科学の歴史を紐解くと、新しい現象の発見はしばしば新しい数学的言語の導入を要求してきた。1920年代、エルヴィン・シュレーディンガーがミクロの粒子の振る舞いを記述する波動方程式を導き出したとき、彼はある奇妙な数学的道具を避けられなかった。二乗するとマイナス1になる数、すなわち虚数 $i$ である。シュレーディンガー自身、現実の物理現象を記述する方程式に虚数が入り込むことに強い抵抗を感じ、当初は実数のみを用いた方程式の構築を模索した。しかし、二重スリット実験に見られるような粒子の波としての性質や、波同士が強め合ったり打ち消し合ったりする干渉のメカニズムを計算する際、複素数(実数と虚数の組み合わせ)はあまりにも強力だった。

量子状態の「波の高さ(振幅)」を実数部で、「波のタイミング(位相)」を虚数部で表現するこの手法は、またたく間に物理学の標準言語となった。だが、アルベルト・アインシュタインをはじめとする一部の物理学者は、測定可能な物理量(位置、運動量、エネルギー)はすべて実数であるにもかかわらず、その背後にある自然の深淵に虚数が横たわっていることに根源的な居心地の悪さを抱き続けた。自然界は本当に虚数を要求しているのか。それとも、それは人間の頭脳が生み出した計算上の便利な帳簿に過ぎないのか。この問いは、一世紀にわたり物理学の深層でくすぶり続けてきたアポリアであった。

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2021年の決定打が孕んでいた死角。実数理論の破綻と「テンソル積」の罠

虚数は本質か、便宜か。この長きにわたる論争は、2021年に大きな転換点を迎えた。科学誌Nature(600号、625頁)に掲載されたMarc-Olivier Renouらの研究論文は、「特定の前提条件の下では、実数のみを用いた量子論の定式化は現実の実験結果と決定的に食い違う」ことを理論的に示し、さらにその後、複数の研究グループが光子の量子もつれを用いた実験によってこれを裏付けたのである。

この実験は、ベルの不等式の破れを検証するような高度な非局所性ネットワークを用いたものだった。独立して準備された複数の量子もつれ光源を複雑に絡み合わせるネットワークにおいて、標準的な複素数量子力学が予測する相関関係の統計を、実数空間だけで構築されたモデルは絶対に再現できないことが暴かれた。この鮮烈な結果は物理学界に広く受け入れられ、「量子力学における複素数の必須性」はもはや揺るぎない事実として定着したかに見えた。

しかし、ドイツのハインリヒ・ハイネ大学デュッセルドルフ(HHU)のDagmar Bruss教授と同大学の博士研究員Pedro Barrios Hita、そしてドイツ航空宇宙センター(DLR)からなる研究チームは、この2021年の「反証」の基盤となっていた、ある暗黙の数学的ルールに疑念の目を向けた。それが「テンソル積」である。

標準的な量子力学では、独立した二つのシステムAとシステムBを組み合わせて系全体を記述する際、それぞれの状態空間の次元を掛け合わせるテンソル積という数学的操作を用いる。2021年の研究は、「実数理論であっても、複数のシステムを結合する際には、このテンソル積の公理をそのまま適用しなければならない」という前提を絶対のものとしていた。BrussとBarrios Hitaは、Physical Review Letters誌(第136巻、240202、2026年)において、このテンソル積という数学的制約こそが物理的な実態にそぐわない過剰な縛りであり、実数理論を破綻させていた真犯人であると看破したのである。

見えない位相を現実に翻訳する。フラグ量子ビットと商空間が織りなす同期

彼らが採用したアプローチは、抽象的な数学の公理から出発するのではなく、極めて素朴で強力な「物理的原理」に立ち返ることであった。その原理とは「空間的に分離され、独立して準備されたシステムの一方に対して行われた局所的な操作は、もう一方のシステムに何の影響も及ぼしてはならない」という局所性の概念である。

複素数を使わずに、波の干渉において重要な役割を果たす「位相」の情報を扱うため、研究チームは各量子システムに「フラグ(標識)」と呼ばれる追加の2レベルシステム(フラグ量子ビット)を導入した。複素数における実部と虚部という二つの情報を、実数空間の独立した物理的自由度として持たせるための拡張である。数式で表現すると、複素空間における純粋状態ベクトル は、実数空間において次のようにマッピングされる。

ここで、下付き文字 $F$ はフラグ量子ビットを表している。複素数における全体的な位相の回転 は、実数表現においてはフラグ空間での回転行列 に直感的に翻訳される。このマッピング自体は、これまでにも考案されてきた実数理論の手法と軌を一にする。

