Googleが、気象予測の世界、特に私たちの生活を脅かす熱帯低気圧(ハリケーンや台風)の予測精度を劇的に向上させる、新しいAIモデルを発表した。この技術は、従来の予測モデルが長年抱えてきた根本的なジレンマを、驚くほどエレガントな方法で解決する可能性を秘めている。
なぜ従来の天気予報は「嵐の全体像」を捉えきれなかったのか?
このニュースの核心を理解するには、まず一つの比喩から始めるのが良いだろう。気象予測の世界を、巨大な森を調査する二人の専門家に例えてみよう。
Googleの研究者が説明するように、熱帯低気圧の「進路」は、数千キロメートルに及ぶ広大な大気の流れ、いわば地球規模の「風の川」によって決まる。これを正確に予測するには、地球全体を俯瞰するような、広域・低解像度のシミュレーションが適している。これが「鳥瞰の専門家」の視点だ。彼は、森の中をどちらの方向へ大きな風が吹いているか、つまり嵐の全体的な「進路」を予測するのが得意だ。しかし、遥か上空からでは、森の中の一本一本の木がどれほどの強さで揺さぶられているのか、その詳細な「勢力」までは分からない。
一方で、嵐の「勢力」、つまり風速がどれだけ増すか、中心気圧がどれだけ下がるかといった変化は、嵐の中心にある直径数十キロメートルの「コア」と呼ばれる領域で起こる、極めて複雑で激しいエネルギーの交換(乱流プロセス)に依存する。これを捉えるには、その一点で何が起きているかを詳細に計算する、局所・高解像度のシミュレーションが必要となる。これが「現場の専門家」の視点である。だが、森の中にいては、森全体を吹き抜ける風の大きな流れ、つまり嵐がどこへ向かっているのかという「進路」の全体像を把握するのは難しい。
これこそが、従来の気象予測が抱えていたジレンマである。嵐の「進路」と「勢力」は、異なるスケールの物理現象に支配されているため、両方を同時に高い精度で予測できる単一のモデルを作ることは極めて困難だったのだ。しかし、Google DeepMindが開発した新しいAIは、この「鳥瞰の専門家」と「現場の専門家」の能力を、一つの知性の中に統合することに成功したのである。

AIの「両利き」を可能にした、二種類の知恵の源泉
では、GoogleのAIは、いかにしてこのトレードオフを乗り越えたのだろうか。その秘密は、AIが学んだ「2種類のデータ」にある。このAIは、いわば「歴史学者」と「現場ジャーナリスト」という二つの顔を持つことで、異なるスケールの知恵を同時に獲得したのだ。
1. 「歴史学者」の知恵:過去45年、約5000個のサイクロンの伝記を読む
まず、AIは「歴史学者」として、過去45年間に発生した約5,000個もの熱帯低気圧の完全な記録(IBTrACSと呼ばれるデータベース)を徹底的に学習した。これは、一つ一つの嵐がどこで生まれ、どのような経路を辿り、どのように発達・衰退していったかという、いわば「サイクロンの伝記」の全集を読み込んだようなものだ。
この学習を通して、AIは熱帯低気圧という現象が持つ典型的なパターンや「一生」を理解した。どのような海域で発生しやすいのか、どのような大気の状態の時に急発達する傾向があるのか、といった経験則や知見を、膨大なデータの中から自ら見つけ出したのだ。これが、嵐の全体像を捉える「鳥瞰の視点」の基礎となっている。
2. 「現場ジャーナリスト」の知恵:地球全体の天気をリアルタイムで記録する
次に、AIは「現場ジャーナリスト」として、地球全体の過去の気象状況を極めて高い解像度で再構築したデータ(ERA5再解析データ)を学習した。これは、世界中の何百万もの観測データから、過去のあらゆる地点の気温、気圧、風、湿度などを復元した、いわば「地球の気象日誌」だ。
この学習により、AIは、ある瞬間の大気の状態が、次の瞬間にどのように変化するのかという、根源的な物理法則をデータから直接学んだ。特に、嵐のコアで起こる微細なエネルギーのやり取りが、勢力にどう影響を与えるかという複雑な関係性を捉える能力を身につけた。これが、嵐の細部を捉える「現場の視点」を支えている。
この「歴史の大きな流れ」と「現場の物理法則」という二つの異なる知恵を単一のニューラルネットワークに統合することで、GoogleのAIは、進路と勢力という異なるスケールの現象を同時に、かつ高精度に予測する「両利き」の能力を手に入れたのである。
驚異的な成果:「10年分の進化」を1年で達成する精度
この新しいAIモデルがもたらした成果は、まさに驚異的だ。
