エルヴィン・シュレディンガーが「生きていると同時に死んでいる猫」という奇妙な思考実験を世に放ったとき、彼の主眼は量子力学の微視的な法則をマクロな世界に適用した際の「不条理さ」を指摘することにあった。しかし、それから約1世紀が経過した現在、物理学者たちはその不条理さを実験室で飼い慣らし、量子コンピューティングや超精密センシングの強力なツールとして利用している。

これまでの実験室における「猫状態」は、光の波束やイオンの振動といった調和振動子を用いて、物理空間の「右に振れる」と「左に振れる」という古典的な運動に近い状態を2つ重ね合わせることで実現されてきた。これは確かに偉大な飛躍であった。だが、量子テクノロジーがさらなる計算の複雑さとノイズ耐性を求めるようになるにつれ、2つの古典的な波束の重ね合わせだけでは表現力に限界が生じつつあった。

2026年6月、オックスフォード大学クラレンドン研究所の研究チームは、学術誌『Physical Review X』において、このパラダイムを根本から書き換える成果を発表した。彼らは、あらかじめ極限まで「圧搾(スクイーズ)」された非古典的な量子状態同士を、まるで粘土をこねるように任意の形状に重ね合わせる手法を実証したのである。研究者たちが「彫刻(sculpting)」と呼ぶこのアプローチによって生み出された新しい状態群は、シュレディンガーの猫の概念的進化形として「兄弟猫状態(sibling cat states)」という呼び名を与えられている。この成果は、量子の世界の地形図に全く新しい大陸を発見したに等しい。

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コインから無限のパレットへ。計算空間の拡張と直面する壁

現代の量子コンピューター開発において支配的なアプローチは、0と1の重ね合わせという「2準位系(量子ビット)」を情報処理の基本単位に据えることである。この方式は制御が容易である反面、大きな壁に直面している。ノイズによるエラーを訂正するためには、1つの論理的な情報を守るために何千もの物理的な量子ビットを過剰に用意し、複雑なネットワークを構築せねばならない。

この物理的な制約を打破する代替案として注目を集めているのが、量子調和振動子を用いた連続量(continuous-variable)量子計算である。調和振動子とは、振り子やバネのように規則的な周期で運動する系のことだ。2準位の量子ビットが「表か裏か」のコインだとすれば、調和振動子は無限に広がるグラデーションを描ける巨大なパレットに例えられる。この広大なエネルギーレベルの空間(ヒルベルト空間)を利用すれば、単一の振動子のなかに冗長性を持たせ、たった1つの物理デバイスでエラー訂正機構を組み込むことが可能になる。

これまでに、この調和振動子を用いて「標準的な猫状態」や、格子状の干渉パターンを持つGKP(Gottesman-Kitaev-Preskill)状態が作り出され、一定の成功を収めてきた。しかし、これらを構成する基本要素は、自然界の通常の振る舞いに近い「コヒーレント状態」という古典的な波束であった。波束の形自体が平坦なため、複雑なエラーを検知して補正するための「対称性」を十分に組み込むことが難しいという課題が残されていた。

さらに高度なエラー訂正や、古典コンピューターでは模倣不可能な量子アルゴリズムを実行するためには、構成要素そのものが強烈な量子的性質を帯びている必要がある。風船を一方向から強く握りしめると、狭められた方向の位置は極限まで正確に決まる反面、もう一方の方向へ激しく膨張する。これが「スクイーズド状態(圧搾状態)」と呼ばれる非古典的状態の概念である。研究者たちは、このスクイーズド状態や、さらに複雑なトリスクイーズド状態(3方向への圧搾)を自由に組み合わせた重ね合わせ状態の創出を目指してきたが、それを実現するための強力で精密な「メス」が存在しなかった。

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ストロンチウムイオンの運動を用いたトリスクイーズド状態(3回対称の圧搾状態)の重ね合わせを示すWigner関数。中央に見られる6方向へ広がる星型の模様と、その周囲に広がる青い領域(負の確率分布)は、この状態が古典物理学では決して説明できない強烈な量子干渉を起こしていることを視覚的に証明している。(Credit: S. Saner et al., Physical Review X (2026). DOI: 10.1103/k1xk-yt42)

もつれと切断の芸術。中間回路測定が彫り出す幾何学模様

オックスフォード大学のチームが採用した解決策は、トラップド・イオン(捕獲イオン)プラットフォームにおける「中間回路測定(mid-circuit measurement)」の巧妙な適用であった。彼らは、真空中に電磁場で浮かべた単一のストロンチウム88イオンを用いた。このイオンは、2つの異なる量子の顔を持っている。1つは内部の電子状態(スピン)であり、もう1つは空間を揺れ動く物理的な運動状態(調和振動子)である。

彼らのプロセスは、大理石のブロックから彫刻を削り出す作業に似ている。まず、特定のレーザー光(スピン依存力)をイオンに照射し、イオンの「スピンの向き」と「運動の仕方」を強く結びつける(エンタングルメント)。例えば、スピンが「上」なら振動は縦方向にスクイーズされ、スピンが「下」なら横方向にスクイーズされる、という具合に設定する。ここまでは従来のハイブリッド系の制御の延長線にある。

最大のブレイクスルーは、この複雑に絡み合った状態のまま計算を終わらせず、中途半端な段階で「スピンだけを観測する」という手法を取り入れた点にある。量子力学の冷酷な掟によれば、観測を行うと重ね合わせは崩壊し、状態は1つに確定する。チームはスピンの状態だけを観測し、運動状態への直接的な破壊を免れるようにシステムを設計した。特定の光を当てて蛍光を放つかどうかをわずか200マイクロ秒で読み取ることで、スピン状態を「切り離し」、運動状態を望み通りの非古典的な重ね合わせへと強制的に射影(プロジェクション)したのである。

