ビデオゲーム産業の基盤技術であるゲームエンジン市場は現在、米国のEpic Gamesが提供するUnreal Engineと、Unity Technologiesが提供するUnityによって事実上の複占状態にある。これらの汎用エンジンは高度なグラフィックスレンダリング機能と開発ツールセットを提供し、世界中のスタジオのゲーム開発を支えている。しかし、基盤技術の特定の地域や企業への過度な依存は、長期的な技術的自立性やデータの取り扱いにおいて潜在的なリスクをはらんでいる。
この現状に対して新たな選択肢を提示したのが、オランダのゲーム業界における重鎮であるArjan Brussee氏だ。1990年代にEpic Gamesで「Jazz Jackrabbit」のプログラミングを手がけ、2003年にはGuerrilla Gamesを共同創設して「Killzone」シリーズの制作を主導した経歴を持つ。さらに、Boss Key Productionsの設立を経て、2018年から2023年にかけてはEpic Gamesに復帰し、Unreal Engineのプロダクトマネジメント担当グローバルディレクターを務めた。
複数世代にわたるゲームエンジンの進化の最前線に立ってきたBrussee氏は現在、母国オランダに戻り、新たなスタートアッププロジェクト「The Immense Engine」の開発に着手している。このプロジェクトの最大の眼目は、完全に欧州内でホスティングされ、欧州の開発者によって構築され、欧州の厳格なデータ保護規則やガイドラインに完全準拠するプラットフォームを提供することにある。特定の国家や巨大テック企業に依存しない、技術的な主権を担保した開発環境の構築を目指している。
エンターテインメントの枠を越える3Dシミュレーション需要
ゲームエンジンの適用範囲は近年、娯楽目的のゲーム開発という本来の領域を大きく飛び越えつつある。リアルタイムの3Dレンダリング能力と物理シミュレーション技術は、多様な産業で不可欠なインフラとして認識され始めている。
Brussee氏がオランダのポッドキャスト番組「De Technoloog」で語ったところ[1]によれば、実用的な3D空間の構築需要は加速度的に高まっている。具体的な応用先としては、防衛産業における戦術シミュレーションや、物流業界におけるサプライチェーンの可視化、あるいは都市計画や大規模土木プロジェクトにおけるデジタルツインの構築などが挙げられる。
これらの非エンターテインメント領域のプロジェクトでは、ゲーム開発以上に厳密なデータの取り扱いと堅牢なセキュリティインフラが要求される。特に政府機関や地方自治体が主導する公共性の高いプロジェクトにおいて、米国のサーバーを経由したり、中国資本の関与するプラットフォームを利用したりすることは、情報漏洩や安全保障上の懸念に直結する。
欧州においては近年、一般データ保護規則(GDPR)やAI法(AI Act)といった世界で最も厳格な法規制が施行されており、防衛や物流などのセンシティブなデータを扱う領域で米中企業のプラットフォームを利用することへの警戒感が高まっている。The Immense Engineが欧州のデータルールに完全準拠することを強調している背景には、既存のゲームエンジンではコンプライアンス要件を満たしきれない公共・産業セクターの潜在需要を戦略的に取り込む意図がある。
マウス駆動型レガシーエンジンの構造的限界

新しいエンジンの開発にあたり、Brussee氏は現在主流となっている既存のゲームエンジンの構造に対して技術的な観点から鋭い指摘を行っている。彼はかつて1990年代に「Jazz Jackrabbit」を少人数で構築し、その後「Killzone」のような大規模プロジェクトで数百人規模の開発体制と肥大化するアセットパイプラインの管理を最前線で経験してきた。さらに近年はUnreal Engineの内部構造を熟知する立場にあったからこそ、旧来のアーキテクチャが抱える限界を正確に把握している。Unreal Engineに代表される既存のツール群は、数十年間にわたって機能が継ぎ足されてきた数百万行のコードベースで構成されており、巨大で硬直化した建築物のような構造をしている。
