自然界には、私たちの直感を裏切るような奇妙な物質の状態が存在する。その代表格が「時間結晶(Time Crystal)」だ。2026年1月28日、Nature Communications 誌に掲載された研究論文は、量子力学の歴史に新たな一ページを刻んだ。Basque Quantum (BasQ)、NIST(National Institute for Standards and Technology)、そして IBM の研究チームが、IBM の最新量子プロセッサ「IBM Quantum Heron」を用い、144量子ビットという前例のない規模で、極めて複雑な「2次元時間結晶」を構築することに成功したのである。
この成果は、単に新しい物質の状態を観測したというだけにとどまらない。量子コンピュータと古典的なハイパーパフォーマンスコンピューティング(HPC)を融合させる「量子中心スーパーコンピューティング(Quantum-Centric Supercomputing: QCSC)」という新たなパラダイムが、実用的な科学探究のフェーズに入ったことを雄弁に物語っている。
時間結晶とは何か:空間から時間へと広がる秩序
結晶と聞いて私たちが思い浮かべるのは、雪の結晶、ダイヤモンド、あるいは食塩の粒だろう。これら「通常の結晶」は、原子や分子が空間内で規則正しく並び、繰り返しのパターン(周期性)を形成している。物理学の言葉で言えば、これらは「空間並進対称性の自発的破れ」によって生じる。
しかし、2012年にノーベル物理学賞受賞者の Frank Wilczek によって提唱された「時間結晶」は、空間ではなく「時間」においてこの周期性が現れる。通常の物質は、外部からのエネルギー供給がない平衡状態では変化を止めるが、時間結晶は平衡状態から外れた「非平衡状態」においてのみ存在し、外部からの周期的な刺激(エネルギーの注入)に対して、独自の安定したリズムで反応し続ける。
例えば、あるリズムでエネルギーを注入すると、システムの量子的なスピンが「カチッ、カチッ」と一定の周期で反転を繰り返す。驚くべきは、その反転の周期が注入されたエネルギーの周期と完全には一致せず、例えば「2回に1回」といった独自の安定したサイクルにロックされる点だ。これは、量子情報が外部のノイズによってかき消される(デコヒーレンス)という一般的な予測に反し、システムが元の量子状態のシグネチャーを保持し続けることを意味している。
1次元の鎖から2次元の網目へ:次元の壁を突破した IBM Heron
時間結晶の実験的成功はこれまでにもいくつか報告されてきたが、そのほとんどは「1次元」の構造、すなわち原子や量子ビットが一直線に並んだ「鎖」のような形態に限られていた。1次元の時間結晶は比較的制御が容易だが、現実世界の物質の多くは3次元であり、その複雑な相互作用を理解するためには、少なくとも2次元への拡張が不可欠だった。
しかし、次元を増やすことは、計算複雑性を爆発的に増大させる。2次元構造における多体システムの相互作用は、古典的なコンピュータによるシミュレーションでは到底追いつけないほど複雑になるからだ。
ここで登場するのが、IBM の第2世代量子プロセッサである Heron チップだ。Heron は、外部の熱やノイズから高度に隔離され、極めて高いコヒーレンス(量子状態の維持能力)を誇る。研究チームは、このチップ上に配置された144個の超伝導量子ビットを使い、ハニカム構造(蜂の巣状)に近い連動パターンを形成させ、2次元の時間結晶を作り上げた。

重要なのは、これが単なる「シミュレーション」ではないという点だ。量子ビットそのものが量子的な性質を持つオブジェクトであるため、研究者は量子ビットを「原子」の代わりとして使い、実際に新しい物質の相を「物理的に構築」したのである。BasQ の研究員であり論文の共著者である Nicolás Lorente氏は、「次元は重要だ。1次元で整列するのと2次元で整列するのは全く別物であり、サイズ(規模)も同様に重要だ」と、今回の2次元化と大規模化の意義を強調している。
「無秩序」が秩序を支える:時間結晶の堅牢性
今回の研究で明らかになった興味深い側面の一つが、システム内の「無秩序(Disorder)」の役割だ。一見すると、完全な秩序こそが安定した結晶を作るように思えるが、時間結晶においては適度な無秩序がシステムを安定化させるために必要となる。
エネルギーがシステムに注入され続ける中で、特定の量子状態が熱化(エネルギーが均一に分散して情報が失われること)するのを防ぐためには、無秩序が「壁」のような役割を果たし、量子情報を局在化させる必要がある。しかし、この無秩序が強すぎると時間結晶は粉々に砕けてしまう。