Googleが公開した内部テストの結果によると、このAIの5日先の進路予測は、現在世界最高峰とされる欧州中期予報センター(ECMWF)の物理ベースモデル(ENS)と比較して、平均で140キロメートルも誤差が小さいという。
これは、ECMWFモデルの3.5日先の予測精度に匹敵する。つまり、予測精度が1.5日分も向上したことを意味する。気象予測の世界では、このような進歩には通常10年以上かかると言われており、その進化のスピードがいかに異常であるかが分かるだろう。
さらに驚くべきは、AIが苦手とされてきた「勢力」の予測においても、米海洋大気庁(NOAA)が運用する最先端の高解像度ハリケーン予測モデル(HAFS)を上回る精度を示したことだ。
この能力が現実世界でいかに重要かを示す象徴的な事例が、2023年にメキシコを襲ったハリケーン「オーティス」だ。オーティスは、多くの従来の予測モデルが「弱い勢力を保つ」と予測していたにもかかわらず、上陸直前に歴史的な急発達を遂げ、壊滅的な被害をもたらした。Googleがこの事例を国立ハリケーンセンター(NHC)の専門家に見せたところ、「もし当時このAIモデルがあれば、オーティスの潜在的な危険性について、より早期に警告を発せられた可能性があっただろう」とのコメントが得られたという。
未来を一つに定めないAIの賢明さ:50の可能性を描き出す
このAIのもう一つの重要な特徴は、単一の未来を予測するのではなく、「起こりうる50通りのシナリオ」を同時に描き出す点にある。これは「アンサンブル予測」と呼ばれる手法で、気象現象が持つ本質的な不確実性を考慮した、より賢明なアプローチだ。
これを可能にしているのが、「Functional Generative Networks (FGN)」と呼ばれる技術だ。難解に聞こえるが、その発想は美しいほどシンプルだ。
想像してみてほしい。AIの内部に、「想像力の源」となるわずか32個のサイコロがあると。AIは、この32個のサイコロを一度振るたびに、少しずつ異なる、しかし物理的にあり得る一つの未来の天気を描き出す。これを50回繰り返すことで、50通りの「あり得る未来」のアンサンブルが生成される。
この「32個のサイコロ」という極めて少ないパラメータで全体の変動をコントロールする仕組みこそが、鍵だ。これにより、生成される50のシナリオは、それぞれがバラバラで矛盾したものではなく、地球全体の気象として一貫性を保ったまま多様性を持つことができる。このエレガントな制約こそが、AIに現実的な範囲で多様な未来を「想像」させることを可能にしているのである。
さらに、この予測生成にかかる時間は、たったの1分。スーパーコンピュータで何時間もかけて計算する従来のモデルとは比較にならないほどの効率性も、このAIの大きな強みだ。
開かれた科学へ:「Weather Lab」の公開と専門家との連携
Googleは、この画期的な技術を研究室の中に留めておくつもりはない。同社は「Weather Lab」と名付けたインタラクティブなWebサイトを立ち上げ、このAIモデルによる予測データを研究者や専門家向けに公開した。
さらに重要なのは、米国の国立ハリケーンセンター(NHC)との公式な提携だ。現在進行中のハリケーンシーズンにおいて、NHCの予報官は、従来の物理モデルの予測と並行して、この新しいAIの予測をリアルタイムで参照している。これは、最先端のAI研究が、人々の命を守るための社会実装へ向けて、大きな一歩を踏み出したことを意味する。
Google DeepMindの研究者は、「気象は公共財である」と語る。この技術をオープンにし、公的機関と連携することで、社会全体に貢献したいという姿勢が伺える。
この新しいAIの登場は、単なる気象予測の精度向上に留まらない。それは、人間や従来の計算手法が直面してきた「視点の限界」や「スケールの壁」を、AIがいかにして乗り越えることができるかを示す、力強い実例である。これは、気象学だけでなく、複雑なシステムを理解しようとするあらゆる科学分野に、新たな光を当てるものかもしれない。私たちは今、AIがもたらす科学革命の、まさに最前線を目撃しているのだ。
論文
- Google DeepMind: Skillful joint probabilistic weather forecasting from marginals
参考文献
- Google DeepMind: How we’re supporting better tropical cyclone prediction with AI