状態で、重力場の中を自由落下しながら経路の重ね合わせを経験するとき、何が起こるのか。これは、アインシュタインの一般相対性理論の中核をなす「弱い等価原理(すべての物体は質量に関係なく同じように落下する)」を、純粋な量子状態の物体を用いてテストするという、前代未聞の実験となる。
重力が量子システムにおける「デコヒーレンス(量子状態の崩壊)」にどのように関与しているのか、そして時空の曲率が重ね合わせ状態にある粒子の干渉にどのような位相シフトをもたらすのか。ANUの研究チームが切り開いた「運動量エンタングルメント」の技術は、物理学者たちが長年夢見てきた「万物の理論(Theory of Everything)」の実験的検証という、知的探求の壮大なフロンティアへと人類を導く確かな羅針盤となるだろう。
論文
参考文献