この実験的手法により、チームはスクイーズド状態(相互作用の次数 $k=2$)や、より複雑なトリスクイーズド状態($k=3$)の重ね合わせを意のままに生成することに成功した。さらに実験ではクアッドスクイーズド状態($k=4$)にまでその制御の手を伸ばしている。操作のパラメータを調整するだけで、重ね合わせる波束の大きさ、回転角、さらには空間的な分離の度合いを自由にプログラミングできる。これは、量子のキャンバスに前例のない自由度をもたらしたことを意味している。

比較項目 従来の量子ビット (Qubit) 標準的な猫状態 (Standard Cat States) 新しい兄弟猫状態 (Sibling Cat States)
情報の器 2つの状態 (0と1) 無限のエネルギー準位 (調和振動子) 無限のエネルギー準位 (調和振動子)
構成要素 離散的なスピンや電荷 古典的な振る舞いに近い「コヒーレント波束」 スクイーズド状態などの「高度な非古典的波束」
位相空間の対称性 適用外 単純な2回対称または4回対称 (空間シフトに基づく) 複雑な離散的回転対称性 ($k=3$で6回対称など)
Wigner Negativity 持たない (連続量空間での表現不可) 一定の負の領域を持つが、構成要素自体は正 構成要素自体が強力な干渉を生み、広大な負の領域を展開
エラー耐性の構造 多数の物理ビットを並べる力技が必要 光子(フォノン)損失エラーに対して脆弱な面がある 高度な対称性により、特定のエラーがコード空間外に飛び出し訂正容易

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「負の確率」が語る真の量子性。計算優位性への切符

生成された状態がどれほど「量子力学的」であるかを示す指標として、物理学者たちは「Wigner関数」と呼ばれる位相空間上の地図を利用する。位置と運動量を同時に正確に測ることは不確定性原理により不可能であるが、Wigner関数を使えば、両者の関係を擬似的な確率分布として視覚化できる。古典的な物質であれば、この地図上の「確率」は常にゼロ以上の正の値をとる。しかし、純粋な量子状態は波のように干渉し合い、地図上に「マイナスの確率(Wigner negativity)」という直感に反する谷間を作り出す。

オックスフォード大学の実験チームが再構成した新しい猫状態のWigner関数には、中央部に青く沈み込む広大なマイナスの谷間が明確に刻み込まれていた。論文のデータによれば、この状態のWigner Logarithmic Negativity(WLN:負の領域の深さと広がりを対数で評価した指標)は、同等のエネルギーを持つ単純なフォック状態(光子やフォノンの数が完全に確定した状態)や標準的な猫状態と比較して、はるかに高い値を示している。

この「負の領域」の広大さは、連続量量子コンピューティングの理論において極めて重大な実用的価値を帯びている。Wigner関数のマイナス領域の存在と大きさは、その計算が「古典コンピューターではシミュレーション不可能であること(量子優位性)」を保証する絶対的な条件となるからだ。彼らが作成した「奇数パリティのスクイーズド重ね合わせ状態」などは、ノイズのない理想環境下におけるシミュレーション値に近いWLNを叩き出しており、実験的なエラー(わずか $4.9 \times 10^{-5}$ レベルの測定エラーや、熱揺らぎによるデコヒーレンス)が存在する現実の環境下でも、その非古典的性質を頑健に維持していることが証明された。

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クラレンドン研究所の実験室で調整を行うOana Bazavan博士(左)とSebastian Saner博士(右)。彼らの背後にある光学系と真空チャンバーの内部で、単一のストロンチウムイオンがスピンと運動の複雑な舞踏を繰り広げている。(Credit: Department of Physics, University of Oxford. DOI: 10.1103/k1xk-yt42)

境界線の探索。残された未解明のフロンティア

オックスフォード大学が切り開いたこの手法は、超伝導回路やオプトメカニカルシステム(光と機械振動の結合)にとどまらず、光ピンセットで捕捉された中性原子領域に至るまで、スピンと調和振動子が相互作用するあらゆる物理系に応用可能な普遍性を持っている。

しかし、探求すべき空白地帯はまだ残されている。本研究では、平均フォノン数 $n=0.1$ という初期熱状態の揺らぎや、毎秒300量子という加熱率(デコヒーレンス)が状態の完全性をわずかに削り取っていることが確認されている。この加熱率を極限まで抑え込み、さらに多体系(複数のイオンの運動モードの結合)へとスケールアップしたとき、この複雑な重ね合わせ状態がどこまで生存できるかは未検証の問題である。

また、応用面でのインパクトも計り知れない。スクイーズド重ね合わせ状態は、空間の微小な変動に対する感度が極めて高いため、トラップド・イオンを用いた局所的な微小電場の測定など、量子エンハンスド・メトロロジー(超精密計測)における究極のセンサーとなる可能性を秘めている。

さらに、マクロな質量を持つナノ粒子の振動子にこの技術を適用すれば、純粋な量子力学の世界と、アインシュタインの一般相対性理論が支配する重力の世界が交差する境界領域を直接テストするための実験場を開拓することになる。微視的な法則と巨視的な重力の統合は現代物理学における未解決の聖杯とされており、高度に「彫刻」された量子の振る舞いが、この究極の謎を解き明かすための歴史的な鍵となるのだ。

シュレディンガーの猫は箱の中で生死の境界を彷徨っていたが、現代の兄弟猫たちは、量子コンピューターのエラーの波を泳ぎ切り、古典物理と量子重力の間にそびえる見えない境界線を越えようとしている。研究を主導した一人であるRaghavendra Srinivas博士が語るように、人類は今、この奇妙で強力な量子状態が持つポテンシャルの「表面を引っ掻いたにすぎない」のである。