問題は、複数のシステムを結合するときに起こる「次元の過剰な増殖」である。システムAとBをそれぞれ実数表現に拡張してから従来のテンソル積で結合すると、必要以上の実数次元が生まれてしまう。量子力学には、ある独立した系の位相の変化が、系全体あるいは別の部分系に影響を与え得る「位相キックバック」と呼ばれる極めて重要な性質がある。テンソル積で単純に結合された実数空間では、この全体としての位相の同期が崩れてしまうのだ。時計に例えるなら、それぞれの部屋に別々のマスタ時計が置かれてしまい、建物全体の時刻を厳密に同期させる手段が失われてしまう状態に等しい。

この矛盾を根本から解消するため、研究チームは「商空間(quotient space)」という強力な数学的手法を用いた。テンソル積で生成された広大な実数空間の中で、物理的に同じ状態を表すべき要素同士を「同値関係」として縛り上げ、余分な自由度を切り落としたのである。数式的な表現では、系の状態空間は という形で記述される。

これにより、フラグ量子ビットは個々のサブシステムに孤立して存在するのではなく、複合システム全体でグローバルに共有される「単一のマスタ時計」の役割を担う。この数学的な再構築により、遠隔地のシステムへの操作が局所的に閉じるという物理的要請を完璧に満たしつつ、2021年の論文で提示された複雑なベル試験を含め、標準量子力学と全く同じ実験予測を実数のみで導き出すことに成功したのである。

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3つのサブシステムからなる量子系における位相の取り扱いの比較。(Credit: P. Barrios Hita et al., Physical Review Letters. DOI: 10.1103/4k13-sdjh)

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パラダイムの比較。テンソル積という制約からの解放

今回の発見がどのような構造的優位性を持つのか、これまでのパラダイムと比較して整理する。

比較項目 従来の標準量子力学 2021年の実数理論モデル 本研究の実数理論フレームワーク
使用する数値 複素数(実数+虚数) 実数のみ 実数のみ
系の結合ルール テンソル積 テンソル積 局所性に基づく商空間の同値関係
実験との整合性 全ての実験結果を正確に予測 特定の多体系実験(ベル試験など)で破綻 標準量子力学と完全に一致
位相の処理 虚数単位 $i$ による複素位相 状態空間の拡張による局所的な実数回転 システム全体で共有されるフラグ回転

この表が示す通り、2021年の段階では「実数のみ」という条件と「テンソル積」という条件の両方を満たす理論が現実の実験と衝突した。当時の科学コミュニティはそこで「実数が間違いであり、自然界の記述には複素数が必須である」と結論付けた。しかし、本研究は「誤っていたのは実数への固執ではなく、テンソル積という数学的公理への盲信である」という全く新しい視座を提供している。

量子コンピューティングの地平と「同種粒子」という次なる未踏域

この成果は、計算手法の些末な変更を意味するものではない。現在世界中で激しい開発競争が繰り広げられている量子コンピューティングの分野において、情報の表現方法やアルゴリズムの基盤構造に直接的な波及効果をもたらす。

既存の量子情報理論のほぼすべては、複素テンソル積という強固な土台の上に構築されている。もし基礎的な物理系が実数空間と商空間の組み合わせによっても完全に記述可能であるならば、古典コンピューター上で量子系をシミュレーションする際の新しい最適化手法が生まれる可能性がある。複素数の演算は実数の演算よりも計算コストがかかるため、特定のアルゴリズムにおいて実数表現に変換してから処理を実行し、結果を再び解釈するというアプローチが、シミュレーションの大規模化に寄与するかもしれない。さらに、量子ハードウェアにおける複素位相エラーに対する新しいエラー訂正符号の設計において、これまで見過ごされてきたアーキテクチャの選択肢が開かれる余地がある。

一方で、未解明の領域も明確に提示されている。本研究の枠組みは、電子Aと電子Bのように「区別可能な」個別のシステムに対しては極めて自然に適用できる。しかし、光子や極低温のボース粒子など、物理学的に完全に区別がつかない「同種粒子(indistinguishable particles)」を扱う場合、事態は極めて複雑さを増す。第二量子化と呼ばれる場の理論の枠組みにおいて、粒子そのものではなく「モード」に対して局所性の原理をどのように適用し、商空間の同値関係を矛盾なく定義できるかは、これからの理論物理学が挑むべき大きな研究の空白として残されている。

量子力学は、人類が宇宙のミクロの階層を理解するための最も精密なレンズである。そのレンズを磨き上げる過程で、虚数という素材は本当に不可欠なものだったのか。HHUとDLRのチームが示した鮮烈な証明は、私たちが自然界を記述する数学的言語に対して、依然として強い先入観を抱いていることを突きつけている。数式に刻まれた「自明の公理」を疑い、物理的な実態から理論を再構築する彼らの探求は、量子情報の真の姿を理解するための長い道のりにおいて、極めて重要な道標となるはずだ。