これらのエンジンは基本的に、開発者がマウスを使ってメニュー階層を遷移し、一つひとつのパラメーターを手動で設定・変更していくワークフローを前提に設計されている。グラフィカルなユーザーインターフェースを通じて視覚的に操作できる点は直感的である反面、システムの深部で何か根本的な仕様変更を行おうとした場合、エンジン全体のアーキテクチャに手を加える必要が生じる。
現在、多くの開発スタジオがAI技術の導入を進めているが、既存のエンジンに対してAIは後付けのレイヤーとして追加される形をとらざるを得ない。根底の設計思想が「人間によるマニュアル操作」に最適化されているため、自動化やAIによるプロシージャルな生成処理を組み込もうとしても、エンジン側の構造的な制約がボトルネックとなる。長年にわたって継ぎ足されてきた巨大なコードベースは、急速に進化するAI技術を柔軟に取り込むにはあまりにも硬直化している。
ネイティブAIアーキテクチャとモジュール型エージェント
The Immense Engineが掲げる最大の技術的革新は、システムのコア部分にAIを統合した「ネイティブAI」アーキテクチャの採用にある。このアプローチは既存のエンジンにAIツールを追加するのではなく、エンジンそのものの構築や制御をAIエージェントの介入を前提として再設計することを意味する。
Brussee氏はAIを「無限のジュニアプログラマーの軍隊」と表現している。人間の開発者が膨大な時間を費やしていた反復的で労働集約的なコーディング作業やアセットの配置、パラメータの調整などを、AIエージェントに委譲する仕組みをエンジンレベルで実装する。
さらに、The Immense Engineは高度なモジュール性を備えている。AnthropicのClaudeやOpenAIのChatGPTといった外部のLLM(大規模言語モデル)やAIエージェントを、エンジンの内部モジュールとして動的に接続・連携させる設計を採用している。AIモデルの開発スピードは現在、ソフトウェアの更新サイクルをはるかに凌駕する速度で進行している。特定のAIモデルをエンジン内部にハードコーディングしてしまうと、すぐに技術的に陳腐化してしまうリスクがある。外部のAIエージェントをモジュールとしてプラグインのように扱える構造にすることで、最新のAI技術が発表された際に即座に環境へ統合し、常に最先端の生成AIの恩恵を享受し続けることが可能になる。
分散型開発リソースの最適化と今後の展望
優れたAIフレームワークとエージェントシステムを効果的に稼働させることで、開発現場の労働生産性は飛躍的に向上する。Brussee氏の試算によれば、このシステムを活用することで、少数のエンジニアが従来の10人から15人分の作業量をこなすことが可能になるという。
この変化は作業の効率化を超え、開発スタジオの組織構造やコンテンツ制作のパラダイム自体を根本から再定義する。これまで数百人のスタッフと多額の予算を必要としていたAAAクラスの大規模な3D世界の構築が、より少人数の精鋭チームで実現できるようになる。ゲーム開発におけるリソース配分は、アセットの手動による大量生産から、AIエージェントに対する的確なプロンプト設計やアーキテクチャ全体の管理へと急速にシフトしていく。
現時点において、The Immense Engineの具体的な機能仕様やリリース時期に関する詳細な情報は公開されていない。また、長年にわたって市場を支配し、強固なエコシステムを築き上げているUnreal EngineやUnityの牙城を崩すことは決して容易な挑戦ではない。
しかし、Brussee氏の取り組みは、現在のゲーム開発が直面している複数の重要課題に対する明確な回答を提示している。エンターテインメント領域外への3D技術の適用やデータ主権の確保など、The Immense Engineが掲げるアーキテクチャの方向性は、業界全体の今後の技術動向と軌を一にするものだ。グラフィックスの向上やパフォーマンスの最適化といった従来の競争軸とは異なるアプローチをとるThe Immense Engineの登場により、3Dエンジンプラットフォームの新たな開発競争が始まろうとしている。