研究チームは、144量子ビットという大規模なシステムにおいて、どれほどの無秩序までなら時間結晶が安定性を維持できるかをテストした。これは、古典的なシミュレーションでは計算不能な領域であり、IBM Quantum Heronという実機があって初めて可能になった探索である。
量子中心スーパーコンピューティング:量子と古典の協奏
今回の成果のもう一つの核心は、量子コンピュータが単独で動いているのではないという点にある。研究チームは、量子コンピュータから得られた結果の正確性を検証するために、最先端の古典的計算手法である「テンソルネットワーク(Tensor Network)」と「信念伝搬法(Belief Propagation)」を駆使した。
量子計算は非常に巨大なテンソル(多次元のデータ配列)として表現されるが、これらは古典コンピュータで扱うにはあまりに巨大すぎる。テンソルネットワーク手法は、この巨大なテンソルを、精度をわずかに犠牲にしつつも管理可能な小さなテンソルの集合へと分解し、古典コンピュータで近似的な計算を可能にする技術だ。
IBM が提唱する「量子中心スーパーコンピューティング(QCSC)」のパラダイムでは、量子コンピュータ(QPU)と古典的な CPU、さらには GPU が緊密に連携する。今回の研究では、古典的な手法を用いて量子回路の実行を洗練させ、新たな「エラー軽減(Error Mitigation)」手法を実装することで、量子計算結果の精度を向上させ、不確実性の境界を押し広げた。
NISTの理論物理学者である Eric Switzer氏は、「これほど大規模なものを探索するためには、どうしても量子システムが必要だった」と語る。一方で、その結果を解釈し、検証し、ノイズを取り除くためには、古典的なスパコンの力が不可欠だったのである。
科学の新たな道具箱:材料科学から量子センサーまで
2次元時間結晶の実現は、単なる基礎物理学の好奇心を満たすだけのものではない。この技術は、以下のような広範な科学分野に応用される可能性を秘めている。
- 材料科学の進化: 粒子のスピンが互いに影響を及ぼし合う「ハイゼンベルク型相互作用」の理解を深めることができる。これは、次世代の磁性材料や超伝導材料の開発に直結する。
- ナノテクノロジー: 単分子磁石や金属鎖、量子ドットベースのアーキテクチャなど、ナノスケールの半導体技術において、量子状態を安定して制御するための知見を提供する。
- 量子センサー: 今回の研究成果は、生体内の微弱な磁気を測定するダイヤモンド量子センサーのような、極めて高精度な測定機器の改良にもつながると期待されている。
次なる挑戦:IBM Quantum Nighthawk とその先へ
研究チームはすでに、次なるステップを見据えている。それは、IBM の次世代チップ「IBM Quantum Nighthawk」を用いた、さらに複雑な時間結晶の構築だ。

Heron チップでは量子ビットが2つ、あるいは3つの隣接ビットと接続されていたが、Nighthawk では最大4つの隣接ビットと接続される「より高い結合性」を持つ。接続性が増すことは、システム内の相互作用が指数関数的に複雑になることを意味し、まだ誰も見たことのない新たなダイナミクスを観測できる可能性がある。
また、古典側の計算を加速させるために GPU をどのように活用するかという点も、QCSC の進化において重要なテーマとなっている。
量子コンピュータは「科学発見のエンジン」へ
かつて、量子コンピュータは「いつか実現する夢の技術」だった。しかし、今回発表された研究は、量子コンピュータがすでに「現代の科学者が未知の物理現象を探索するための実用的な道具」になったことを証明している。
144量子ビットの2次元時間結晶という、古典的なシミュレーションの限界を超えた領域への到達は、量子コンピュータが特定のアルゴリズムを解くだけでなく、新しい物質を創り出し、自然界の最も深い謎を解き明かすための「キャンバス」であることを示している。量子と古典が融合するスーパーコンピューティングの未来は、いま、この時間結晶の鼓動とともに動き出している。
論文
- Nature Communications: Realization of two-dimensional discrete time crystals with anisotropic Heisenberg coupling
参考文献



