1920年代にDuesenbergの市販車で初めて油圧ブレーキが採用されて以来、自動車の制動システムは基本的に同じ物理的アプローチを踏襲してきた。ドライバーがブレーキペダルを踏み込むと、マスターシリンダーが油圧を発生させ、ブレーキラインを通じて各車輪のキャリパーへ圧力を伝達する。キャリパー内のピストンが押し出され、ブレーキパッドをローターに押し付けることで摩擦を生み出し、車両を減速させる。都市向けの小型ハッチバックや重量級のSUV、高性能なスーパーカーにおいても、この基本原理は共通している。
自動車の歴史において、ドラムブレーキからディスクブレーキへの移行、ABS(アンチロック・ブレーキ・システム)の義務化、電子制御制動力配分システム(EBD)の導入など、安全性を高めるための技術的な進化は絶え間なく続いてきた。しかし、運転者の意図を車輪の制動力として伝達する中核的な媒体は、常にブレーキフルード(作動油)という物理的な液体であった。
今回、イタリアの高性能ブレーキシステムメーカーであるBremboが量産を開始した「Sensify」は、長年の油圧への依存を断ち切る新たな技術プラットフォームである。機械的・物理的な制約から解放された制動システムは、自動車のシャシー制御に新たな可能性をもたらす。
Sensifyのアーキテクチャと完全電子化
Sensifyの最大の特徴は、ブレーキフルードや油圧回路といった旧来のコンポーネントを完全に排除した「ドライ・バイ・ワイヤ」アーキテクチャにある。物理的な油圧回路の代わりに、ペダル入力を検知するセンサー群と、演算を担うECU(電子制御ユニット)、各車輪へ直接マウントされた電動アクチュエーター(モーター)によってシステムが構築されている。
ドライバーの足元にはペダルシミュレーターが設置され、従来の油圧ブレーキと同等の踏力や反力を人工的に再現する。ドライバーがペダルを踏むと、その入力は即座にデジタル信号に変換され、ネットワーク経由でECUへ送信される。ECUは車両の各種センサーが取得した動的データをミリ秒単位で解析し、4輪それぞれにその瞬間に必要な最適な制動力を計算する。その後、各車輪のキャリパーに内蔵されたモーターがギアを介してブレーキパッドをローターに押し付ける。
この各輪独立制御は、既存の油圧システムにおける制動力配分とは一線を画す。従来のABSは、油圧の減圧・保持・増圧をソレノイドバルブの開閉で制御するため、ペダルへのキックバック(振動)や制動力の断続的な抜けが発生する。Sensifyは電気モーターによる連続的かつ緻密なトルク制御を行うため、物理的なキックバックを排除し、タイヤのロック限界ギリギリの制動力を滑らかに維持する。これにより、左右で摩擦係数が異なるスプリットμ路面において、車両の姿勢を乱すことなく安全な停止が可能となる。
ソフトウェア定義型自動車(SDV)との高度な統合

現在の自動車産業がソフトウェア定義型自動車(SDV)へと移行する中で、制動システムのデジタル化は求められる技術要件である。Sensifyは、プラットフォームレベルで車両のデジタルアーキテクチャに直接統合される設計を持つ。
電気自動車(EV)において、モーターによる回生ブレーキと摩擦ブレーキのシームレスな協調(ブレンディング)は大きな課題であった。既存のハイブリッドシステムやEVでは、回生から摩擦へ切り替わる際のトルク変動が、運転の違和感やカックンブレーキに繋がることがある。Sensifyはソフトウェア側でこの切り替えをマネジメントする。ドライバーの要求減速度に対し、車両のバッテリー残量やモーターの回生能力をリアルタイムで判断し、足りない分だけを各輪の摩擦ブレーキで補うため、エネルギー回生効率を最大化しつつ滑らかな減速を実現する。
OTA(Over-The-Air)アップデートによる制動特性の事後変更も可能になる。新車購入後であっても、ソフトウェアの更新によってブレーキの初期応答性やペダルフィールを調整できる。ソフトウェアの記述のみで、スポーツ走行から市街地走行まであらゆる状況に最適化された複数の制動特性を実装できる。
ADAS(先進運転支援システム)や完全自動運転技術との連携においても、Sensifyの優位性は明確である。油圧システム特有の流体抵抗による応答遅れが存在しないため、システムが危険を検知してから実際にパッドがローターを挟み込むまでの時間が大幅に短縮される。このミリ秒単位の応答速度の向上が、高速走行時のエマージェンシーブレーキにおける空走距離を物理的に減少させ、衝突回避の可能性を大きく高める。
メンテナンスフリー化と環境負荷の低減
油圧システムの排除は、車両の運用面や環境負荷低減に大きく寄与する。ブレーキフルードは吸湿性があり、長期間使用すると沸点が低下してベーパーロック現象を引き起こす危険性があるため、定期的な交換が必要であった。また、ブレーキパッド交換時やエア噛み発生時のフルード交換・空気抜き(エア抜き)といった煩雑なメンテナンス作業が不可欠であった。Sensifyはこれらのフルード関連のメンテナンスを完全に不要にする。
環境面において、Sensifyは車両の走行抵抗の削減に寄与する。従来の油圧ブレーキキャリパーは、ピストンのシールゴムの戻り量に依存しているため、ペダルを離した状態でもパッドとローターがわずかに接触する「引きずり(ドラッグ)」が発生しやすい。これが常時走行抵抗となって燃費や電費を悪化させていた。Sensifyの電動アクチュエーターは、非制動時にモーターを逆回転させ、パッドをローターから物理的に引き離す制御が可能である。これにより機械的な走行抵抗を低減する。
摩擦の減少はブレーキダストの発生抑制にもつながる。また、電動パーキングブレーキの機構が同一のアクチュエーター内に統合され、バネ下重量の軽減と車両全体のパッケージング効率向上に寄与する。
匿名の大手メーカーと今後の業界動向
Bremboは、このSensifyを「世界的な大手自動車メーカー」の量産プログラムにおいて標準装備として納入を開始したと発表した。具体的なメーカー名や搭載車種は厳格な機密保持契約によって伏せられているものの、オプション設定ではなく全車両に標準搭載され、年間数十万台規模での供給を予定しているという。過去のテスト車両にはTesla Model 3が使用されていた事実があるが、Sensifyは高度な電子プラットフォームを持つ内燃機関車への搭載も可能なアーキテクチャである。
この技術の市場投入は、自動車業界に構造的な変化をもたらす。先行して市場投入されているステアバイワイヤに続き、ブレーキバイワイヤが完全な形で実用化されることは、ドライバーの物理的な身体操作と車両の機械的な挙動を完全に切り離すことを意味する。シャシー制御全体が流体力学の領域からデジタル信号とソフトウェアの領域へと移行し、自動車の動的性能がコードの記述によって定義される時代が本格的に到来したことを示している。